今月は投稿いただいた旅に関係のある寄稿文を二つご覧いただきます。
 岩崎さんは元の会社の同僚で、退職後も同じ仕事で時々顔をあわせております。なかなか訪れる機会のない南アフリカの興味深い紀行文をお寄せいただきました。
 私の弟の「卯の花」は自分と芭蕉の旅にふれた情感たっぷりのエッセイです。

特別寄稿
南アフリカを訪ねて

岩崎 任男     

 アフリカは日本からは遠くて大きな広い大陸です。53ヵ国あり日本の大使館があるのはその内24ヵ国だそうです。よく知らないアフリカですが長女が夫の赴任に伴い、家族で南アフリカのヨハネスブルクに住み半年になりました。アメリカン・スクールに1年生の子供を入れ、どんな環境で生活しているのだろうか、不安と興味を抱きながらの旅行でした。
 日本から南アへの直行便はないので、どこかの国を経由して行きます。
 成田から夜出発しシンガポールまで6時間、乗り継ぎヨハネスブルクまで10時間、日本での移動やいろいろな手続きなどを含めると約20時間丸1日かかるといっていいでしょう。途中は夜間で寝ることができたので、苦にならず長旅とも感じなかったのが幸いでした。時差は7時間です。
 今回利用したシンガポール航空は世界の中でも人気度が高いと聞いていましたが、エコノミーにも関わらず座席もゆったりし、食事の内容もよくアルコールも無料で果物も食後の外、夜中にも果物バスケットを持って好きな物を選べるなど、スチュアーデスが頻繁に廻り飲み物や要求ににこやかに対応してくれ、その人気の秘密が理解できました。
 アフリカ大陸の最南端の国、”南アフリカ共和国”は、ダイヤモンド、金、プラチナ、ウラン、チタン等の鉱物資源、また野生動物の宝庫、世界で最初の心臓移植手術、最近までアパルトヘイトがあった国です。
 2010年にはFIFAワールドカップが開催、そして、ルイボスティー(この国特産のお茶)を初め、私たちの食卓にはさまざまなフルーツやエビなどの魚介類、ワインといった南アフリカ産の食品があふれています。豊かな自然と四季に恵まれた、日本と深い関係の国と言えます。
 南アの気候は南半球にあるので季節が日本とは反対です。9月中旬は冬から春への変わり目でした。ヨハネスブルクは海抜1000mで乾燥しており滞在中は晴天で寒くも暑くもなく快適な気候でした。
 小さい昆虫やカエルや鳥は家の周りにたくさんいますが、ライオンやキリンやシマウマなんて全然いません。「リザーブ」とよばれる動物保護区まで行かないと見られません。
 ヨハネスブルクは、想像していた以上に広い近代的な整備された都市です。高速道路網が発達し、速度制限も110kmでスムーズな流れで渋滞も少ないようです。
 駐在の日本人は、いわゆる富裕層、旧白人のみが許された地域にいます。比較的安全で、セキュリティがしっかりした住宅地に住み、買い物はイギリス系の高級スーパーや物が豊富なショッピングセンターを利用しています。日本食の店や寿司屋もあり、日本食材も手に入ります。物価は日本よりやや安いようです。
 通貨の単位はランド(RA)で100セント(C)=1RAで、2007年4月現在1RAは約18円です。紙幣は5種類で、肖像画の代わりに南アではBIG FIVEと呼ばれている動物が使われています。200RA :ヒョウ 100RA :バッファロー 50RA :ライオン 20RA :ゾウ 10RA :サイ
 普段はなかなかお目にかかれない動物ですが、南アフリカ国内の保護区などでは頻繁に見ることができます。その内の一つ、南アの北東に位置するクルーガー国立公園は、環境保護の手本として、世界の10大国立公園の一つに数えられているそうです。宿泊施設もあり、動物の観察には車でドライバーがガイドをかねて動物を探しながらゆっくり公園内をドライブします。ゲーム・ドライブと言われており早朝と夕方に行われます。今年4月に行きます。
 2泊3日で南アの南端の都市、ケープタウンに行きました。

ワインカントリー
 ヨハネスブルクから飛行機で約2時間でケープタウンに着き空港でレンタカーを借り「ワインカントリー」とよばれるワインの名産地に直行、ステレンボッシュ(Stellenbosch)という街に行きました。
 土曜日ということで営業していないワイナリーや、早々と店じまいのワイナリーがあり、希望の場所全部にいけませんでしたが、目的ワイナリーは開いていました。
 南アの現役プロゴルファーがオーナーをしているところでは、こちらのワインにしてはめちゃめちゃ高い!
 ちなみに、ワインテイスティングの横には壷がおいてあり、「テイスティング」するたびに残りはその壷にいれて酔っ払わないようになっています。それでもほろ酔い気分いなりました。南アフリカ・ワインは世界で第7番目の生産高です。

ケープタウン
 最近観光地として、特にヨーロッパの人達から人気が出てきたケープタウンの街や港は、世界遺産に指定されているオランダの東インド会社総督の居住区の五角形の城跡、1990年にネルソン・マンデラ氏がロベン島から出所したときにバルコニーでスピーチをした議事堂など古い建物があり、中世から貿易航路の寄港地として栄えたことがわかります。
 港のマーッケトは魚介類のレストランや各国の物産ショップがあり、夕方から人出も多く活気があり賑わっています。寿司屋も2軒ありました。

テーブルマウンテン
 ケープタウンの象徴であるテーブルマウンテン、街の直ぐ南にある標高1000mの切り立った岩山は山頂がほとんど平らで長細く名前のとおりテーブルのような格好をしていて、山頂からは北にケープタウンを一望でき、南にケープ半島の方が見えます。
 霧のような雲がたちこめ、山頂のから雲がたれてきて(テーブルクロスと呼ばれるらしい)本当に「テーブル」のようでした。
 下から頂上まで65人乗りの全長1200mのケーブルカーがあり、岩の上は平らで思ったより広く一周すると1時間近くかりそうです。

ボルダー・ビーチ
 ペンギンの生息地の国立公園で70cmくらいの中型のジャッカスペンギン(アフリカペンギン、ケープペンギンとも言う)をビーチのまわりを生垣や柵に囲まれた保護地区に、入場料を払って桟橋のような遊歩道から観察します。何百羽のペンギンを海岸の岩から少し陸地に上がった灌木のブッシュの中で子育しています。

ケープ半島
 ケープ半島の突端にある有名な喜望峰(ケープ・オブ・グッドホープ)は1488年バーソロミュー・ディアスがここに到達して、1492年ヴァスコ・ダ・ガマがここを通ってインド航路を開拓したと、世界史の教科書に出てくる場所です。
 ここからは、東にインド洋、西に大西洋が見られます。喜望峰はいつも風が強く、船がよく難破したらしく、「さまよえるオランダ人」という幽霊船の目撃談もあったようです。
 喜望峰の東1kmの所が半島の最南端のケープポイントです。ケーブルカーで249mの灯台が建っているケープポイント・ピークへ。時間のある人は遊歩道で登るのもよいでしょう。
 この半島は全体が国立自然公園で、多くの野生動物が生息しており、偶然にも海岸の傍でダチョウに会うことができました。

カーステンボッシュ植物園(世界遺産)
 ケープ地方は約9,000種の植物が生育する「植物の宝庫」です。テーブルマウンテンを挟んでケープタウンの反対側のこの植物園は、テーブルマウンテンのふもとに位置します。
 南アの国花でもあり花の王様とも言われている直径20〜30cmもあるプロテア シナロイダス(Protea cynaroides) には感激しました。

 初めての南アフリカの旅でしたが、世界遺産や見るべきものが多くあり、今度また、ゆっくり訪ねてみたい魅力のある国です。

参考URL;発見・南アフリカ共和国    www.sunqueen.co.jp/africa/history.htm
ルイボスティー    
www.sunqueen.co.jp/main.htm
カーステンボッシュ植物園    www.sanbi.org/frames/kirstfram.htm
プロテアの花    www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-protea_large.html


特別寄稿
卯の花
新田 自然     

 谷中にある朝倉彫塑館の中庭には、もう卯の花がその白い小さな花をつけ始めているだろうか。地下の豊富な湧水を利用した石庭は、白梅や山茶花など年中白い花が咲き、五月には卯の花が咲き始める。朝倉文夫は自ら設計したこの建物を昭和三年から七年かけて完成させたという。西洋建築と日本建築がうまく調和され、石庭はこれを繋ぐ。西洋建築のアトリエ棟には、早稲田キャンパスのシンボルである「大隈候の塑像」や「墓守」「猫達」などの代表作が展示されている。
 私が初めて訪れたとき、この庭には卯の花が白く小さな花を咲かせていた。たっぷりの水をたたえた池と、しっとりした苔に覆われた石の間に咲く可憐な花を見たとき、心が洗われたような清々しい気持ちになったことを思い出す。朝倉は四季を通じてこの庭を白い花で飾ったが、完璧を避けて一本だけ赤い百日紅を植えたという。

 卯の花はウツギの木に咲くためか、あるいは卯月に咲くためか、そうよばれているそうだ。ウツギとは茎の部分が中空なので「空木」と表記されるらしい。図鑑では二〇種類弱のウツギが載せられている。曰く、バイカウツギ、ハコネウツギ、ノリウツギ、ツクバネウツギ、タニウツギ等々、科目もユキノシタ科、スイカヅラ科、バラ科などなんでもかでも、茎が中空なら「ウツギ」と呼んだようで、日本らしい曖昧さがまた面白い。
 五月の山にはいると卯の花は珍しい花ではない。傾斜地などのそこここに白い可憐な花を見ることができる。白いばかりではなく、ハコネウツギなどのように白から赤に変わるため二色咲きの花もある。冬になって枯れると花の咲いた痕がとんがったままいつまでも付いているので、枯れたままの木であっても見分けることができる。私は自慢げに、これはウツギだよと仲間に教える。
 この花が好きで、我が家の小さな庭に植えてみた。すると見事に育って二メートルを越えるまでになった。もう小さな蕾をびっしりとつけ、まもなくの出番を待っている。満開になると、まるで雪が降ったように咲きこぼれ、やがて木下を白く飾る。

 東海道を歩いていたころのことだ、鈴鹿山脈のふもと、石薬師という日本橋から四十四番目の小さな宿場町に、佐佐木信綱記念館があった。街全体はひっそりしていて、どの家も美しく清掃され、歩いていて気持ちのよい町であった。町の中央部に記念館はあった。
卯の花の匂ふ垣根に、ほととぎすはやも来鳴きて
 小学唱歌はどれも季節感たっぷりの歌詞がつけられていたが、この歌と「早春賦」は幼い私にも季節感をたっぷり味合わせてくれたものだ。佐佐木信綱はこの美しい町に生まれ、国文学に貢献する傍ら、美しい短歌とこの歌を作った。信綱先生は卯の花の咲き乱れる様を「匂ふ」と表現された。匂ふとはつややかに美しく、照り輝く様をいうと古語辞典にある。

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出たのが弥生の二十七日、白河の関跡に着いたのが卯月二十一日のことであった。白河の関は五世紀のころ、蝦夷に対する防衛拠点として設置されたという関で、翁が訪れたとき、すでにその跡は定かではなかったようだ。勿来・念珠と並んで東国三関のひとつに数えられ、白河の関は陸奥への入り口として多くの古歌に詠まれた歌枕の地であった。
 心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。「いかで都へ」と便りを求めしもことわりなり。中にもこの関は三関の一にして、風躁の人身をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改めし事など、清輔の筆にもとどめ置かれしとぞ。
卯の花をかざしに関の晴れ着かな 曽良
 解説書によると、「いかで都へ」とは、
 便りあらばいかで都へ告げやらむけふ白河の関は越えぬと(平兼盛)であり、
「秋風」は
 都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関(能因法師)を意味し、
「紅葉」「卯の花」「雪」とそれぞれに古歌のフレーズを思い起こさせる仕組みとなっている。また曽良の句は、竹田太夫国行が白河の関を越える際、「秋風」の名歌に敬意を表し、装束を改めて通ったという故事をふまえているようだ。これらはこの時代の武士や商人達には常識の範囲であったのだろう、文章はそれらをさりげなく紹介して曽良の句を載せている。衣装をもたない乞食の旅のふたりが、装束の代わりに卯の花をかざして関を越えるという、この発想の洒脱さは、「あわれ」を通り越していかにも楽しい。
 芭蕉はとくに卯の花が好きなのか、さらに平泉で義経の忠臣として戦った兼房を悼んで、
 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
とまた曽良の句を載せている。
 中山道の後「おくのほそ道」を歩いているわたし達は、先日白河の関跡に着いた。こんもりとした丘陵に木が茂り、関跡というには平坦なところであったが、卯の花にはまだ早く、茨の花もなく、柳がかすかに芽吹きの気配を見せているだけであった。暗くて蔦葛の下がる森の中を歩きながら、老いた芭蕉と僧形の曽良が卯の花をかざして関跡を過ぎる姿をなんとなく想像していた。

 卯の花は、私にとっては悲しい花でもある。東海道を歩いていた頃、仲間のKさんが亡くなった。そのうち一杯やりましょうと話しているうちの訃報であった。人なつっこく、ひょうひょうとしていたKさんは、白装束で私の前から去っていった。私は曽良の句の表現を借りて
 卯の花をかざして友の遠ざかる
 と詠んだ。またその後わたし達の敬愛する禅の師赤根祥道先生が亡くなられた。東海道の後、中山道を歩いていて、とある峠道にさしかかったとき卯の花が咲いていて
 卯の花が咲いてまたくる祥道忌
 と詠んだこともあった。
 私にとって卯の花は、初夏の到来を感じさせてくれる、身近にあって、大好きな、そして悲しい思い出をもった花である。
 やがてその花が咲く。
 
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