今月は埼玉県越谷市の「東彩会」の会長の本多一基氏からいただいた旅行記と私のペンネームの由来になっているシドニー・シェルダンの自伝を読んだ感想文です。
特別寄稿
北欧の旅を楽しむ
本多 一基
8月26日から10日間の日程で北欧4ヵ国を旅行してきた。
スカンジナビアの国々には、太古から変わらない大自然がたくさん残っている。岩山を深くえぐって屹立するフィヨルドの断崖、いたるところに見られる美しい森と湖、夜の8時を過ぎても沈まない太陽など、大自然の神秘に触れることのできる旅行であった。以下、旅のハイライトを記してみた。
1.《デンマーク》
デンマークは山らしい山がなく平原と森林で、そのところどころに湖沼が横たわる、多数の島々からなる国である。
この国で最も有名なのが首都のコペンハーゲン。北緯55度というからサハリンの北端とほぼ同じである。ここが北欧旅行の表玄関である。
シェクスピアのレリーフ |
今回の旅行では、町の中心部を南北につらぬくストロイエの繁華街、北欧最大の遊園地といわれるチボリ遊園、コペンハーゲン港の入り口にある人魚姫の像、それに町中から少し離れているがハムレットの舞台となったクロンボー城などを見学した。
ストロイエは2000軒のお店が軒をつらねるショッピング街で、北欧の商品を扱っている店が多い。陶器、家具、インテリア、アクセサリー、フアッションなど何でも揃っている。陶器で有名な「ロイヤル・コペンハーゲン」の本店もこの町にあった。
チボリ遊園は、30年くらい前までは米国のディズニーランドと肩を並べる北欧随一のアミューズメント・パークであったが、現在はディズニーとは比べものにならない。それでも北欧の短い夏を惜しむかのように多くの人々で賑わっていた。
アンデルセンの代表作を題材にして作ったという人魚姫の像は、コペンハーゲン港の入り口付近にある。港を望む小さな岩の上に座っている人魚姫は意外に小さく、秋の陽光を浴びながら心なしか寂しそうに見えた。港に停泊する貨客船が、あまりにも多いためであろうか。
クロンボー城は、デンマークとスウエーデンの間の狭い海峡に面して建っている。今から600年前に北海方面からバルト海へ入ってくる船舶を看守する目的で造られたが、今までに何回も修復がなされている。
レンガ色の壁と緑青色の屋根の美しいお城で、入り口にはシェクスピアの小さなレリーフが飾ってある。私は薄暗いお城の中を歩きながら学生時代に東京で観た「ハムレット」の舞台を思い出した。
2.《ノルウエー》
スカンジナビア半島の西側を占めるノルウエーは、南北にのびる長い国で海岸線の延長は2000kmにも及ぶという。
海岸線から内陸部にむかって奥深く入り込んだフィヨルドは、エメラルド色の水を満々とたたえている。フィヨルドとは、氷河の侵蝕で何万年もかかってできた深い谷に、海水が侵入してできた狭くて長い海である。
ノルウエーで最も長いフィヨルドは、ソグネ・フィヨルドといって長さが200km、水深が1300mもあるという。私達は、そのソグネ・フィヨルドと もう一つのゲイランゲル・フィヨルドの2つを船に乗って見学した。
フィヨルド両側の切り立った断崖には、大小さまざまな滝が懸かり一幅の水墨画を見るようである。その景色はいかにも神秘的で、人間の知恵の及ばない世界のように思えた。
フィヨルド観光の拠点になっている町がベルゲンである。北海に面した寂しい感じの港町だが、首都オスローにつぐノルウエー第2の都市だそうだ。
昔、ハンザ同盟の町として繁栄し、市内には「ハンザ博物館」や世界文化遺産に指定された古い建物が幾つも残っている。博物館を見学すると、薄暗い天井から昔をしのばせる「乾燥鱈」が吊るされており少々不気味であった。
ノルウェーの森のトロール君と本多一基さん |
町には大きな魚市場があったので見学した。いろいろの魚が所狭しと並んでおり、その中に私達が日本で食べている魚もたくさん見られた。そういえばノルウエーから日本へは、北海で水揚げされる魚が大量に輸出されている。そんなことを考えるとノルウエーに対して急に親近感を感じ、お土産にキャビアの缶詰を買った。日本ではキャビアといえばチョウザメの卵の塩漬けで、たいへん高価なものだが、この国では魚の卵は すべてキャビアと呼んでいる。
ノルウエーでは、オスロー市内にあるフログネル公園と10余年前に冬季オリンピックが開催されたリレハンメルも見学した。
フログネル公園には、ノルウエーが生んだ彫刻家ビーゲランの作品200点が展示されている。子供から老人までの男女の裸像で、人間の生涯について何かを訴えているように思えた。
リレハンメルはオスローからバスで2時間ほどのところにあるが、この時期に人影はなく、山の斜面に造られたスキーのジャンプ台だけが寂しそうに建っていた。
3.《スウェーデン》
この国では首都のストックホルムとその周辺を見学した。ストックホルムはバルト海に浮かぶ20余りの島々からなっており、それらの島々はたくさんの橋で結ばれている。そのためこの町は「北欧のベニス」とも呼ばれている。
市内には王宮、大聖堂、市庁舎、美術館など、さまざまな建物があるが、最も時間をかけて見学したのは市庁舎と王宮だった。
市庁舎はメーラレン湖のほとりにあって、赤レンガとモザイク・タイル、それに黄金をたくさんつかった素晴らしい建造物である。建物の中央にそびえる塔の尖端には、金色の三つの王冠が秋の陽光を浴びて輝いていた。
ストックホルムの市庁舎 |
この建物には有名な「黄金の間」と「青の間」と呼ぶ大ホールがあり、毎年12月10日に「青の間」でノーベル賞授賞式後の晩餐会が開かれている。昔は「黄金の間」を使っていたそうだが、出席者が増えたため「黄金の間」 よりも広い「青の間」を使用するようになったという。日本の川端康成、大江健三郎、その他の受賞者もこの広間で来賓客を前にしてスピーチをなさっている。因みにこの建物は、第一次世界大戦が終わって世界の金価格が暴落したときに建てたものだと伺った。
王宮は市庁舎から10kmほど離れたところにある。市庁舎と王宮とは川で結ばれ、船がアクセスになっている。いかにも水の都らしい。
この宮殿は17世紀に王室の夏の離宮として建てたものだが、1982年から現在の王の居城となり、その一部を一般に公開している。フランスのヴェルサイユ宮殿を参考にして建てたそうで、裏側の広い庭園はヴェルサイユのそれにそっくりであった。
スウエーデンは昔から未婚の母が多く、私生児の多い国で有名である。今でもあまり変わっていないようだ。私は学生時代にスウエーデンの生んだ作家ストリンドベリについて学んだことがある。彼はたくさんの作品を残しているが、母国の社会批判をしたものが多かった。そのため故国の人々と反目するようになり、遂には母国を追われることになる。彼はなぜそれ程までに母国の社会批判をしたのだろうか。
それはストリンドベリ自身も私生児として生まれていたため、未婚の母を生み出す社会へ鋭い批判のホコ先を向けたのかも知れない。
ストックホルム市内に彼の残した原稿や手紙、それに文具類を展示した「ストリンドベリ博物館」がある。
4.《バルト海クルーズ》
ストックホルムからフィンランドのヘルシンキまでは、バルト海を16時間の船旅であった。船は32000トンの豪華客船「ガブリエラ号」で乗客は2400余名。ストックホルム港を午後5時に出港した船は、翌朝9時ごろヘルシンキ港に到着する。
船内にはパブ、カジノ、ディスコ、カラオケ、免税店などがあり、さながら海上に浮かぶ「娯楽の町」である。夕食のときのお酒は無料で飲み放題、ただしセルフサービスである。
船の中は11階まであって私の部屋は7階。部屋にはベッド2つと机、それにシャワールームとトイレがついている。夕食がすんだ午後8時ごろ上部甲板に行ってみると、バルト海の彼方に秋の夕日が沈むところであった。そばに誰もいないのがまことに寂しい。部屋へもどったが眠る気にもなれず、再び「娯楽の町」へ行ってみるとカラオケが始まっていた。
パブに入ると広々としていて感じがよく、そんなに混んでもいない。9時や10時は、まだ宵の口なのかも知れない。ワインをオーダーしたが意外に安かった。
5.《北欧の人々》
この旅行で感じたことが幾つかある。
第1は、北欧の人々は物静かで、シャイな民族だということである。ホテルの売店や町中のお店で買い物をしても、売り子さんは感情をあまり表さない。レストランのウエトレスも黙々と働く人が多かった。いつもスマイルを絶やさないイタリア人とは、対照的のように思った。
第2は、物静かな人達だが、夢を持つ民族だと思った。ノルウエーの人々は、深い森の中に「トロール君」という妖精一家が住んでいると信じている。トロール君は、心のやさしい正直な人でないと姿を見せてくれない。私はノルウエーの旅行中、最後の日にようやくトロール君を見ることができた。
またフィンランドの人々も、緑の森の奥に「ムーミン君」一家が住んでいると信じている。ムーミン君は日本でも有名だが、ヘルシンキ西方のナーンタリという大自然の中に「ムーミン・ワールド」がある。ナーンタリとは「美しい谷」という意味だそうだ。厳しい大自然の中で過さねばならない北欧の人々には、こうした夢を持つことが必要なのかも知れない。
第3は、北欧の国々は社会保障が素晴らしいということである。教育費は小学校から大学まで無料。医療費も無料。サラリーマンの年金は、サラリーマン生活の最後の給与とほぼ同額が死亡するまで支給されるようだ。羨ましい限りである。そのかわり税金は高くて収入の50%以上である。それでも税金の使途がガラス張りであるため、国民は政府を信用しているのである。とくにフィンランドは政治の清潔なことでは世界一だと伺った。
今回の旅行は、雄大な大自然に接しながらの楽しくて得ることの多いものであった。
シドニー・シェルダンの自伝を読む
1.シドニー・シェルダンとの出会い
私のペンネームは四谷知男です。「ヨツヤ トモオ」ではなく、「シダニ シルダン」です。シドニー・シェルダンからいただきました。
初めてシドニー・シェルダンを知ったのは、「真夜中の向こう側」という映画です。原題は「The other side of midnight」、女性を主人公とするサスペンス映画でした。原作を読みたいと思い、同じタイトルで翻訳されていた本を読みました。それがシドニー・シェルダンとの出会いでした。
なお「真夜中の向こう側」というタイトルの翻訳本はいまは超訳「真夜中は別の顔」になりました。
次に読んだのが「はだかの顔」(The naked face)でした。いまは超訳「顔」になっています。この2冊ですっかりシドニー・シェルダンのとりこになってしまいました。
それからは英語のペーパーブックを探しては読み漁りました。シドニー・シェルダンの本は、易しい英語で大変読みやすく書かれています。高校程度の英語の読解力があれば簡単に読めます。
2.自伝を読む
シドニー・シェルダンは今年(2007年)1月30日に肺炎の合併症でアメリカのカリフォルニアの病院で亡くなりました。89歳でした。
2004年の「Are You Afraid of the Dark?」(異常気象売ります)以後新作が出てこないので心配していたのですが、やはり年齢には勝てなかったようです。
今年の春、たまたま立ち寄った書店で、シドニー・シェルダンの自伝「the other side of me」を見つけ、購入して読みました。このタイトルは「The other side of midnight」からつけたものでしょう。この本を読んでシドニー・シェルダンの生涯に触れ、偉大なヒットメーカーのヒットの秘密を知ることができました。以下は自伝に述べられていたことです。
シドニー・シェルダンの小説は180ヶ国で売られており、51の言語に翻訳されています。1997年のギネスブックに、「The Most Translated Author in the World」として登録されました。2005年までに3億部以上の本が売れています。
シドニー・シェルダンは1917年にユダヤ系アメリカ人としてシカゴに生まれました。父親の仕事の関係で何度も引越しをした貧しい家庭でした。家計を助けるため母親も働いていました。
自伝はペーパーブックで428ページの大作ですが、そのうちの419ページは小説家になる前の話となっています。小説家として大成功を博すまでの苦心談です。自伝は17歳の時睡眠薬を飲んで自殺をしようとして、父親の言葉で思いとどまったエピソードから始まっています。
シドニー・シェルダンのもの書きとしてのスタートは脚本家としてでした。ブロードウェイでの舞台脚本、ハリウッドでの映画の脚本、テレビの脚本などを精力的というか、必死の思いで書いています。最初は生活の糧を得るためでした。何度も成功しましたが何度も失敗しました。
そして脚本家としての確固たる地位を獲得していくごとに、有名俳優やプロデューサーや監督との交流が描かれています。また、自分でプロデュースした話や監督した作品のエピソードも出てきます。
シドニー・シェルダンが小説を書き始めたのは53歳と、小説家としてはかなり遅い年齢でした。そこからスタートして18冊の本を書き、3億冊を越える本が売れたのは、脚本家としての努力の積み上げがあったからだと思います。脚本家としての下積み時代は、文字通り寝る暇もないくらいでした。
シドニー・シェルダンは小説18作品の他に、ブロードウェイの脚本を7本、映画の脚本を25本、テレビシリーズの脚本と製作を4シリーズ、子どもの本を10冊、舞台や映画やテレビの製作を6作品、監督を2作品の数々を世の中に送り出しています。1947年には映画「独身者と女学生」でアカデミー脚本賞を受賞しています。大変な才能です。
また自伝には家族や友人や仕事でのつながりのあった人が、382人も実名で登場します。私たちの世代が若い時に見た映画に登場する映画スターが、次々に出てきます。交流の範囲の広さが分かります。
自伝では小説について書いたページは10ページにも満たないのですが、そこにシドニー・シェルダンの小説についての思いが書かれています。
「映画や舞台やテレビや小説を書いてきたが、小説を書くのが一番好きだ。小説はほかと違った世界で、マインドとハートの世界だ。小説ではいろいろなキャラクターを創造して、彼らに命を吹き込むことができる。小説家になってから世界中を取材して、いろいろ興味深い人に会うことができた。取材は楽しみだった。」