今月は5月の中国地方(中国ではありません)の旅行記と先月に続く若松地区の水害対策についてまとめました。

中国地方を旅して
 平成21年5月10日から12日まで、クラブツーリズムの「世界遺産 安芸の宮島・萩・津和野と、きらめく瀬戸内海 尾道・原爆ドーム・広島・岩国・青海島・秋吉台」という長ったらしい名前のパック旅行に妻と二人で参加しました。売り物は往復新幹線グリーン車の禁煙席でした。参加者はいつも通り高齢者と女性がほとんどの35名、ツアーでおなじみの効率がよい代わりに、1ヶ所の滞在が短時間という忙しい旅でした。
 日記風の旅行記は5月の手賀沼通信ブログに載せております。

1.中国地方のツアーは優先度が低い?
 ガイドさんが中国地方の紹介をしながら「皆さんは日本国内はほとんど回られたのでしょう?中国地方の旅行が残された最後の旅行ではないでしょうか?」と問いかけました。そのとおりという人がかなりいました。
 私たち夫婦も中国地方がほぼ最後の旅行です。最初の本格的なパッケージツアーに参加したのは27年前の沖縄旅行でした。結婚15周年の記念旅行です。その前後の子育ての頃は家族そろっての旅行が主で、パックツアーには行きませんでした。本格的に旅行会社のツアーに参加するようになったのは、子供が大きくなってからです。
 沖縄のあとはしばらくたって北海道と九州に行きました。中国地方の旅行は、3年前に初めて山陰地方を旅行し、山陽地方へは今回やっと来たという次第です。その間、ふるさとの四国はツアーでは行っていませんが、ほかの地方へは大体足を伸ばしています。沖縄へは3回、北海道へも3回ツアーに参加しました。
 山陽地方、山陰地方へのツアーが後回しになるというのはなぜなのか自分なりに考えて見ました。
 関東地方に住んでいる人間にとって、日本国内の旅行というとまず頭に浮かぶのは、沖縄、北海道、九州などの遠隔地です。旅行は非日常的な行為です。できるだけ毎日の生活からはなれたところというと遠隔地になります。
 一方、あまり遠くないところで、テーマを決めて旅を楽しみたいという望みもあります。例えば京都や奈良のお寺めぐり、夏の涼しい信州の高原、東北地方の紅葉や温泉、越後や北陸のグルメなどです。中国地方は距離は九州よりは近いですが関西よりは遠く、新幹線を利用すると結構時間がかかります。観光地や観光施設も行ってみるとすばらしいのですが、その割には知られていないところが多く、ぜひ行ってみたいというインパクトに欠けているのが後回しになる理由ではないかと思っています。独断と偏見お許しください。

2.2つの世界遺産と3つ目の平和公園
 今回の旅行では広島県の2つの世界遺産を回りました。広島市の「原爆ドーム」と廿日市市宮島にある「厳島神社」です。

(画像のクリックで拡大表示)
 現在日本には14の世界遺産があります。11の文化遺産と3つの自然遺産です。同じ県内に2つの世界遺産があるのは広島県と奈良県だけです。奈良県の世界遺産は「法隆寺地域の仏教建造物」と「古都奈良の文化財」です。奈良の2つの世界遺産は共に日本が誇るべき歴史的価値のある文化財です。
 ところ広島県の2つの世界遺産はその存在価値が同じではありません。厳島神社は奈良と同じように日本が誇るすばらしい文化財ですが、原爆ドームはいわゆる負の遺産です。
 フリー百科事典のウィキペディアによれば、「原爆ドーム(広島平和記念碑)は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑である。もとは広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。二度と同じような悲劇が起こらないようにとの戒めや願いをこめて、ユネスコの「負の世界遺産」に登録されている。(「負の世界遺産」という表現そのものには厳密な定義はないが、他にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所や、バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群などがその例とされる)」
とありました。

(画像のクリックで拡大表示)
 原爆ドームは一部市民からは、取り壊してほしいという意見もあったようですが、原爆症でなくなった女子高校生の日記が契機となって、保存されることになったようです。世界遺産の登録には、アメリカが強く反対し中国も棄権しましたが、1996年厳島神社と一緒に世界遺産に登録されました。

 広島の平和記念公園に来て、平和を求める3つの公園を訪れることができました。沖縄の平和祈念公園、長崎の平和公園、広島の平和記念公園です。
 平和祈念公園には27年前と2年前の2度行きました。沖縄糸満市の摩文仁の丘にあり、海の見える風光明媚なところです。沖縄戦最期の地となった場所です。戦争でなくなった人の名前が石碑に刻まれていました。3つの公園の中で一番暗い沈んだ気持ちになったのがここでした。悲しい気持ちと、何でここで3ヶ月も地上戦を戦わなければならなかったのかという疑問が湧いてきました。
 長崎の平和公園に行ったのは18年前で記憶が薄れてきていますが、右手を上に指し、左手を横に広げたたくましい若者の平和祈念像を覚えています。そこでどんなことを感じたかは思い出せませんが、おそらく悲しい気持ちになったのではないかと思います。
 広島の平和記念公園は美しい公園です。丹下建三氏の設計で、原爆ドームと慰霊塔と原爆資料館が直線で結ばれる見事な配置になっています。広島は原爆で破壊されましたが、平和記念公園から復活の歩みを始めたのではないでしょうか。原爆ドームが破壊のシンボルならば、平和公園は復活のシンボルかもしれません。原爆の悲惨さが風化するだけでなく、原爆を知らない世代がほとんどになってきた今では原爆ドームや資料館は大きな意味を持っていると感じました。

3.67年前の記憶
 秋芳洞は山口県の北西部、カルスト台地の秋吉台の地下100メートルにある東洋屈指の大鍾乳洞です。
 秋芳洞に入る前にガイドさんに「子供の頃、洞窟の中で舟に乗ったことがある。今も洞窟内に舟はあるの」と聞きました。
 ガイドさんは怪訝な顔をして「地下の洞窟に舟があるはずはありません。どこか別のところと間違えているのではないですか」と答えました。添乗員の女性も同意見でした。

(画像のクリックで拡大表示)
 今から67年前、5歳の時に祖母に連れられて秋芳洞に来たことがあります。昭和17年、太平洋戦争は始まっていましたが、日本軍が各地で勝ち進んでいた頃でした。母親が結核を病み、私は祖母のところで育てられていました。小学校に入学する前で交通費か掛からないため、母と離れて暮らす子供を慰めるつもりでいろいろなところに連れ歩いてくれたようです。
 ほかのところの記憶はないのですが、秋芳洞の洞窟内で小舟に乗り、船頭が酔っ払って舟を揺らして、大変怖い思いをした場面だけははっきり覚えています。
 高齢者グループなので正規の入り口の反対側の黒谷口から入って洞窟の通路を約1キロ歩きました。楽な下りの通路です。ところが舟はおろか舟を必要とする水を湛えた場所さえもありませんでした。広い場所はありましたが、水はたまっていないで流れていました。そばに手すりのついた立派な遊歩道が作られていて安心して歩けました。
 出口に着いた時ちょっと自分の記憶に自信を失いかけましたが、まだ納得できません。バスの駐車場の近くに秋芳洞観光センターがあったので、昔のことを聞こうと入りました。ところがそこに「秋芳洞開洞100周年−後世に伝えたい100年の想い」というパンフレットがあり、そこに満々と水を蓄えた洞窟を小舟で移動している写真が載っていたのです。記憶は間違いではありませんでした。
 その頃は遊歩道はなく、小舟で観光客を運んでいたのではないでしょうか。遊歩道ができたのはおそらく戦後観光客が増えてきた後なのでしょう。遊歩道を作るとき、排水工事も行われたのでしょう。大切なものをなくさないで済んだような感じの、大変印象深い秋芳洞観光でした。

4.明治の元勲を偲ぶ
 長州の萩は江戸時代長州藩の毛利氏の居城がある都市でした。長州の萩は薩摩の鹿児島とともに明治維新の発祥の地です。今回、萩で最初に訪れたのは松蔭神社と松下村塾でした。

(画像のクリックで拡大表示)
 維新で活躍した長州の幕末の志士の多くは松下村塾で吉田松陰の教えを受けました。松下村塾の部屋の壁にはそこで学んだ門下生の写真が飾られていました。著名な門下生には、久坂玄端、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥次郎、木戸孝允(明倫館で松蔭に教わる)などがいます。
 司馬遼太郎は「世に棲む日々」「花神」「竜馬が行く」「翔ぶが如く」などで、幕末の時代を描き、吉田松陰とその門下生が大活躍しています。
 たしか司馬遼太郎の小説のどこかにあったように記憶していますが、「幕末の戦いの中で一流の人物は死んだ。生き残って明治の元勲になったのは二流の人物であった。二流の人物は一流の人物の死によって維新の果実を得た」ということなのかもしれません。
 吉田松陰は安政の大獄で29歳で刑死しました。門下生の久坂玄瑞は25歳で禁門の変で負傷して自刃、入江九一も28歳で禁門の変で負傷して自刃、高杉晋作は27歳で結核で病死、吉田稔麿は24歳で池田屋事件で討死しています。4人は松下村塾の四天王といわれた逸材でした。
 一方伊藤博文は日本初の総理大臣になり、68歳でハルビン駅で暗殺されました。山県有朋は83歳まで長生きし、元老となって位人臣を極めています。二人とも維新での働きは目立ちませんでしたが、その後栄達を遂げました。
 現在の萩市はそんな英雄を生んだとは思えないくらい静かな落ち着いた街でした。

若松地区の水害対策の現状(その2)

 先月号に続きます。先月号の目次です。
1.若松地区の水害
2.水害対策委員会の活動
3.手賀沼の水位管理

4.若松地区の雨水排水施設整備案
 若松地区の水害をなくすには、降った雨を一刻も早く手賀沼に流すことに尽きます。我孫子市では治水対策の基準を、5年に一度の確率で降る1時間当たり50ミリの降雨に設定しています。しかし一昨年(平成19年)の6月10日に、1時間83.5ミリ(5分間10.5ミリ)の集中豪雨があり、それも参考にして整備案を作りました。
 我孫子市治水課で作った若松地区の新しい雨水排水整備案では、自然排水とポンプ排水(自然排水併用)の地区を明確に分け、若松に5つの排水区を設けました。各地区は排水面積に応じて最大排水量を設定して分けられました。
・第一排水区 自然排水
・第2排水区 ポンプ排水(自然排水併用)
・第3排水区 ポンプ排水(自然排水併用)と自然排水
・第4排水区 ポンプ排水(自然排水併用)と自然排水
・第5排水区 ポンプ排水(自然排水併用)
 手賀沼に遠いYPの高い土地は自然排水、手賀沼に近くYPの低い土地は自然排水とポンプ排水の併用としました。そして自然排水のみの排水区については、そこに降った雨水がポンプ排水区に流れ込まないよう、専用のバイパス管を設けることになっています。
 排水能力は現在の1分間当たり114立方メートルから、340立方メートルと約3倍になります。

5.新しい排水ポンプの設置
 現在若松地区には排水ポンプが4ヶ所あります。台風や集中豪雨などで浸水のおそれがでてきたときには、我孫子市の職員がポンプ場に出向き、手動で動かしています。手賀沼の水位がYP+2.3を越えると、排水ゲートを閉めてポンプのスイッチを入れています。4ヶ所すべて稼動させるには30分から50分くらいかかっているようです。
 新しい排水ポンプは、現在のポンプ場と同じ場所に設置される予定です。水位や降雨量などが一定の基準を超えると自動運転になります。
ポンプ場 排水区   排水能力
 1   第1   50立方メートル
 2   第2   27 〃
 3   第3   33 〃
 4   第4   50 〃
 ポンプの自動化に伴い、各ポンプ場のゲートも自動化されます。

6.湖岸堤の築堤
 若松地区の水害対策には、我孫子市の雨水排水整備計画と同時に、千葉県柏整備事務所による「手賀沼新堤防」の築堤が計画されています。
 手賀沼の周囲には手賀沼の氾濫を防ぐために堤防が作られています。堤防として作られたものもありますが、ふれあい道路やふれあい緑道のように他の目的で作られたものが堤防の役目を果たしているものもあります。ところが若松地区には他の場所のような本格的な堤防はありません。手賀沼に沿った背の低い土手のようなもので、堤防というには恥ずかしい代物です。
 柏整備事務所は30年に1度の確率で発生する1時間当たり59.35ミリの降雨に対処できるよう、YP+4.5の堤防を計画しています。現在の堤防より約1.3メートル高くなります。築堤の区間は手賀沼公園の東の端から手賀大橋のたもとまでとなります。
 新しい湖岸堤は現在の堤防の沼側に作られる予定です。堤防の上(天端)は湖岸堤の保守管理上、工事車輌が通れる3メートル以上の道幅になります。堤防の沼側には、水害対策委員会の希望で新しい遊歩道も作られることになっています。
 現在の堤防の沼側は葦をはじめとしていろいろの植物が茂り、鳥の棲みかにもなっています。そこで築堤の工事を始める前に、植生帯の移植を行います。その移植用工事は既に始まっています。
 植生の移動のあとは、工事用の道路工事、築堤となります。築堤のための土砂は手賀沼の対岸の「道の駅」近くの土砂集積場から運びこみます。

7.現在の課題点
 今後工事が進んでいく過程ではいろいろなハードルが出てくるかもしれませんが、現在の主な課題は下記の点ではないかと思っています。
@築堤の工事用道路をどうするか
 柏整備事務所は築堤を短期間に行うために、工事用道路を東側の我孫子高校のグランドの端と西側の手賀沼公園内に仮設することを計画しました。
 ところが我孫子市が手賀沼内に道路を作ることに難色を示し、若松内の道路を使うよう主張しています。市民に迷惑をかけたくないためです。
 水害対策委員会は若松内の道路にダンプカーが入ってくると、生活が脅かされるだけでなく、家や道路に埋設されているライフラインに支障があるのではないかと反対しています。柏整備事務所では新たに手賀沼公園と若松地区の間の道路を使用する案を出してきました。その他、東側道路だけを使用する案や船で運ぶ案なども考えられます。
 どの方法をとるか、慎重かつ適切なタイミングで決める必要があります。 
A工事をスケジュールどおりすすめる
 若松地区の雨水排水整備と湖岸堤築堤は、ともに平成25年末に完成のスケジュールとなっています。現状は植生帯の移植用工事は始まっていますが、その他については基本的な構想あるいは合意事項が固まった段階といってもいいと思います。一方水害のほうは待ってくれません。
 スケジュールどおり次のステップに進むとともに、しっかりした進捗管理を行って工事を完成させる必要があります。
B湖岸堤の天端の利用方法を決める
 湖岸堤の上を人や自転車が通れるようにするかどうかについて意見が分かれています。天端からの手賀沼の眺めは立派な観光資源という意見があります。一方プライバシーの点から歩かせないでほしいという意見もあります。先の問題ですがどうするか決める必要があります。

inserted by FC2 system