手賀沼通信第100号は皆様からお寄せいただいたお祝いのメッセージで飾らせていただきます。何よりも増して100号の記念となりました。ご提案いただいた森正男様とお寄せいただいた皆様に深くお礼申しあげます。
 ただ、お寄せいただいたメッセージの中には過分なお言葉で面映い感じがするものが数多くありました。一部省略させていただいたところもあります。今でもこんな手賀沼通信を皆様にお送りしてよいものかと疑問に思っております。100号作った中で初めて感じた気持ちです。
 メッセージをお寄せくださった方には誠に申し訳ありませんが、飛ばしながらお目を通していただければと思います。
 なおメーセージはお名前を添えさせていただき到着順で掲載させていただきました。

100号に皆様からいただいたメッセージ

<田中勉様>
 手賀沼通信第98号受信しました。
 あと2号で100号ですね!毎回印刷して保存していますが、フォルダーに入らなくなりましたので、100号までを丸善の「製本」という、本のようになるフォルダーに入れて保存し、101号からまた今のフォルダーにファイルしようと思います。私の蔵書(と言っても気に入った単行本、文庫本と専門書などですが)の一つにします。
 1号の発行日が1998年4月20日ですから、新田様のご努力には敬服致します。


<松下孝夫様>
 手賀沼通信の発刊、100号ですか!!
 その昔、職場でご一緒させて頂いていた頃、「ウルトラじいさん」とか「元老(元気な老人)」とか、お元気に人並み以上な活躍をされている方々を評していたことを思い出しますが、正に今の新田さんを評するに相応しい言葉かもしれませんね。 関心を持って色々な角度から物事・ヒト・環境などを捉えて発信される素晴らしいエネルギーをお持ちになっておられますね。
 これからも「新田さんの目」からのご発信を楽しみにしております。
 先ずは「健康第一」です。


<小宅信吾様>
 いつも手賀沼通信の送付ありがとうございます。定年後は会社という集団を離れ、どうしても一人の孤独な存在になり勝ちです。その様な中で共に歳をとっていく仲間たちとの連帯感をこの紙面は提供してくれるものだと思います。
 気張らず、頑張らずしかし賢く知恵ある生き方を追求してください。


<北村尚巳様>
 「手賀沼通信第100号発行、おめでとうございます。100号まで発行をお続けになられた努力に敬意を表します。」
 これを契機に、バックナンバーをご自身のWebページに掲載されたら如何でしょうか?Webですと、簡単に過去のものを見ることができると思います。


<小池克彦様>
 100号発行おめでとうございます。途中から読ませていただいておりますが、そんなに続いていたとは驚きです。新田さんのねばりと献身に感謝いたします。今後とも面白くて役立つ企画をお願いします。100号分まとめて市の図書館に寄贈したら喜ぶと思いますが・・・福嶋市長に話しましょうか?


<篠原寿一様>
 手賀沼通信第99号をありがとうございます。いよいよ100号が目前に迫りましたね。頂上が目の前に現れ、あと一息で登頂という、あのワクワクした気分なのでしょうか。おめでとうございます。
 私は途中からの読者ですが、8年2ヶ月で99号ということは毎月欠かすことなく手賀沼通信を発行し続けたということですね。これもすごいことだと感服しています。
 頂上を極めた者だけが味わえる絶景と満足感を堪能したあとは、また次の頂上を目指してください。私も、その都度発信される情報をこれからも楽しみにしています。


<樋口亮太様>
 記念の100号おめでとうございます。毎回感心と感謝をもって拝読させて頂いております。
陳腐な「織り込み都々逸」もどきをお贈りいたします。
  がのさとにて
    んばるひとに
      まのかっぱも
         いおどる
手賀沼の主、かっぱ連も祝福していますよ〜!


<辻野弥生様>
 手賀沼通信第99号ありがとうございました。まとめられたこれまでの国内外のニュースを見て、こんなにもいろんな出来事があったのだなと、改めて驚いています。矢継ぎ早に起こるこのところの事件事故に、いちいち記憶にとどめる暇もない状態といった感じです。
 それにしても、継続は力といいますが、すごい記録ですね。私も、スタートさせたことがらは、新田さんをお手本に身体の続く限り、継続させたいとおもっています。
 100号を目前にちょっと早めですが、おめでとうございます。


<小林茂様>
 手賀沼通信、あと1号で100号おめでとうございます。私などはとても息が続きません。健康に留意されながら次ぎの200号を目指してください。


<森正男様>


<渡辺大六様>
 手賀沼通信有難う御座いました。後1号で100号ですか、スゴイですね!本当にご苦労様でした。
 改めてこうして8年余のまとめを見せていただくと月日の流れと共にいろんなことを思い出します。何かと考えるキッカケをいただいたような気がします。有難う御座います。益々のご活躍をお祈りします。


<森實様>
 手賀沼通信100号おめでとうございます。
 私も92号の紙面をお借りして闘病記の掲載でお世話になり読者の皆様から感想文をお寄せ願い手賀沼通信の偉大さに感激を覚えました。継続は力なりです。新田さんの気力がつづく限り発行の継続を願って止みません。


<大倉明治様>
 手賀沼通信がもう次回で100号!よくやりましたね。
 創刊の翌年からでしょうか、私にも頂戴してそれ以来ずっと愛読させていただいています。どうもありがとうございます。
 あの頃は、FDが使えるソニーのデジカメをお持ちでしたね。手賀沼の水鳥の写真も見せていただいたことがありましたっけ。もうデジカメは新しいのをお使いのことと思います。当時私も同じタイプのものを使っていましたが、故障が続き修理代が高くつきました。結局、修理して間もなく Finepixに買い換えました。
 『高齢者の豊かな生活のために』というテーマで、いろんな話題を取り上げられ、年金の話や病気や健康管理の話、・・・等、いずれも大変重宝しました。旅行記など、楽しく読みました。寄稿者も幅広く、話題が豊富でしたね。
 私は1回だけの寄稿に終りましたが、また機会があれば別の話題で、と考えています。(水泳、合唱、俳句の英訳・・・) そんなことはないとおもいますが、もし、記事が不足することがあれば、声を掛けてください。
 これからも楽しみにしています。


<直井秀夫様>
 手賀沼通信は拝受致しました。何時も何時もご配慮有難う御座います。
 8年2ヶ月に及ぶ通信随分楽しく拝読させて頂きました。ときどきの身近な事柄から社会的テーマ等作者のご苦労も御ありと思います。
 何時も素晴らしい通信感謝申し上げます。


<千葉信子様>
 いつも手賀沼通信有難うございます。8年間いろいろ勉強になり、新田さんのご意見に拍手をしたくなる思いで読んだり、可愛いいお孫さんとの交わりを思わせる小説を楽しみながら情景が浮かんでくるような気がしたこともありました。
 ゼミで初めて手渡しでいただきましてから、かなりの月日がたち8年間の大きな出来事を書いて頂き遠い過去に思っていましたことがかなり最近のことであったりで記憶力の減退を再確認する思いです。
 200号を目指していただき私もその中の一読者でいられますよう願っています。
 100号誕生をお祝い申し上げ、お礼を申し上げます。


<小嶋英雄様>
 いつも送付ありがとうございました。
来月で100回ですか。おめでとうございます。大したものですね。
これからもますますの発展を祈っています。


<田中道義様>
 手賀沼通信99号拝見しました。
 発行の動機と経緯、国内外の情報の収集、その内容の構成、投稿の分析、などなど大変興味深く拝見しました。新田さんの絶え間ない学習心と実行力には頭が下がります。
 これから200号にむかって一層の充実をお図りになられることをお願いすると共に心からその成功をお祈りいたします。


<森岡明治様>
 手賀沼通信第99号の配信有難うございます。
手賀沼通信発刊当時は未だ読者のお仲間入りをさせて頂いて居りませんでしたが、今号記事で当時を振り返り、「高齢者の豊かな生活のために」とするサブタイトルと発刊のいきさつに惹かれて配信をお願いしたことを思い起こします。
 発行人として『情報発信はボケ防止に有効』というメリットはお有りでしょうが定期的な情報発信は大変なご苦労を伴うものとお察しし、ご努力に敬服する次第です。
 私はひたすら情報を受けるだけのノーテンキな読者であり続けるかも知れませんが200号発刊を目指す次なる大目標の達成を楽しみにしております。先ずはご自身やご家族の健康維持が大前提ですね。


<川路善文様>
 手賀沼通信第100号おめでとうございます。私はすこし早めに退職(57才)し、商社マン生活35年の経験を生かして自営業(在宅翻訳業)として独立しました。現在6年目になります。我孫子を終の棲家とし、実家の鹿児島を時々訪ね、母親(妹と同居、89才)の様子を見る生活です。退職後始めた男声合唱、俳句、ボランティアの我孫子市報英訳、同窓会活動などけっこう忙しい毎日です。
 我孫子は知的水準も高く、田園風景も多く田舎で生まれた私にとり住みやすい町だと思っています。このような町に手賀沼通信があることは高齢者にむかいつつある私にとり生活の指針にもなっています。地域のみならず各地のオピニオンリーダーとして、この通信がますます発展することを祈念しています。


<多田奨様>
 「手賀沼通信」と出会ったのは2002年(平成14年)のことで、今から4年前のことです。きっかけは、私が2001年(平成13年)3月末で退職いたしまして、テニス仲間の人生の先輩から誘われて、野田市の“生涯学習グループ”「野田ゆうゆう会」に入会したのがそもそものきっかけです。入会後、私の提案で会報を発行しようということになった折に、会員で、「手賀沼通信」発行者の新田さんとお友達の近藤さんが、サンプルとして私に見せてくれたのが始まりです。
 「手賀沼通信」を見て、“目から鱗が落ちた”観があり、内容や、構成が私がやりたかったものとぴったりだったので、早速自前の個人通信「江戸川グリーンロード通信」を創刊いたしました。
 その後、新田さんに私の個人通信をお送りして、相互にやり取りをすることになり、今まで続いております。(新田さんとは近藤さんを介してご紹介していただきお会いしたり、年金のエキスパートとして、「野田ゆうゆう会」の講師として講演をしていただいたり、通信だけでなく、幅広くお付き合いを頂いております)
 というわけで、私と新田さんのつながりは、「手賀沼通信」に触発されたもので、個人紙の発行という共通の土台ですが、先発というだけでなく、内容の豊かさ、教養の高さも当方が弟分というところで、お手本にしております。
「手賀沼通信」の記事はどれもすばらしいものばかりですが、個人的に興味があるのは第97号掲載の“柏の高齢者サークル”「あけぼの会」の紹介記事です。内容は会長の家田さんご夫妻による手作りの「旅行、映画会、講演会、会報発行」等というもので、企画実行されるお二人のエネルギーが大変だなーと感心いたします。
 私の夢のひとつに、この「あけぼの会」のような楽しい仲間との“遊びと教養磨きのサロン”開催があり、近い将来、そのような試みができるといいなと思っています。


<伊藤健次様)
 今月で第99号、早いものでもう8年読ませてもらって居るわけですね。と読む側では簡単に言えますが、発行する方では、本当に大変だったことでしょう。年金、健康問題、オリンピック、確定申告等々バラエティに富んだ記事の一つ一つが印象に残っています。
 文章を書くということは、大変なこと、しかも続けることは、なかなか出来ないことです。文章の苦手な私に、反省と励ましを与えてくれる手賀沼通信です。
 これからは、200号目標だそうですが、過去の8年間とは、想像も出来ない変化や出来事が記事になるかもしれませんね。益々のご活躍をお祈りいたします。


<岡部勝司様>
 いつもいつもありがとうございます。
 発刊のイキサツなど興味深く拝読いたしました。ご縁ができてご送付いただいた通信は82号からですが、改めてサッともう一度目を通してみました。特に印象に残っているのは、“カテーテル”の体験記、“遊歩道の草刈問題”、弟さまのエッセイです。いずれも「手賀沼通信」のこれからの方向を示唆する内容と文章だと思います。
 ありがとうございました。


<宇都宮義文様>
 新田君! 100号達成慶賀のいたり。君、元来刻苦精励の士。省みて当方甚だ忸怩たるもの有之。田舎の中学校以来の付き合いであり、今更偉業達成についてアレコレ讃辞を呈するのも面映ゆいのでお許し頂きたい。ただ我々同期生一同は「古希」到達、客観的には結構な(とし)なのであるから無理しないで怠け乍ら(・・・・)当通信発刊を行って頂きたいもの。(同期生の多くの者の願い)


<家田和利様>
 手賀沼通信第100号、誠におめでとうございます。陰のご努力に敬意を表します。
 「継続は力なり」と昔から言われますが、言うは易く行うは難し、です。始めた以上、何としても続けたい、尻切れトンボは誰もいやだ、とは誰しも思いますが、でも途中で、何の為に、どうしてと壁に突き当たる事もあったでしょう。ネタ探しに困った事もあったでしょう。でも、やって居る内に道が開け、続いて来たと言うのが実情でしょうか。
 手賀沼通信の特徴は、新田さんご本人も言って居る様に、「新聞は本からの一般論でなく、自分の体験や取材をベース」にして居る事です。これは長い事には大変な労作です。
 実は、私も地元の高齢者グループ活動の中で、「あけぼの会ニュース」を平成6年12月に第1号を発行し、この6月に発行予定が第143号(他に号外34号)になります。手賀沼通信より一寸ばかり兄貴分ですが、発行の意図は全く違い、自主取材ではありません。 
 テレビでニュースは知って居ても、新聞や本の社説やコラム、評論を読む事の少ないのが高齢者の常。こう言ったモノを届け乍ら、会員からの投書や消息を載せようとしたのですが、モノを書く事から遠ざかって了った方が多く、結局、私から一方的に情報とそれに対する私の短い意見になって居ます。でも、続いていますし、出典は明らかにして居ます。
 発刊当時の古い記事から、面白いモノをご紹介致しましょう。

亭主を早死にさせる10カ条(第2号、平成7年正月)
@うんと肥らせる
A酒をうんと飲ませる、砂糖や菓子をうんと食べさせる
B取り分け大切なのは、夫をいつもすわらせて置く(運動不足にする)
C飽和脂肪酸、即ち肉やラード等、冷えると固まる脂を沢山食べさせる
D塩分の多い食べ物に慣れさせる
Eコーヒーをがぶがぶ飲ませる
F煙草を一服どうぞと言って勧める
G夜更かしをさせる
H休暇、旅行に行かせない
I最後の仕上げに、終始ガミガミ文句を言って苛める(ハーバード大学 J.メイヤー教授)
 栄養学の専門家メイヤー教授は健康で長生きする条件を「十カ条」の裏返しと言う形で提示して居る。即ち、老後の生活は健康に注意し、適度の運動、規則正しい生活、ストレスを溜めずにリフレッシュし、お互い労わり合って感謝して生活することとして居る。(月間監査役より要約)

長生きの秘訣(バカになれ、しかし大バカになるな)(第3号、平成7年2月)
 歳をとったら出しゃばらず
 憎まれ口に泣き言に
 人の陰口愚痴言わず
 他人の事は褒めなはれ
 知ってる事でも知らん振り
 何時でもアホで居るこっちゃ
 ボケたらあかんボケたらあかん
 長生きしなはれや

 勝ったらあかん負けなはれ
 いずれお世話になる身なら
 若いもんには花もたせ
 一歩下がって譲りなさい
 何時も感謝を忘れずに
 どんな時にもおおきにと
 ボケたらあかんボケたらあかん
 長生きしなはれや

 我が子に孫に世間様
 どなたからでも慕われる
 ええ年寄りになりなはれ
 頭の洗濯生き甲斐に
 何か一つの趣味持って
 せいぜい長生きしなはれや
 ボケたらあかんボケたらあかん
 長生きしなはれや

 第100号おめでとうございます。更なるご発展をお祈り致します。

今から100年前の世界と日本

 いただいたメッセージは4ぺージを越えました。そのため6ページにしましたが、今度は紙面が余ってしまいました。そこで100号にちなんで100年前(明治39年)の出来事を調べてみました。(「日録20世紀」より)

1.日露戦争捕虜の「松山収容所」抑留が終了
 1906年2月16日松山市の高浜港から1隻の汽船が出航しました。松山収容所にいた最後のロシア人捕虜の送還船でした。
 前年の1905年、日本海海戦で東郷元帥の率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を殲滅し、日露戦争が日本の勝利で終結しました。
 日露戦争中に日本には8万人ものロシア人捕虜が送られてきました。日本政府は彼らを丁重に扱いました。「野蛮な国」のイメージを払拭して、悲願の不平等条約改定に向けた日本政府の戦略でもありました。
 日本の捕虜収容所の中で松山収容所は将校を中心に寺院や公会堂など8ヵ所に収容し、全国でも中核的な存在でした。そして捕虜を大切に扱ったことで知られています。松山に捕虜が最初に到着したのは1904年3月16日、一時は6000人もの捕虜を収容しました。当時の松山市の人口は約2万人、実に4人に1人がロシア人となりました。到着する捕虜は市長や県の高官が出迎え、夏目漱石ゆかりの「坊ちゃん列車」で港から市内まで移送する際には、捕虜は1等車、市長らは3等車という気の使いようでした。「マツヤマ」の名は、ロシア軍にも知れ渡り、ロシア兵の中には「マツヤマ」と叫びながら投降した人もいたそうです。
 松山は、日露戦争で活躍した秋山好古、真之兄弟の出身地です。司馬遼太郎の「坂の上の雲」で有名になりました。私は松山南高校出身ですが、子供の頃、秋山兄弟やロシア捕虜のことを祖父母からよく聞かされたことを覚えています。

2.日本国策会社「満鉄」創立
 1906年11月26日南満州鉄道(満鉄)が創立され、翌年4月1日より営業が開始されました。初代総裁は台湾総督府民政長官で後の東京市長になる後藤新平でした。
 満鉄は日露戦争でロシアから獲得した、東清鉄道(長春−旅順間)や支線、炭鉱などの経営を手始めに、そのモデルは英国の植民地経営を代行していた「東インド会社」でした。後藤新平は日本中から優秀な人材を集めました。満鉄が「知の集団」とか「人材の宝庫」と言われたゆえんです。創立時の社員数6914人は終戦直後に閉鎖されたときは日本人社員13万8804人になっていました。
満鉄は欧米列強や中国への配慮から、株式会社の体裁をとっていましたが、政府が半額出資しており、内実は国策代行機関でした。
 その後経営を拡大、1932年には満州全土の鉄道と関連会社40社を傘下におさめる“満鉄コンツェルン”に成長しました。

3.1906年の年間の出来事
1月:満州に関する日清条約公布
2月:韓国総督府開庁。伊藤博文統監が韓国着任
3月:鉄道国有法案公布
4月:東海道線、新橋−神戸間に急行列車(所要時間13時間40分)
5月:アルプスの世界最長のシンプロントンネル完成
6月:日本で始めてのゴルフのホールインワン達成(六甲山ゴルフコースでドルフィンガー)
7月:富士山頂に郵便局開局
8月:日米海底ケーブル開通
9月:タバコ「ゴールデンバット」発売(1箱4銭)
10月:国際遭難信号「SOS」がベルリンの会議で決定
11月:東京競馬会の第1回の競馬開始
12月:米国で世界初のラジオ放送成功

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