あけましておめでとうございます
 年の初めの第130号は弟のエッセイと昨年10月に体験した手賀沼エコマラソンのボランティアの記録です。

お茶の水・神田界隈                                    新田自然

 OB会の役員を引き受けて、事務所のある駿河台の元の会社のビルへ行く機会が多くなった。ビルはJR御茶ノ水駅で降りて聖橋口から本郷通りを約二百メートル下ったところにある。昭和五十九年に本社ビルが完成して以来、仙台に転勤した三年間を除いて、いつも通った道である。春には本郷通りの銀杏の新緑が楽しめ、夏は神田川沿いの蝉時雨のなかを、秋は銀杏の落ち葉を踏みしめて通った道だ。

 御茶ノ水駅で下車して気づくのは「やたらと若者が多い」ということである。藤沢で目立つステッキを持ったお年寄りが少なく、まるで別の国に来たような感さえする。明治大学、日本大学、東京医科歯科大学など大学が七校も集中し、ほかに専門学校などを加えると都内有数の学生街で、古書店街やスポーツ用品店、楽器店など若者向きの専門店も軒を連ねる。元の会社のビルも中央大学の跡地に建っていて、六〇年安保闘争の頃は「日本のカルチェラタン」などとはやされた一角だった。今でこそオフィス街の雰囲気を醸すようになってきたが、会社が日本橋からこの地にやってきた頃、街はまだ学生街の臭いをふんぷんとさせていた。メシ屋、飲み屋ともに、学生向けの安さだけが売り物の店が多かった。

 「お茶の水」という地名を初めて耳にしたとき、なんとなく違和感を覚えた。地名に丁寧語がついており、「お○の水」などという地名は、たとえば「お酒の肴」というごとく、いまでこそ慣れてしまったが、地名としてはどうも馴染みにくかった。
江戸時代このあたりの水を将軍のお茶用としたことに起因するようであるが、いま流れている神田川の濁りからは想像もできない話である。
 この神田川は別のところを流れていたが、仙台藩が掘削していまの流れとなったようだ。秀忠と碁を打っていた伊達政宗が「いざ本郷より攻めん」と言って、パシリと急所に打ったのだろう、その一言があだとなって、地形的に見て江戸城の鬼門にあたるこの台地の掘削を命じられ、堀割は江戸城の外堀となった。かなり大きな船が通れるほどの深い川を掘るのは、さぞかし難工事であったろう。政宗は肥沃な仙台平野でとれる米を運ぶため、のちに「貞山堀」と呼ばれる運河を十キロ以上にわたって掘り続けており、その技術を買われての工事命令でもあったようだ。そして鬼門防衛への配置として、家康の居城がある駿河から勇猛な家臣団を連れてきて住まわせたため「駿河台」という地名となったそうだ。かの大久保彦左衛門の屋敷跡も駅近くにある。
 駿河台の地名は「神田駿河台」として地図にはあるが、「お茶の水」という地名は見あたらない。地図上「お茶の水」が見られるのはJR「御茶ノ水駅」しかない。広辞苑にも「千代田区神田駿河台から文京区湯島にわたる地区の通称」とある。「御茶ノ水」が使われているのは橋の名前とビルの名前くらいでしかない。「お茶の水女子大学」はとっくに湯島から大塚に移転している。
 「神田」という地名は、江戸っ子にとってこだわりがあるのか、「神田○○町」という町名がやたらと多い。いわく「神田淡路町」「神田神保町」「神田美土代町」等々、二十八の町が神田を押し戴いている。これによく似たこだわりが「日本橋」で、ここでもかなり広い範囲に「日本橋」が冠せられている。おっと我が近くにもある「鵠沼」もそうだ。地名にこだわるのはその名前に誇りと愛着を持っているからだろう。名前を冠することにより名誉ある地域の一角を占める所だと言いたいのだろう。

 御茶ノ水駅のホームに降りると、眼下に神田川の淀んだ流れが見え、鯉が濁りの中から浮かび上がる。対岸の斜面に植えられた緑は、初めて見た頃と比較すると、ずいぶん濃くなっている。計画的に植えられたとは思えない植栽だが、斜面を緑に覆い尽くして気持ちよい。右下には地下鉄丸ノ内線が川を跨ぎ、その上が湯島聖堂、その左には東京医科歯科大学病院が天を突き、隣には順天堂大学病院が肩を並べる。神田明神は聖堂の向こうだ。
 御茶ノ水駅聖橋口から旧日立本社、日販ビルなどの高層ビルを見ながら坂を下る。右側にあるのが「ニコライ堂」で蔦のからんだ石垣の下を通る。日曜日に二回、時間が来れば鐘が鳴るが、澄んだ音というより、なんとなく乾燥した音だ。ビサンチン式の建物で、三十五メートルの高さは、駿河台の高さもあって、建てられた当時は目立ったに違いない。
 新宿よりのお茶の水橋口から坂を下ると、右側に明治大学、下りきると三省堂、神保町古書店街の入り口である。明治大学の傍の坂道を登ると山の上ホテルがひっそりとある。小さなホテルだが、落ちついた雰囲気で、少し高かったがここのランチはうまかった。このあたりは坂の多いところで、おまけに道が縦横に入り組み、歩いていると思わぬところに出ていたりする。面白いので昼飯のあとよくぶらついたものだ。
 方向は逆だが「かんだやぶそば」のある一角も変わったところだ。そば屋のほかに鳥鍋の「ぼたん」、あんこう鍋の「いせ源」がある。いずれも創業百年を超える古さを誇る。このあたりはレトロな雰囲気を持っており、かくれ里の雰囲気。やぶ蕎麦のつゆは辛く、少しつけてすするという江戸っ子風の食べ方を要求されるのであまり利用しなかった。入ると「いらっしゃあーいー」と謡うような挨拶にも慣れなかった。
 またこのあたり、やたらと坂道が多い。むかしの人は坂道に名前をつけたようで、いろんな名前があって面白い。「池田坂」「小栗坂」「幽霊坂」「紅梅坂」「男坂」「女坂」など武家屋敷の名前や、名物、勾配の度合いなどを入れ、坂に名前をつけて地名代わりにしたようだ。起伏の多い東京だから、坂の数と名前を調べると面白い発見があるかも知れない。

 かつて江戸の中心であったこのあたりは、寺社や大学が集中していたため、その後の都心の発展からやや取り残された感があったが、このところ急速にオフィス街として変わりつつある。それでもこの界隈は、頑に古いものを守っているようだ。もう大学も出て行かないだろうし、寺社も動くことはない。それらを特色として銀座や丸の内、新宿などとは一味違う街並みになってほしいものだ。この地にインベーダーとして下り立った者が言うにはおこがましいが、古いものや、アカデミックなもの、小さな商店街など、雑多なものをちりばめた新しい街として、大都会の非人間的な冷たさとは無縁な町として、発展して欲しいと思うのである。

手賀沼エコマラソン・ボランティア体験記(その2)

 平成20年10月26日、第14回手賀沼エコマラソンが開催されました。手賀沼エコマラソンは柏市と我孫子市にまたがる手賀沼を1周するハーフマラソン大会です。平坦で走りやすく、手賀沼の美しい景観を楽しみながら走れるため、マラソンランナーに好評です。月刊ランナーズ読者が選ぶ「2007全国ランニング大会100撰」で2007年も総合7位を獲得。10年連続総合20位以内にランクされました。3年前の2004年は総合9位でしたので、2ランク上がりました。なお参加料の一部は手賀沼浄化に当てられます。

 第14回大会は北海道から沖縄まで33都道府県から9333人の応募があり、当日の参加者は7943人、完走者は7842人でした

1.3年ぶりの手賀沼エコマラソン・ボランティア
 2006年1月1日発行の手賀沼通信第94号に「手賀沼エコマラソン・ボランティア体験記」を書きました。今回はそれに続く2回目の体験記です。
 前回お手伝いしたのは2005年10月30日の第11回エコマラソンです。今回は2008年10月26日に開催された第14回エコマラソンでした。
 1度ボランティアを経験すると、手賀沼エコマラソン実行委員会から毎年ボランティアを依頼されます。手賀沼通信の記事のネタにするため3年ぶりに要請に応じることにしました。
 前回担当したのはランナー受付でした。競技開始前にランナーを受け付ける仕事です。参加申込者にはナンバーカード引換券が送られていますが、その引換券の署名捺印をチェックし,それと引き換えにナンバーカードセット(ゼッケン・トルソータグ・安全ピン)と参加袋(プログラム・ちらしなど)を渡す作業でした。2人でチームを組み200人のランナーの受付を担当しました。時間は7時30分から10時まで、ピーク時には手際よく処理しなければならず、間違って他人のナンバーカードを渡さないよう神経を使う仕事でした。マラソンを見ることはできませんでした。
 今回はマラソンが見えるところで別の仕事を経験してみたいと依頼の返事に書いたところ、給水所を担当することになりました。
 10月5日、柏市民体育館でボランティアに対する説明会が行われました。ボランティアは延べ1300人、当日の競技ボランティアは600人です。マニュアルを渡され、全体会議の後、係りごとに分かれて担当する作業の簡単な説明がありました。
 給水所は第1給水所から第5給水所の5つと、ゴール後の本部給水所の6ヶ所です。本部給水所を除いて、給水所では水の係りとスポーツドリンクの係りとスポンジの係りの3つの仕事があります。私は12.3キロのところにある第3給水所で水の係りを担当することになりました。第3給水所は五本松公園の前、コースで唯一の上り坂を上ったところにあります。給水所全員で29名、水の係りは10名で担当することになりました。

2.一番前のテーブルは忙しかった
 10月26日の朝、7時45分に自宅を出発、自転車で第3給水所となる五本松公園に向かいました。天気予報は朝のうちは雨とのことでしたが、出かけるときは降っていなかったので運動をかねて車の代わりに自転車にしました。途中予報どおりぽつぽつ降り始めました。雨は準備作業中降り続き、マラソンがスタートする10時頃には止みました。

準備作業開始
 家を出て20分後に五本松公園に到着、8時30分から準備作業を始めました。ランナーから見ると、水のテーブルが一番手前、その次がスポーツドリンクのテーブル、最後がスポンジのテーブルです。各テーブルのうしろにゴミ箱を置き、ランナーの捨てるコップやスポンジを回収します。
 私の担当は6つある水のテーブルのうち、一番前のテーブルと決まりました。水の係りは10人、各テーブルに1人が張り付き、水やコップの補充など臨機応変の遊軍が4人です。準備はテーブルや水を入れる大きなバケツを担当場所まで運ぶことから始めました。
 一番時間がかかったのは、約9000個ある水用の紙コップをケースから取り出して大きな箱に1つずつばらしておくことでした。経験者の一言で始めました。9000個のうち約8000個をばらしました。ところが時間をかけて行ったこの準備作業が、本番で水をコップに入れるとき、かえって余分な体の動きを必要とし、時間を食うことが分かりました。経験者の話も当たらないことがあるものです。コップはばらさず、重ねたままバケツのそばでしゃがんで1つずつ水を入れるほうが、腰をかがめてコップを取りバケツから水を汲むより、腰の無駄な動きが省けます。やってみてわかりました。市の給水車が来て大きなバケツに水を入れました。そして氷の大きな塊を水に入れました。

ばらされた紙コップ
 10時にスタートしたマラソンの最初のランナーがやってきたのは10時40分頃でした。第3給水所前の道路の封鎖はその10分前でした。道路が封鎖されるとすぐ机を歩道から車道に移し、水を入れたコップを並べました。一番前の列には選手が取りやすいように間隔を開けてコップを並べました。その後ろの列には、すぐ補充できるよう水を入れたコップをたくさん並べました。
 トップグループで水を取るランナーは、私の担当の一番前のテーブルで水を取り、走路に戻る人が多かったようです。(ようですというのは、ランナーが来始めると、コップを並べるのに忙しくランナーを見ている暇がありませんでした)しかもスピードを緩めることなくコップを取っていきます。
 とても一人では対応し切れません。すぐ応援が2人駆けつけてくれました。2人が水を汲み、1人がコップをテーブルに並べました。並べているうちに、ランナーが取る列には間を空けて4つ置くのがベストということが分かりました。それより少ないと間に合わず、それより多いと取る際にほかのコップを倒していきます。
 記録を意識するトップランナーの次にやってきたのは、圧倒的な数のマラソンを楽しむ市民ランナーです。市民ランナーはトップスピードでは水は取りません。テーブルのところでスピードを緩めたり止まったりしてコップを取っていきました。中には2つ取って頭にかけたり,足にかけたりする人もいました。
 「後にスポーツドリンクがありますよ」というと、水のコップをテーブルに戻してスポーツドリンクを取りに行く人もいました。
 走ったり水を取ったりするところを写真に取ろうと、デジカメを持っていったのですが、給水で忙しく顔を上げることも出来ない間は、とてもカメラを向けている暇はありませんでした。
 バケツから水を汲んではテーブルに並べるという単純作業の繰り返しです。中腰で同じ作業を続けているうちに、腰の感覚がなくなってきました。約1時間の戦いが終わったあとは捨てられた紙コップの山ができていました。
 最後のランナーが通り過ぎると後片付けです。紙コップは使う前はコンパクトにダンボールの箱に収められていましたが、使った後は体積が膨らみます。つぶしても元のようには小さくなりません。
 荷物を積み込み始めた時は、とても運んできた時のトラックには納まりきれないと思ったのですが、運送のプロはさすがです。うまくロープを掛けて、何とか1台で運んでいきました。
 忙しくてくたびれましたが、面白い経験でもありました。
 できれば次回はコース上で観衆の整理を行う「走路員」を体験してみたいと思っています。
最後のほうの市民ランナー後片付け

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