今月は冬の北陸地方の旅行記です。旅の記録は昨年9月以来になります。
 旅行記を手賀沼通信の記事にするのは、取材や情報収集にあまり時間がかからず、自分の体験や感想などを書けばよく、わりあい楽なのですが、読者の方にはあまり興味がないかもしれません。
 せめて写真をご覧いただけたらと思います。

冬の北陸旅行記−雪の高山、兼六園、永平寺、白川郷に行く

 平成22年2月2日から4日まで阪急交通社のツアー「世界遺産白川郷・飛騨高山と古都金沢滞在3日間」に妻と参加しました。その旅行記です。
 日記風の旅行記は2月のブログに3回に分けて載せてあります。

1.出発までの思い違いとハプニング
 今回の旅は出発までに思い違いとハプニングで悩ましい思いをしました。でもそれで腹を立てたり、がっかりしていてはせっかくの旅が台無しになります。私たちはそれもまた旅と割り切って楽しみました。
 白川郷に行きたいと妻が2つのツアーを比べていました。1つは今回私たちが参加したもの、もう一つは別の会社のツアーでした。そして阪急交通社のツアーに決めました。理由は往復とも上野駅発着の新幹線を利用できることでした。もう1つのツアーは行きは上野駅からの新幹線でしたが、帰りは新宿着の中央線でした。上野駅なら我孫子駅から乗り換えなしで35分くらいですが、新宿駅は1回か2回乗り換えて1時間以上かかります。
 ところが出発の1週間ほど前に送られてきた日程表を見ると行きの新幹線は上野駅には止まらず、東京駅6時50分集合となっていました。昔はJR東日本の新幹線は上野駅が始発でした。上野駅に止まらない新幹線があるなどとは思ってもいませんでした。1つ目の思い違いです。
 2つ目のハプニングは当日の朝の雪でした。出発1週間前の週間天気予報では2月2日は晴れとなっていました。ところがだんだん雨マークが入り、前日は雪マークとなって積雪の予報となりました。
 東京駅早朝6時50分集合は1番バスでやっと間に合うかどうかの時間です。積雪が多いとバスが遅れるかもしれません。
 我孫子にはタクシー会社が2社あります。タクシー会社に電話し翌日早朝の予約を依頼しました。1社からは早朝の予約は出来ないと断られました。1社は当日の朝もう一度電話するようにいわれ、当日朝電話すると雪で運転手がまだ来ていないと断られました。
 駅まで歩く方法もありますが、まだ暗い夜みちを20分ほど歩くのは楽ではありません。雪が積もって滑りやすくなっていました。バスで行くしかないとバスに賭けました。ところが昼間は5分以上遅れるバスがほぼ定刻にやってきました。1番バスなので乗客が少なく遅れなかったのでしょう。雪にもバスは慣れていました。
 3つ目のハプニングは新幹線下車駅の上田駅で観光バスが30分遅れたことでした。信州上田駅は菅平高原や美ヶ原高原などが近く、我が家の我孫子駅などより雪には慣れているはずです。それが当日未明に降った雪で遅れたのです。ツアーでは観光バスが観光客を待っているのが当たり前、観光客が観光バスを30分も待ったのは初めてでした。

2.今回の観光地と平成百景
 今回の観光は初日が飛騨の高山、2日目が金沢の兼六園と越前の永平寺、3日目が飛騨の白川郷でした。
 昨年4月読売新聞から発表された平成百景にこの4ヶ所とも選ばれました。平成百景は1位から30位までは読者の投票の順位がそのままの順位で決まり、残りの70ヶ所は10人の選考委員が決めました。
 岐阜県の白川郷は富山県の五箇山と合わさって「合掌造り」として、堂々の5位に入りました。2ヶ所の合掌造りは所在する県こそ違いますが、いずれも白河谷にあり白川街道に沿った集落です。「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されています。白川郷は今回の旅では一番行きたいところでした。
 高山と金沢と永平寺は残りの70に中に選ばれています。
高山の代表的観光地(画像のクリックで拡大表示)
 兼六園という名前では候補地にノミネートされず、金沢で選ばれました。日本の3名園の他の2つ、水戸の偕楽園と岡山の後楽園はそれぞれその名前でノミネートされましたが落選しました。兼六園だけが金沢という名前でしたが選ばれました。
 都市の名前で選ばれたのは、高山と金沢以外には、角館、平泉、会津若松、川越、佐原、鎌倉、倉敷でした。なぜ選ばれたのかは、選考基準がはっきりしていないため選考委員に聞いてみないと分かりません。おそらく歴史や文化や街並が評価されたためではないでしょうか。高山と金沢はともに落ち着いた雰囲気の、歴史を感じさせる、文化の薫り高い、古い街並を残した街でした。
 永平寺以外に百景に選ばれた寺院は、日光の社寺(25位)、山寺、浅草寺雷門、柴又帝釈天、延暦寺,奈良の寺社、法隆寺、高野山でした。それぞれ独特の趣があるお寺だと思います。

3.観光地の雪の功罪
 旅行2日目と3日目は西高東低の典型的な冬型の気候となりました。宿のある金沢は初日は雨でしたが、1夜あけると外は真っ白です。そして残り2日間とも雪が降ったり止んだりで、白川郷に行く高速自動車道では吹雪いていました。兼六園も永平寺も白川郷もすっかり雪に埋もれていました。
兼六園の雪つり(画像のクリックで拡大表示) 雪の永平寺(画像のクリックで拡大表示)
 兼六園は「雪つり」で有名です。その雪つりが見事に効果を発揮していました。前回兼六園に来たときは秋でした。ちょうど雪つりの作業を開始したときで,なぜこんなことをするのだろうと疑問に思ったのですが、今回その意味がよく分かりました。大木が雪をかぶり、その枝を雪つりが支えている景色は私にとって初めて見る風景でした。感動的でした。
 永平寺も2度目です。雪が曹洞宗大本山の名刹をいっそう荘厳に見せていました。寺院の廊下で修行中の雲水を見かけましたが、冷え切った床を素足で足早に過ぎ去っていきました。修行の厳しさを感じました。
白川郷の展望台から見た合掌造り(画像のクリックで拡大表示)
 白川郷についたときは雪は止んでいました。町営のマイクロバスで展望台にあがると、ポスターなどでおなじみの合掌造りの集落が一望できました。うっとりするような眺めでした。そのあと村落を歩いて探訪しました。兼六園や永平寺とは積もった雪の量が違います。私のように南国の四国で育ったものには、ここでの冬の生活は想像できません。
 生活はともかく観光では、雪は汚いもの、見苦しいものをすべて隠してくれます。特に新雪をかぶった風景は見事です。雪を見慣れていないものにとっては別世界のようです。白の世界を堪能した旅でした。
 ところが雪は行った場所と他の場所との違いや特徴を消してしまうという働きもします。雪が積もっているとどこが道か、田んぼか、畠か、小川かが分からなくなります。色彩もなくなります。どの観光地も同じような印象になりかねません。
 贅沢を言えば雪のあるときと雪のないときの2度行くのがその地をよく知る秘訣と思います。できれば花の季節などに訪れるといっそう心に残ることでしょう。

4.「街道を行く」ではどのように描かれたか
 今回はなぜかメッセージを入れた旅行記が書けません。日記風の旅行記はブログに載せましたが、それ以上のものが出てこないのです。
 いろいろ考えた末、今回訪れた場所についての描写を司馬遼太郎の「街道を行く」から借りてくることにしました。
 余談ですが、司馬遼太郎氏は週刊朝日に1971年1月1日号から1996年3月15日号まで、25年以上にわたって1147回「街道を行く」を連載しました。そして「濃尾三州記」を書いている途中に動脈瘤破裂で急逝しました。もしもっと長生きしていたら、さらにいろいろな街道の旅を重ねて書き続けたことでしょう。
高山の古い町並み(画像のクリックで拡大表示)
 高山については1987年の「飛騨紀行」に出ています。その引用です。
 『飛騨では大工が重んじられてきた。
 飛騨大工の誇りの高さと仕事熱心は大変なものだったらしい。例えば一定の予算で請負っても、得心がいかないと自腹を切っていい材料を買って使ったりすることが、ふつうだったらしい。』
 『まわりの田園がうつくしい。
 飛騨で堪能できるのは、なんといっても民家である。よく紹介される高山の市中の日下部家などのような大型のものにかぎらず、ただの民家で十分うつくしい。』
 『全国に、左甚五郎の作とか伝説がじつに多い。たとえば京都の知恩院の本堂の軒には、左甚五郎が忘れた傘というものまである。
 「左甚五郎は飛騨の人です」
 と、川尻さんはいった。飛騨ではそうなっているという。
 日本における伝説の名工といえば飛騨の匠である。飛騨のヒダと、左のヒダが、偶然合っていて、その名にいよいよ神秘性がくわわったのであろう。』
 高山には古い町並みがあり、そこには飛騨の民家が数多く残っています。
 司馬氏は金沢にいたる街道はいずれ書くつもりであったのかもしれませんが、その前になくなりました。したがって兼六園についての記述はありません。

 永平寺については1982年に書かれた「越前の諸道」で触れていました。
 『道元の禅学は、日本仏教のなかでもっとも難解である。かつ単純でもある。かれは自分の思想体系に、「禅宗」という宗教的なことばを冠することさえきらった。単に「正法」であると信じ、自分の体系以外に釈迦の真実はないとした。』
 『道元禅については、かれの苛烈な禅風とその激烈な修辞でつづられている著「正法眼蔵」を見るかぎりにおいては、その門流など容易に人を得ず、同時代に3、40人もあれば多いほうかと思えるが、登録された末寺14,700余、檀信徒の戸数1,373,400戸というのはどういうことであろう。』
 『徳川家康は、関が原の一戦で天下をとると、一向宗(本願寺)の勢力を殺ぐために、西本願寺と東本願寺に分裂させ、新設の東本願寺を保護した。曹洞宗に対しては、むしろ逆に、組織をつよくする方向で介入した。
 元和元年(1615)には、永平寺と総持寺が同格の本山であることを幕府の法によって決め、さらにこの両山を中心として、全国の曹洞宗末寺を法制的に組織させた。』
 『私は昭和24年に永平寺を訪ねたことがある。
 外界からの訪問客はなく、まことに雲水の道場としてよく清規がまもられているという感じで、山も谷も人も清澄であるような印象があった。
 が、近頃は、バスによる団体観光客を誘致していて、そういう印象はないという噂をきいていた。団体の多くは、永平寺をみて芦原温泉で宴会をするというふうになっているという。』
 永平寺は北陸地方の代表的な観光地になっています。

 白川郷は、1972年から73年に書かれた「郡上・白川街道と越中街道」に登場しています。
 『この白川郷というのは南北18里とか19里とかいわれ、あわせて40余か村といわれてきたが、室町末期の乱世にあっては、この谷は真宗寺院を中心として、いわば実質上自治の地帯であった。
 それを崩した勢力がある。越中のほうから侵入してきた武士団で、かれらがよほど平野地方であぶれてしまった連中に相違ないということは、この白川郷というのは当時米が穫れないのである。米がなくては武士の収奪経済が成立しがたく、それに白川郷は古来自給自足がやっとであった。縄文時代のように焼畑耕作をしてヒエやアワを穫る。あとは魚鳥を獲って食うしかなく、この生産のどこをかすめて収奪しようとしたのであろう。』
合掌造りの2階(和田家)(画像のクリックで拡大表示)
 合掌造りについては白川郷についての記述ではなく五箇山のところに出てきます。
 『屋内は、すべて板壁である。いろりの煤がつき、それを人の手で百年以上も拭きあげているために黒塗りよりもいい光沢でひかっている。それにどの板壁も鉋で削られた部分がまったくなく、すべて槍鉋や手斧という中世的な大工道具でけずられていた。』
 『2階へあがると、そのフロアぐるみ、民族博物館のようになっている。村上家が、ほんの半世紀前まで実際につかっていた道具類ばかりで、行灯や燭台のような照明具から衣類、はきもの、臼や杵、養蚕の道具、機織の機械などひとつひとつ見ていくうちに日本人の知恵がつくったこの国の民族生活の諸道具というものは、おなじ東アジアでも中国や朝鮮よりよほどすぐれているのではないかという実感をもった。』
 白川郷にある国の重要文化財「和田家」も同じ感じでした。

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