平成21年7月27日弟の妻が亡くなりました。
 ガンが見つかってから2年間弟は懸命に看病しました。ガンに効くものは何か、ガン治療に良い方法はないか、探し回りました。
 また料理の腕を磨き、ネットでレシピを調べて、病人の口に合うものを工夫して用意しました。
 最後は二人の願いが通じて、治療のために入院していた病院から緩和ケアのある病院に転院できました。

 傷心のなか以下の文章を送ってきました。メールには「記録と彼女へのオマージュとして書いたものです」とありました。
 手賀沼通信2月号に闘病記を一読者からの匿名で載せましたが、多くの方から励ましのメッセージをいただきました。ありがとうございました。
 今回は追悼の意を込めて掲載させていただきます。合掌。なおあとの小編も弟の文章です。

特別寄稿
節子よ やすらかに眠れ                            新田自然

 七月二十七日未明、節子は逝ってしまった。午前一時頃ふと目覚めて、眠れないままにテレビを見ていたら電話、この時間の電話は病院に違いないとあわててとった。
「すぐにお越し下さい、先ほど大量の下血がありました、血圧も測れないくらい低いのです」
 タクシーを呼んで駆けつけると、酸素マスクをした節子が荒い息をしている。手は冷たい。深夜のこととて医師はいなく看護師のみだ。
「息子さん達に連絡してください」
「家を出る前にしましたが、そんなに悪いのですか」
「多くの場合、このままお看取りとなります。大量の下血は体力を奪ってしまいます」
 手を握り名前を呼ぶ。
「節子、節子、目をあけておくれ」
応えは返ってこない。
 息子達に再度の電話をし、来るように話しをして病室に戻ると、呼吸間隔がだんだんひらいて、苦しくなると大きな息をするようになってきた。苦しんでいるのではなく、息をするのが面倒になってきているようだ。手を強く握るが、なんの反応もない。つい先日までは握りかえしていた手は冷たく、もう彼女の手ではないようだ。
「節子、そんなに急ぐな」
 しかし呼吸間隔はさらに開き、止まったかと思うとまた息をするようになり、やがてついに停止してしまった。
 時計は三時五十分を指している。おだやかな顔をして静かな最期であった。
 直後次男が駆け込んできた。横浜から来た次男は、
「一〇分、間に合わなかった。どうして待ってくれなかったの」
 泣き声で抗議している。前日の昼間、当分小康状態が続くだろうからしばらく来なくていいよ、と言ったばかりのところだった。
 外は霧、遠くに辻堂駅が見える。始発までまだ時間があるのだろう、白み始めた夏の朝は静まりかえって、街灯がけやき並木を浮き上がらせているのみだ。

 「もう遠くないと思うので、お願いしておきたいことがあります」
 「私の余命があとわずかと言われたら、私がお手伝いをしていた湘南中央病院の緩和ケア病棟に入れてください。しばらくでも仲間の人達と過ごしたいのです。
 そして私が死んだら、この家へ連れて来てください。そしてあなたの傍のベッドに寝かせてください。もう一度私たちの部屋で眠りたいのです。  大げさな葬儀はお断りです。私が親しくおつきあいをした近親者だけでお別れ会をしていただければそれで結構です。坊さんによるお経も要りません。好きだったモーツアルトのクラリネット協奏曲を流してください。派手な祭壇ではなく、その代わりお花をいっぱい飾ってください。好きだったアルストロメリアがあればそれも添えてください」
 こんなことを聞かされたのは、今年になってからのことだった。
「分かった。なるべくそうするが、マンションに戻ってくるとみんなに知られることになる。そうなると、お見送りをさせてくれということになり、人がいっぱい来るよ」
「じゃあそれはあきらめる。でもほかのことはきっとよ」
 話を聞きながら、漠然ともっと先の話だと思っていたが、その時がこんなに早く来るとは。

 葬儀社に連絡すると遺体を預かりますと早速にやってきた。葬儀社までは五分もかからない距離だ。いきなり葬儀社に連れて行くのはかわいそう、せめて大庭を回ってくれませんかとお願いした。黒い搬送車は反転し、大庭隧道を抜けてライフタウンへ、交番を右折すると私たちのマンションの入り口だ。ここで結構ですと入り口の道路に車を止めた。
「帰ってきたよ」
 言葉にならない声で呟くようにいった。
 節子、君が帰りたくて仕方がなかった我が家のそばに戻ってきたのだよ。よく見ておくれ、いつも君が車を入れていた駐車場だよ。車のナビはここに来ると「おつかれさまでした」と言っていたね。そうしたら君は、このナビって機嫌のいいときはお話しするけど、言わないときもあるのよねえ、などと言っていたっけ。元気だった節子は街道ウォークや山歩きに行く私を送ってくれたね。そんなたわいもないやりとりが思い出されまた涙があふれてきた。
 しばらく停車して、そこから葬儀社までの道すがら、節子をなんとしても連れて帰ってやろうとの思いがこみ上げてきた。大分症状が進んできた頃、節子は「お家に帰りたい」と言って私を困らせた。主治医に連れて帰ってもいいですか、と聞いたら、そんなことができる状態ではありませんよ、ときびしくたしなめられ、あきらめた。そんなに帰りたかった我が家だ、誰に知られてもいい、弔問は丁重にお断りすればいいではないか。八時頃長男一家が到着、「お父さんがそうしたいならそうすればいい」と賛成してくれたので葬儀社に連絡する。

 午後三時、しのつく雨の中を節子は無言の帰宅、雨のなかとて外に人影はなかった。私の傍のベッドに寝かせる。口をかすかにひらいて微笑んでるようにも見える節子の顔つきは満足そうに見えた。そんな節子を眺めていると、いつもと変わらず、ああよく眠ったわ、と起きてきそうな気配さえする。
 四時半に我孫子の兄夫婦到着、次男の嫁と孫三人が加わり、ひとしきり涙を流したあとはにぎやかな通夜となった。兄夫婦と次男一家はホテルに泊まり、長男一家は別室、私は節子と最後の夜を過ごす。お酒も入って眠り込んだが、三時頃目覚めると節子はいつもと変わらぬ姿でよこたわっている。

 君と出会ったのは福岡の街だった。保険会社の新入社員同士で、研修に行ったり、組合活動など、顔を合わす機会が多く、自然に話し合うなかで親しくなっていった。でも決定的な瞬間は、仲間に誘われてテニスをするために、寮に来る西鉄の電車にたまたま同乗したときだった。そのわずか二十分の間にデートの約束を取りつけ、初デートが映画だったか、もう思い出せないが、志賀島、太宰府、大濠公園や警固公園などいろんなところへ行った。まだ一〇代の節子はプリプリして光り輝いていた。そんな節子に私がもっとも惹かれたところは、私たちが出会う数年前に亡くなったお父さんのお墓に、私を連れていったことだった。絣の着物を着て、お墓を丁寧に掃除し、手を合わせる君の後ろ姿を見て、この人なら私の親だってまかせられると思ったものだ。
 思い出すことはいっぱいある。初めて四国の実家に来たときだった。正月休みだったか、母が作った瀬戸内の魚のお吸い物が美味しいと言って、君が「おかわりをいただいてもいいですか」と言ったことがあったね。兄よりも早い結婚話に否定的だった母が、君を好きになる瞬間だった。結婚した後になっても母は繰り返しこの話をしたものだった。
 福岡を出だしに名古屋、広島、東京、仙台と勤務地は変わったが、いたるところにエピソードを作ってくれたね。一週間で殺処分にかけられる子犬を、わざわざ城南島の収容所に行ってもらい受けてきたり、野良猫を飼いならして家に入れたり、共に油絵を習いに行ったり、北信州に根曲がり竹を食いに行ったり、藤沢に永住することになったのもみんな君の発案だった。
 そんな君が我々ふたりの集大成を見ないまま逝ってしまうなんて…
 君は静かによこたわっている。いつもは軽いいびきをかくこともあるが、いまは寝息さえもかいていないのだ。

 二年前の七月、C型肝炎ウィルスのキャリアだった君は、肝硬変を注意して定期検診をうけていたが、いきなりガンを発見され、大きなショックを受けた。当初一センチほどのガンと言われたが実は四・五センチもあると言われ、それも三個もあるとのことでまた大きなショックに見舞われた。アンギオという手術や抗ガン剤が効いているといわれ安心していたら、一年後の骨転移でまたショック、放射線治療が功を奏し患部は縮小していると言われ一安心だと思っていたら脳出血、持ち上げられては突き落とされるの繰り返しだった。でも君はいつも前向きに耐えてきた。私だったらとうにギブアップしていた。
 出血が治まっても半身は動かない。退院はとても無理と言われそのまま病院の人となった。二〇名もいる看護師さんの名前を記憶し、一人ひとりを固有名詞で話すものだから、看護師さんにずいぶん人気があったね。転院するとき「淋しくなりますね」と多くの看護師さんが言ってくれ、全員の見送りを受けたね。リハビリにも積極的だった。だからまだ小康状態が続くものと思っていたら、ある日君は看護師さんの名前を取り違えてしまった。その小さな間違いを私は指摘できなかった。君はそんなミスをする人ではないので、そんなことを言ったら、君は自分の脳が冒されていると心配するからだ。
 それからは病状が猛スピードで進んでいった。モルヒネ系の痛み止めの副作用だったのだろう、病院から何度も呼び出しが来た。夜昼を問わず「奥さんがご主人に会いたがっていますので来てください」都度タクシーで駆けつけると発作の治まった君は「ごめんね」とにっこり笑って謝る。君のごめんを何度聞いたことか。「あなたをおいて行くことになってごめんね」「折角作ってくれたのに食べられなくてごめん」
 謝るくらいなら先に逝くな。
 緩和ケア病棟のある湘南中央病院に転院したのが十一日のことだった。ボランティアの仲間の人が早速見舞いに来てくれ再会を喜んだが、君はもう長い時間話しをすることはできなかった。うなずいたり、涙を流したり、唇でありがとうと言ったり、音楽を聴いたりするくらいになっていた。「新田さんはお花が好きで、ご自分で育てられたアルストロメリアを持ってきてくれました」と仲間の人達。この病院の緩和ケア病棟は、最上階の七階にあって、このフロアだけ、病院らしくない造りで、病院特有のリノリューム張りなどでなく、絨毯のような床材が敷かれて、すべて個室。談話室は三方が開け、開放的な室内から、遠く大山や江ノ島、花が咲いている屋上庭園などが眺められる。本当に来て良かったね、だがもうちょっと早く来ることができたら良かったのに、市民病院では、一緒に食事をし、にんじんジュースを作って持参し飲ませたりしていたのだったが、もうそれさえできない。
 先生は「八月のお盆頃が峠でしょう。長くて秋、年を越すことはたぶんないでしょう」と言う。どうか秋までもってくれと祈った。しかし二週間とはあまりにもせっかちな旅立ちだったよ。
 そんなことを考えていたら頭が冴えてきて、睡眠を放棄して起きることにした。こころもち窓の外が明るくなっている。

 十一時に遺体を斎場へ運ぶため葬儀社が来たので同乗し、葬儀社の小さな斎場に到着、遺体を安置した。花に囲まれた節子はおだやかによこたわっている。注文したアルストロメリアも飾られている。四国の妹と長男のお嫁さんが到着、全員がそろった。マイクなしの進行でゆっくりと式がすすむ。モーツアルトのクラリネット協奏曲第二楽章が繰り返し流れるなかで、全員による湯灌、額から頬、くちびる、手、足など露出部をゆっくり浄める。献花、なにか話しかけてください、と言われたが「ありがとう」とだけしか言葉が出なかった。全員が一人ずつ思い思いの言葉をかけてくれる。なんの制約もないお別れ会は、みんながそれぞれの思いで節子との別れをすませていった。私が締めくくりの挨拶をして式は終わる。みんなでシーツを持ち上げてお棺に収める。出棺前、棺のなかを花一杯にしようとみんなで花を手向ける。みるみる節子は花に埋まる。かわいがった犬のドンキーと猫のモモの写真もそっと入れ、趣味だった碁石も入れ、トトロの絵も入れる。花に埋まった節子は白い帽子を被っている。放射線治療で髪の毛が抜けたので、長男の嫁さんがタオル地で作ってくれたのだ。それがすばらしく似合い、修道女のようで神々しくさえ見える。
 たっぷり一時間をかけて、音楽と花いっぱいのお別れ会は終わった。もう一度、額と唇に触れて彼女の肉体とは永遠の別れとなった。

 きょうは八月十日、もう二週間が過ぎた。この一年間買い物、料理、にんじんジュース作りなど、家事のほとんどをやっていたので、することがなくなって時間をもてあましている。悲しみは寂しさになり、虚しさへと変化しているようだ。昼から夜までの時間が本当に長く感じられる。ストレスというより、節子のために料理を作るのが生きがいのようにもなっていたのだろう。自分だけのために料理を作るのは面倒すぎる。バイクに乗って朝食を牛丼屋で摂ったり、近くのファミレス、イタリア料理店、中華料理店、そば屋などを巡回、心配して息子達一家が交代にやってきてくれる。孫が四人もいるのでにぎやかになると元気が出て、手料理を作ったりする。
 そんな毎日を送っているが、悲しんでばかりいるわけにもいくまい。もうそろそろ甘えを脱して、しっかりとした生活のペースを再構築し、生き生きとした毎日を送らねばならないと思うのであるが…。

<その後弟から次の俳句が送られてきました>
最後の旅行
手をつなぐ去年の浜辺や遠花火

主なき湯呑みに挿して白桔梗

遺品の中に日記を見つけて
挿まれし紅葉や君の在りし日々

特別寄稿
芭蕉句碑は全国にいくつあるか                      新田自然

 五年ほど前、東海道を歩いて京都まで行った。道中見るべきものも多く楽しい歩きだったが、俳句を作りながらの歩きだったので、とりわけ興味を持ったのが芭蕉句碑だった。歩き終えて一体いくつくらいあるのかと、自分で見たものや、旅のガイドブック、インターネット等で調べたところ六十五基もあった。芭蕉以外の句碑、歌碑と比較すると、これはもう圧倒的に芭蕉句碑が多く、芭蕉がいかに多くの人に親しまれているかが理解できた。俳人として作った句数から見ると、最も多いのが虚子で、虚子記念館の話ではざっと二十万句だそうである。ほかに子規二万四千句、一茶二万句、蕪村三千句、芭蕉は約千句(発句のみ)と言われ、芭蕉の句碑の数は、作品数から見ても異常に多いといえる。
 それでは一体全国にいくつあるか、ということが気になってきた。インターネットで調べてみると、その道の好事家がおられ、県別に所在地まで調べたデータがあり、その数は二千四百四十二基であった。そのホームページ制作者に聞いてみると、実際にはもっとあるだろうとのことであった。すべてを実地調査することは不可能であり、資料に載っていなかったり、個人蔵に至っては調べようがなく、また芭蕉没後三百年記念行事などもあり、最近になって建てられたものもあるだろうと。
 はたして芭蕉句碑は全国にいくつくらいあるのだろう。そのデータでは藤沢にある芭蕉句碑は二基で、白旗神社境内と江ノ島稚児ヶ淵であった。しかし調べてみると、実際にある市内の芭蕉句碑は五基あり、その誤差から類推すると二・五倍の六千百五基となるが、本当にそんなにあるのだろうか。
 江戸時代の芭蕉ブームは、五十回忌に起こり、百回忌の寛政五年をして絶頂期となったそうで、全国津々浦々で供養がおこなわれ句碑が建てられていったと解説書にある。芭蕉が足を踏み入れていない北海道にも九州にも四国のすべての県にもあるのだ。これはあの国民的文学ともいえる「奥の細道」の作者であることも大きな理由かもしれないが、やはり旅に生き旅に死んでいった翁への愛着と、彼の句の普遍性と地域をたくみに詠みこんだ句が多いことなどによるものであろう。
 街道歩きが私に与えてくれた最大のプレゼントは芭蕉とのふれあいであった。

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