今回は北海道の旅行記と弟のエッセイです。

冬の北海道の旅

 平成20年2月25日から29日まで、阪急交通社の「北斗星個室で往く大自然の神秘 流氷体験と名湯めぐり5日間」というパッケージツアーに妻と二人で参加しました。
 いただいた旅程は次のようになっていました。
 1日目は16時50分発「北斗星1号」で上野駅を出発。夕食は食堂車は利用せず特製弁当。
 2日目は南千歳駅に朝8時44分着。阿寒湖観光、屈斜路温泉「屈斜路プリンスホテル」で宿泊。
 3日目は摩周湖観光。網走・涛沸湖観光。旅行最大の目玉の網走港からオホーツク砕氷船クルーズ。北浜駅から浜小清水駅まで観光列車「流氷ノロッコ号」に乗車。層雲峡温泉「ホテル大雪」泊。
 4日目は層雲峡・銀河流星の滝見物。美瑛の丘めぐり。富良野・後藤美術館見学。洞爺湖温泉「洞爺パークホテル天翔」宿泊。
 5日目は大沼公園観光。函館五稜郭観光。函館元町散歩。函館から八戸まで特急。八戸から東京まで新幹線グリーン車利用。上野着22時2分。
 ところが実際には悪天候で最大の目玉が欠けた旅行になりました。

1.初めて経験する寒さ
 この期間の北海道はマイナス10度の世界でした。最終日の函館を除いては、日中の最高気温はマイナス5度からマイナス10度くらい、最低気温はマイナス10度からマイナス15度くらいでした。初めて経験する寒さでした。
 出かける前、何を着て行けばいいか見当がつきませんでした。とりあえず厚手の上下の下着、ウールのタートルネック、プルオーバーを着て、外に出るときは長めのダウンコートを羽織ることにしました。ウールの厚手の靴下、長めのマフラー、ウールの防寒帽子、手袋を用意し、ブーツを履きました。結果的にはこれでよかったようです。
 ホカロンを4種類持参しました。貼らないタイプ大小のサイズ、貼るタイプ、靴下用の4種類です。しかし使ったのは貼らないタイプのミニサイズと靴下用だけでした。
 風がなく太陽が出ていれば気温ほどの寒さを感じません。観光地やホテルの玄関などにところどころ気温が表示されていましたが、それほど寒いとは思いませんでした。
 ところが風が強いと寒さが身にしみます。骨までこたえるほど体感温度が下がります。北浜駅のホームでノロッコ号を待っている時は、まっすぐ立っていられないほどの強風でした。そのときは「さすが北海道」と、その寒さを実感しました。
 ただホテルの部屋は暑すぎました。寝る時はどのホテルも薄い布団か毛布1枚です。あまりの暑さに、ときどきヒーターをとめました。

2.日本は大きい。北海道は広い
 昨年ほぼ同じ時期の3月1日から7日まで沖縄本島を1週間旅行しました。沖縄は例年より寒かったのですが、長袖か半そでのシャツで過ごせました。それに比べて北の大地は厳冬と白一色の世界、曇ったり吹雪いたりすると、空と陸地の境界が分かりません。バスのドライバーはよく運転できるなと感心するくらいのモノカラーでした。
 最低気温も最高気温も沖縄と北海道を比べると、おそらく最大40度くらいの違いがあるのではないでしょうか。日本の北と南の差は大きいです。
 もう一つ感じたのは北海道の広さです。寒い北海道のなかでも、暖かい函館と寒い旭川や網走などとの気温差は小さくありません。最終日に山を下って函館に出ると、雪は少ししかなく、雪かきしたあとの東京といった感じでした。
 バスで走った距離も半端な距離ではありません。2日目330キロ、3日目230キロ、4日目365キロ、5日目240キロメートルでした。

3.豪華とは程遠い「北斗星」
 今回の旅の目玉の一つが寝台特急北斗星に乗ることでした。しかし乗ってみて期待はずれでした。
 北斗星B寝台個室は2人1室です。進行方向直角に靴を脱ぐ小さなスペースを挟んでベッドが2つあります。ベッドの幅は狭く大人一人の幅です。高さは立ち上がると頭がつかえます。横になれるのがとりえといった感じでした。ベッドを2段にして奇数番号の個室と偶数番号の個室で縦のスペースを共有し、上下にして別々に使うというデザインになっているようでした。
 もちろん個室にはシャワーやトイレはありません。洗面も出来ません。各車両に1ヶ所だけのトイレと洗面所にでかけなければなりません。
 北斗星は3月から片道2編成が1編成に減ることになりました。豪華に汽車の旅を楽しむには中途半端な列車だったのでしょう。
 東京と札幌を行き来する人は飛行機のほうが早い上に安く便利です。ビジネス客や帰省客やスケジュールのきつい観光客は飛行機を利用します。列車を利用するのは汽車の旅を楽しみたい人やゆっくり旅行したい人など限られています。
 乗ったことはありませんが、大阪−札幌間のトワイライトエクスプレスや上野−札幌間のカシオペアは北斗星よりずっと豪華と聞いています。JRは、豪華な寝台特急をもっと増やして旅行業者と提携し、ツアーで積極的に利用してもらうよう考えたほうがいいのではないでしょうか。
 北斗星が時代遅れなのは禁煙車が少ないことです。北斗星は寝台車が10両、食堂車が1両の11両編成です。そのうち禁煙なのはたった1両の寝台車と食堂車、それにロビーだけでした。

4.やっぱりムネオ道路は空いていた
 北海道の高速自動車道は大きく分けると2つのグループに分かれます。1つは札幌を中心とした道央自動車道でこれに小樽まで延びる札幌自動車道と夕張まで行く道東自動車道がつながっています。もう1つは北海道の中央からやや南よりの十勝清水から足寄までの道東自動車道です。夕張から十勝清水まで高速道がつながって初めて道東自動車道が高速道として機能するはずですが、その区間は一般道となっています。
 このぽつんと延びている高速道が有名な「ムネオ道路」です。足寄出身の鈴木宗男国会議員が建設させたといわれる道路です。
 走っていても前後に車はありません。対向車もごくわずかです。何台のクルマとすれ違うか数えてみました。途中から気づいたので池田−足寄間33キロの記録だけとなりましたが、13時25分からの22分間にすれ違った車は16台でした。こちらのバスも100キロ近いスピードで走っているので、実際には44分間に16台ということになります。2.75分に1台、前のクルマは4.5キロ先、後のクルマも4.5キロ後という感じです。冬なので熊にこそ会わないでしょうが、エゾシカやキタキツネが出てきてもおかしくはありません。はっきり言ってこんな道路は不要でしょう。

5.自然の気ままには勝てない
 今回のツアーは自然の猛威と気ままさを痛感した旅となりました。
 摩周湖見物は最初のスケジュールでは3日目となっていましたが、3日目の天気予報が雪模様だったため、ドライバーとガイドとツアーコンダクターの決断で、ホテルに入る直前に摩周湖に立ち寄りました。20年ほど前に行ったときはその名の通り霧の摩周湖でした。今回は冬空に映える完全凍結の摩周湖を眺めることが出来ました。旅程どおりだったら見られないところでした。摩周湖は不凍湖といわれています。今年はいつもの冬より寒さが厳しいのでしょう。
 3日目は予報どおり雪でした。それも雪が横に舞う吹雪でした。全室湖が眺められるというホテルからは屈斜路湖は全く見えません。摩周湖の観光道路も封鎖されていました。
 網走に近づくにつれ空は晴れてきましたが、強風のため砕氷船オホーツクに乗って流氷クルーズに出かけるツアーは中止になりました。おまけに流氷ははるか沖合い、せめて岸まで寄せていれば近くで眺めることが出来たのですが、それもかないませんでした。
 クルーズの代替案の博物館網走監獄の見学も寒さのため中止となりました。突風が吹くと外を歩くのは危険なためです。
 私たちより2日前に出発する予定のツアーは北海道の悪天候のためツアー自体が中止となったそうです。自然には勝てません。

6.観光開発にかける北海道
 北海道の経済は首都圏に比べるとかなり落ち込んでいます。夕張市が有名ですが、他に借金に苦しむ市町村もかなりの数にのぼっているようです。
 今回冬の北海道を旅してみて、北海道を活性化するには観光事業が大きな鍵を握っているのではないかと感じました。従来は冬の北海道はスキーとサッポロ雪祭りはあるもののそれ以外はあまり注目されていませんでした。
 今では、道民や業者や行政が懸命な努力をして、冬も人集めをするために頑張っていると感じました。高知県に住んでいる友人は北海道を旅行して、「高知県は官が道の駅をたくさん作って民のドライブインをつぶしたが、北海道にはドライブインがたくさん残っている」と感心していました。
 冬の北海道は沖縄に比べると、旅行のしやすさや見どころではかないませんが、美味しい冬の味覚と温泉では勝っています。今回もカニをたっぷり賞味しました。流氷も観光資源になりました。白鳥の飛来地にも観光客が集まっていました。
 層雲峡では氷瀑まつりをやっていました。氷像がきれいにライトアップされていました。雪はいっぱいあるのですが氷を作るのは大変な労力がかかるそうです。
 大沼公園で台湾の観光客が雪の上で大騒ぎをしていました。うれしそうでした。暖かい台湾から来るには服装だけでも大出費だったでしょう。
 美瑛の丘に行ったときは私たちもスノーモービルやスノーモービルが引くスノーボートに乗って子供のようにはしゃぎました。これも新しい観光資源として地元の人が考え出したのでしょうか。
 新幹線が北海道まで延びると4時間でいけるそうです。函館までが4時間なのか札幌までが4時間なのか知りませんが、空港までのアクセスを考えると新幹線での旅も魅力的です。青函トンネルは新幹線仕様になっています。いま地上部分を工事中とのこと、完成するのが楽しみです。

7.新しい発見
 雪の中を走っていていろいろ気づくこともありました。北海道は雪国の常として、雨戸や雨どいはありませんが、ブロック塀や生垣などもあまりないのに気がつきました。バスガイドの話では、北海道は日本各地から人が集まっているので開放的な風潮があるのと何より雪かきに邪魔なため塀がないとのことでした。
 雪が深くなるとどこが道の路肩か、車道と歩道の境界はどこか分からなくなります。路肩を示すため白と赤に塗られたスノーポールが立っていました。車道の端は電柱の電線にぶら下がった矢印型のスノーポールが示してくれます。暗くなると光るようになっています。
 北海道の雪には傘は不要です。吹雪の中を歩いても、雪を払うときれいに落ちます。濡れるということはありません。車は雪解けのびしょびしょのしぶきをかけながら走るのではなく、壮大な雪煙を巻き上げながら走ります。
 夕張からの一般道の石勝樹海ロードを走っているとき、森と雪原の間に延々と続く金網のフェンスがありました。ガイドさんの話ではエゾシカが田畑に入ってこないようにする柵とのことでした。エゾシカが増えすぎて北海道全体で年間30億円の被害があるそうです。
 4日間の雪道のドライブはいろいろ教えてくれました。白一色の世界をたっぷり楽しみました。

特別寄稿
つくし                                                      新田自然

 引地川の土手には、まもなく土筆が生えはじめる。薄緑色の坊主頭に茶色の袴をつけて、鉛筆が生えるように立ち上がってくる。その年の初めてのつくしを見ると、ああやっと春が来たなと感じるのは原体験なのだろうか、水仙よりも、梅の花よりも、わたしが春を感じるのはこのつくしである。山野草を摘むのは楽しい野遊びであるが、つくし摘みは、わらび採りやつわぶき採りよりはるかに楽しい。それはつくしの形がなんともかわいいことと、摘んだ感触が手に快いからだろう。
 粘土質よりも荒れ地や砂地を好むのか、河原や道端、墓地などにも見かけることが多い。成長すると頭から胞子を排出し、薄緑の頭は茶色となり、すかすかになった頭が軽くなって風になびく。四国遍路に行った友人がこんな句を詠んだ。
  四国ではつくしもパンチパーマかな  良瓶

土筆の味は懐かしい。アクを抜いて卵とじにすると、春の香りとほろ苦さを味わうことが出来る。春先の山菜としては蕗の薹、つわぶき、タラの芽などがあるが春の山菜には、香りと独特の苦みがあるように思える。青春はほろ苦さを伴っていると言うべきか。

 四国ではつくしのことを「ほうしこ」と呼んでいる。幼い頃「ほうしこ採りに行こう」と誘ってくれた友がいて、わたしには「つくし」より「ほうしこ」のほうがぴったり来るのだ。スギナの胞子茎で頭から胞子を出すので「ほうしこ」と呼ばれるのだろうか。つくしは形状から土筆と書き、昔はツクヅクシと称されたようで、源氏物語にも「蕨つくづくしをかしき籠に入れて」と書かれているらしい。それが詰まって「つくし」となったとは容易に考えられるが、その源は形状から「突々串」、スギナにくっついてでるところから「付く子」、「はかま」のところで継いでいるように見えるところから「継ぐ子」、それが「つくし」となったとあるが、わたしには「ほうしこ」がいい。

 わたしの育った瀬戸内の町は「ほうしこ」をこよなく愛する地域であった。春になるとほうしこ採りの子ども達が田圃の畔や河原に出て、屈んでほうしこを採っている。それぞれ秘密の場所を持っていてそれは誰にも教えなかった。八百屋には採ってきて「はかま」を取ったほうしこが笊に入れられ売られていた。知人の話では京都の錦市場で一パック五〇〇円で売られているそうであるが、販売時期がきわめて限られたものだからか、つくしを売っているところにはまだ出会ったことがない。
 正岡子規が生まれた松山はわたしの町から一二キロのところにあった。わたしの町の谷上山(たがみさん)という山には子規も来たようで頂上には句碑もある。子規もほうしこ採りはやったようで、晩年こんな歌を詠んでいる。
  くれなゐの梅散るなべに故郷につくしつみにし春し思ほゆ
 そして子規はその秋、ほうしこという言葉の通用しない、故郷から遠く離れた関東の地で還らぬ人となった。

 わたしの父親もほうしこ採りが好きでよく連れて行ってくれた。周辺に大きな川がないため、農地にはいたるところにため池があり、野焼きされた土手にはほうしこがいっぱい生えていた。家族中で弁当を持って出かけたもので、終戦後の遊びのない時代にはもってこいのピクニックだった。ほうしこ採りは楽しかったが、持ち帰ってはかま取りをやらされるのが嫌で逃げ回ったものだった。戦後四・五年経った頃、叔父が抑留されていた支那から戻ってくることになり、舞鶴港まで迎えに行った父の目に入ったのがほうしこの大群落であった。
「港の空き地にの、林みたいにほうしこが生えとって、どうしてここの人は採らんのじゃろうかと思った」父には宝の山のように思えたのだろう、この話は何度も聞かされたものだった。

 東海道を歩いていた頃、三河地方の田園地帯を歩いていたらつくしの生えている畦道に出くわした。ぽかぽかと暖かく時間もある、思わず何本か摘んでいたら、歩いていた全員が摘み始めビニール袋一杯の収穫となった。打上の飲み屋で店の親父に見せたら、そのまま料理してくれ、思わぬところで三河の春を楽しむことが出来たのだった。

 近くの工場のダイオキシン排水事件があってから、引地川のつくしは食べる気がしなくなり、我が家でもここ数年つくしを食べていない。つくし摘みの時期は、ほんの一・二週間くらいの短期間であり、タイミングを逃すと翌年まで味わうことが出来ない。もう何回春を迎えることが出来るか、分からない年ともなってきたので、暖かくなったら大山街道にでも、つくしを探しに出かけてみよう。やぶ椿の下に気持ちよく伸びている土筆を摘み、持っていった缶ビールと海苔巻きを楽しみ、持ち帰ってはかま取りで爪を汚し、久しぶりに春のほろ苦さを堪能してみたいものである。

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