古くからの手賀沼通信読者の森正雄様からエッセイをいただきました。森様には今までに何度か投稿をいただいております。大変ありがたいことです。

特別寄稿
60歳定年退職後の15年を顧みて        森正男


 平成7年3月20日に新聞関係の仕事を定年退職しました。奇しくもサリン事件のあった日です。現役時代の趣味と言えば、海釣りが唯一の趣味で全くの仕事人間でした。定年後は自由に釣りに行くことやドライブで日本一周をするくらいの夢しか持ち合わせていませんでした。ところが意外な方向に発展してしまいました。
 それは障害者との出会いが切っ掛けです。妻が会社の休みの日に柏市にある障害者施設にボランティア活動に行くようになり迎えに行った際に車椅子を押して、玄関から生き生きした顔をして出て来ました。人のお役に立つと言うことは素晴らしいことだと気づき、自分も参加するようになり、重度の障害を抱えた人たちが精いっぱい生きている姿に感動し、少なくとも自分は五体満足だ、それなら何でも出来ると思うようになり、2級ヘルパーの資格を取り、地域で仲間を募り、15名が集まり「ぐるーぷ あい」と言う名のボランティアグループを立ち上げ、流山市内の特養老人ホーム2か所に毎週水曜日にリネン交換や洗濯物のたたみ作業を行うようになり、15年間続けています。昨年流山市より、「ふるさと貢献」で表彰されました。
 趣味も定年後に色々と行うようになりましたので、その話を紹介します。

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 先ずマジックを習得して施設やディーサービス、敬老会、子供会等で披露してボランティア活動を行い、楽しさ一杯の笑顔を頂いています。シルクやロープ、トランプ、リング等最近はレパートリーも増え、不思議な夢の世界を演出しています。TOMAC(トマック)と言うグループに所属、現在会員21名で年間50ヶ所位手分けして活動しています。毎月2回勉強会を開催して新しいマジックの技術の向上に研鑽、教えたり、教えられたり、楽しい時間を過ごしています。


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 次に詩吟ですが、平成8年より洸祥流吟詠会に入会、(会員60名)毎週1回お稽古に通っています。盛唐の時代の李白、杜甫、白居易や、日本では頼山陽や幕末の志士達の詩など素晴らしい詩が沢山あります。漢詩には難解な言葉が多くあり、それだけに表現が求められます。詩を吟じる楽しみは、声をお腹の底から出すこと、作者の思いや詩の心を深く掴んで一句一句に心を込めて吟じることによって、感動が伝わると言われますが、なかなかそこまで到達出来ません。東葛地区でも文化祭等で発表機会が結構あるので、覚えるだけでも大変です。平成17年に総師範を許され、事務局長に任命され、会の運営に携わっています。昨年私ども結婚50年を迎えたので、下手な詩を一句作りましたので記します。
  金婚感有り 鴛鴦(えんおう)(ちぎ)り結び (すで)に金婚
  慶祝一献 至福の歓 七五の生涯 夢幻( )の如し
  餘生幾年 吟魂(ぎんこん)を養わん

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 次に江戸芸かっぽれの踊りを始めて10年になります。伊勢音頭・風流深川節・奴さん等ゆかたを着て、尻はしょり、豆絞りの鉢巻をして賑やかに踊ります。これも毎週1回お稽古に行っています。亀有のリリオホールや深川江戸資料館に毎年出演しています。時には施設のディサービスの誕生会で、かっぽれを披露することもあります。
 NPO法人ときわ会IT部門に所属、柏市高齢者支援センターほのぼのプラザ増尾で柏市の60歳以上の高齢者を対象に交代でパソコンサポートを月に2日行き、パソコンを介して話し相手をしています。
 定年後の当初の生きがい計画とは全く意外な方向に推移してしまいましたが、毎日日替わりで、趣味とボランティア活動をバランス良く、行うように心掛けています。折々の出会いをどのように受け止め、どのように行動に移して行くかによって全く異なった人生が開けることを痛切に感じつつ恵まれた多くの人たちとの出会いに感謝し、「老いることは学ぶこと」を忘れずに残された時間を大切にしたいと思っています。

大河ドラマの坂本竜馬

1.8人の坂本竜馬

坂本竜馬像(ウィキペディアより)
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 今年の大河ドラマ「竜馬伝」が話題を呼んでいます。  日本人の間には司馬遼太郎の「竜馬が行く」で竜馬像が出来上がっています。それまでは名前こそ知られていましたが、坂本竜馬を主人公にした小説や映像はほとんどありませんでした。司馬遼太郎は自分が大好きな坂本竜馬を、明るく、強く、颯爽とした、女性にもてる、従来の考えにとらわれない、自由と平等の思想を持った、藩でなく日本を考える、スケールの大きい人物像に仕立てました。それ以後坂本竜馬は日本人の偶像、理想像になったと言っても過言ではありません。  「竜馬伝」では、そのイメージにとらわれず別の角度から描いています。原作となる小説はなく、福田靖のオリジナル脚本です。三菱財閥の創始者岩崎弥太郎を語り部に、「美化されていない新しい竜馬を描いていく」としています。竜馬を演じる福山雅治も岩崎弥太郎の香川照之も大変な熱演です。

大河ドラマの坂本竜馬
NO放送年大河ドラマ竜馬役の俳優
11967三姉妹中村敦夫
21968竜馬が行く北大路欣也
31974勝海舟藤岡弘
41977花神夏八木勲
51990翔ぶが如く佐藤浩一
61998徳川慶喜登場せず
72004新選組江口洋介
82008篤姫玉木宏
92010竜馬伝福山雅治

 そこで過去の大河ドラマに登場した坂本竜馬を追ってみました。
 「竜馬伝」は大河ドラマ49作目です。坂本竜馬は過去7回登場しています。約7回に1回の割合です。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信などに比べると少ないですが、幕末を描いたドラマには一本を除いて常連となっています。
 最初に登場したのは大河ドラマ5作目の「三姉妹」でした。大仏次郎原作で江戸幕府崩壊後の旗本三姉妹を描いたドラマでした。坂本竜馬に扮したのは、木枯し紋次郎で一世を風靡した中村敦夫でした。
 「竜馬が行く」で竜馬役を演じたのは市川右太衛門の次男、25歳の若き北大路欣也でした。最後のモノクロのドラマだったのを覚えています。
 以後は脇役で5回の登場です。坂本竜馬は明治維新直前に暗殺されました。土佐脱藩の志士で、活躍の舞台は華々しく表立ったものではありませんでした。芝居で言えば、舞台上の役者ではなく、維新を実質的に演出したディレクターの役でした。独創的な発想を人に教えて、自らは後に身を置いていました。そのためドラマ上でも脇役でした。
 それでも大河ドラマの主役としては、大石蔵之助の4回には及ばないものの、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、源義経と並ぶ2回です。

2.なぜ竜馬が「徳川慶喜」に登場しなかったか
 なぜか坂本竜馬は1998年の「徳川慶喜」には登場しませんでした。「徳川慶喜」は司馬遼太郎の「最後の将軍」を原作として、田向正健が脚本を書きました。
 徳川慶喜の最後の大仕事は1867年10月14日の大政奉還です。坂本竜馬はその1月後の11月15日に暗殺されました。
 司馬遼太郎は「竜馬が行く」の第1巻のあとがきで次のように書いています。
 『坂本竜馬は維新史の奇跡、と言われる。
 たしかに、そうであったろう。同時代に活躍したいわゆる英雄、豪傑どもは、その時代的制約によって、いくらかの類型に分けることができる。型やぶりといわれた長州の高杉晋作でさえ、それは性格であって、思想までは型破りではなかった。
 「薩長連合、大政奉還、あれァ、ぜんぶ竜馬一人がやったことさ」
 と、勝海舟がいった。
 むろん、歴史とはそんなものではない。竜馬ひとりでやれるはずがないのだが、竜馬がいなかったら、事態の模様はちがったものになっていたろう。』
 徳川慶喜の大仕事には坂本竜馬の存在は欠かせなかったのです。おそらく司馬氏はドラマ「徳川慶喜」に坂本竜馬の登場を望んでいたと思います。ところが司馬氏はこのドラマが放映される2年前になくなっていました。脚本家は原作者に気兼ねすることなくシナリオを書けたのでしょう。

 この記事を書くために「最後の将軍」を読み直しました。この小説は「竜馬が行く」と違って説明や描写が多く、登場人物の会話の少ない小説です。たしかに竜馬の言葉はありませんでした。その代わり次の描写がありました。
 『「時勢を救済し、徳川家をも起死回生せしめ、しかも薩長をなだめる奇跡的な妙案がございます」
 といって容堂に上申したのは、大政奉還案であった。この案は土州脱藩の坂本竜馬が立案し、後藤をしてその立案者たらしめようとしたものであった。後藤はしかし、坂本の名は出さず、自分の胸中から出た案のごとく容堂にいった。』
 なぜシナリオライターの田向正健が竜馬を登場させなかったかは謎です。

「35周年記念愛友会民謡発表会」顛末記

 平成22年5月23日、私の所属する愛友会が我孫子市湖北地区公民館で、「35周年記念愛友会民謡発表会」を開催いたしました。
 発表会は盛況のうちに終了、会員一同ホッと胸をなでおろしました。
 ここでは発表会の企画から実施までのいきさつをまとめてみました。

1.発表会の形式をどうするか
 愛友会とは我孫子市の民謡連合会に所属する民謡愛好者の会です。現在の会員数21名、毎月第2、第4日曜日に我孫子市中峠青年館に集まって自分の好きな民謡を唄っています。
 愛友会は我孫子市の他の民謡の会と違って会主といわれる先生はいません。会員は自分で勉強して好きな唄を唄います。ただ、会主の代わりに会長がいます。会長は教えることはありませんが、愛友会を立ち上げ、35年以上にわたって会を維持、発展させてきた愛友会の顔です。
 民謡は通常、三味線、尺八、太鼓の伴奏が付きます。愛友会には三味線、尺八、太鼓の達人がいて、会員の求めに応じて伴奏をしてくれます。大変ユニークな会です。
 私はこの会に20数年前に入会しました。入会した頃に愛友会の15周年記念大会がありました。そしてその5年後に20周年大会を実施しましたが、その後は記念大会を開催していませんでした。
 理由は20週年記念大会が,大勢のスポンサーを取って分厚いプログラムを作ったり豪華な記念品を出すなど、愛友会の体力を超えた大会となって、大会運営に疲れたためです。その後会員からは記念大会実施の声は上がりませんでした。
 そんな経験から、今回の発表会は会員だけで楽しむ会にしようという意見もありましたが、愛友会をここまで引っ張ってきた85歳の会長のために、他の会にも応援を依頼し、観客を動員する記念大会にしようということになりました。

2.会場の確保と応援の依頼
 発表会の準備作業は年明け早々から開始しました。まず発表会の役員を決めました。役員は9人、愛友会会長が大会会長、2人の愛友会副会長が大会実行委員長と総務担当になりました。
 まず会場の確保です。会場は愛友会の毎月の稽古場に近い湖北地区公民館を借りることにしました。3月と4月は抽選にはずれ、3度目の正直で5月23日が確保できました。抽選には大会副実行委員長が粘り強く通いました。
 応援出演には愛友会と付き合いのある会として、我孫子市民謡連合会から5つの会その他から2つの会を選び、出演を依頼しました。
 その後、愛友会会長の強い希望で、当初は予定になかった、愛友会の上部団体の日本郷土民謡協会茨城西南地区連合会から会長と副会長を特別ゲストとして招待するということになりました。

3.時間がかかったプログラムの作成
 プログラムの作成は役員みんなで合議しながら行いました。民謡は唄い手の最も高い声で唄います。そのため、伴奏者は唄の前に唄い手に合わせて、尺八を選び三味線の音を合わせる必要があります。プログラムはその調整の時間をなるべく少なくするように同じ音程の曲を並べて作りました。
 それを印刷屋に依頼し2度も校正すればOKと考えたのですが、いろいろな変更が発生し何度も作り直すこととなりました。
 途中いろいろ問題が生じましたが、大会実行委員長が対処し解決しました。

4.お弁当や記念品や打ち上げの手配
 発表会は入場無料ですが、素人の民謡の発表会にはお客様はなかなか足を運んでくれません。そこで観客動員の切り札として先着100名の来場者に無料でお弁当とお茶を配ることにしました。
 それとは別に、愛友会員や応援団体の出演者や伴奏者には60名分のちょっと豪華なお弁当を用意する必要がありました。
 愛友会員と応援の会の出演者からは出演料をいただいています。お弁当以外に記念品として35周年記念の手ぬぐいを配ることになりました。
 打ち上げは稽古場の中峠青年館で行うことにしました。約50名分の食べ物や飲み物の手配もありました。これらの手配も実行委員長が中心となって行いました。

5.前日の会場の設営
 前日の午後5時に愛友会員の有志が集まり、会場の設営をしました。
 西南地区連合会の副会長に依頼した、すばらしいつり看板と立て看板を取り付けました。受付や各会とゲストの控え室を用意し、舞台の音響装置などの位置を決めました。

6.発表会当日

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 愛友会員は5月23日(日)朝9時に集合し、10時開場、10時30分開演に備えました。
 8時30分ころから冷たい雨が降りはじめました。会場の湖北地区公民館は、設備や収容人員など、この大会には手ごろな会場ですが、我孫子市の市街地ではなく、郊外の田園地帯にあります。湖北駅から遠く、バスの便も不便で、雨が降ると車でなければ来にくいところです。来場者は予想したより少なく、100個用意したお弁当が、10個ほど残ることになりました。
 しかし発表会は大成功でした。唄い手は観客の入りには関係なく精一杯楽しみました。愛友会員はお得意の歌を2曲ずつ唄いました。
 応援の会の出演者も熱演、特別ゲストの両先生も2曲ずつ熱唱してくれました。
 最後は会主コーナーで7人の会主や会長が名調子ののどを披露しました。

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 おおとりは愛友会会長と大会実行委員長が「おたち酒」のかけあいで締めくくり、発表会は午後4時ころ無事終了となりました。
 打ち上げの中峠青年館には48人分の席を用意して、45人ほどの席が埋まりました。みなさんなごやかで楽しい打ち上げに時間を忘れた感じでした。

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