12月はNHKのスペシャル大河ドラマ「坂の上の雲」の第2部が放送されます。このドラマは昨年、今年、来年と3年間にわたって放送され、今年は日露開戦の場面を迎えます。
 弟から「脚気と鴎外森林太郎」と題する寄稿文を大分前に送ってもらっていたのですが、内容が固いだけに今まで掲載を控えていました。ところが今月日露戦争のドラマが放送されることになったため、いいタイミングなので紹介させていただきます。森鴎外は当時の陸軍軍医部長でした。
 もっとも「坂の上の雲」では脚気はなぜか取り上げられていません。いいタイミングというのは私のこじつけかも知れません。
 何年か前に吉村昭の「白い航跡」を読んだことがあります。これは脚気の原因について森鴎外と対立した、高木兼寛の功績と生涯を描いた伝記的な小説です。弟の文章の中にも出てきますが、高木兼寛についても最後に簡単に触れてみましょう。

特別寄稿
脚気と鴎外森林太郎       新田自然

 むかしの健康診断に、木槌で膝を叩くという検査があったのを憶えておられるだろうか。叩かれて膝から下の下肢が反応し、ぴくっと跳ね上がると「正常」と判断される検査法、そう「脚気」の検査である。戦後間もない頃、脚気はまだ身近な病気であった。脚気はビタミンB1を主とするビタミンB群の欠乏によって起こる病気であり、心不全と末梢神経障害をきたす疾患で、下肢にしびれやむくみが起こることから「脚気」あるいは「脚気衝心」とも呼ばれる。

 戦後も落ちつくにしたがい食生活は改善され、一九五二年にビタミンB1誘導体が生産されるようになり脚気は根絶された。それとともに検査もおこなわれなくなり、私達の記憶からも「脚気」は消えていった。しかし最近になって、根絶されたはずの脚気が再燃したと聞くから驚きだ。原因は清涼飲料水とファストフードのハンバーガーやドーナツなど、カロリーは高いがビタミンやミネラルの少ない食品、いわゆるジャンクフードのみで生活する若者が増えたためだといわれる。
 かつて私は、その脚気を身近に経験したことがある。戦後間もない頃のこと、祖父が脚気に罹ってしまったのである。祖父の膝から下がみごとにむくんで、押すとぼこっと引っ込んで穴があいたようになる。他になんの症状もなく、怖くもなかったのでおもしろがって何度も押してみた記憶がある。その頃祖父にどの程度の脚気に対する知識があったのか不明だが、誰かに「脚気には彼岸花の根をおろしがねですりおろしたものを貼り付けるとよい」と言われたらしく「探してきてくれんか」と頼まれ、田圃の畔に探しに行ったことがあった。花の咲いていない彼岸花の葉を知らなかったので、近所の人に教えてもらった。以来、野原を歩いていても彼岸花の葉を見つけることが出来るようになった。一緒に生活していた祖母も私も脚気には罹らなかったので、祖父だけがどうしてなったのかは不明だが、米を作っていた祖父の家は戦後の麦飯からの解放が早く、茶漬けの好きだった祖父は副食をあまり摂らなかったためだったかも知れない。祖父はその後回復したのだろう、その後のことは記憶にない。

 歴史的に見て、脚気がわが国に初めて記録されたのは大同四年(八〇八年)のことだそうで、奈良・平安時代の朝廷貴族において罹患の記録があるが、雑穀や玄米食の大衆には無縁の病であった。脚気が大衆の病となったのは、精米された白米を食べるようになった時代、すなわち江戸中期以降だったようだ。まず富裕層を中心に脚気が蔓延し始め、天皇や将軍にも死亡者が出た。寛延三年(一七五〇)に桜町天皇、安政五年(一八五八)十三代将軍家定、慶応二年(一八六六)には十四代将軍家茂、その正室の和宮内親王も明治になってから脚気で亡くなっている。明治天皇や皇后も罹った。この病は欧米人には見られない、アジアや我が国特有の風土病と思われていた。
 明治に入ってからも脚気は猖獗を極め、とくに悲惨だったのは、日清日露戦争の時代、特に日露戦争における陸軍兵士だった。全傷病者三十五万二千七百余名中、内輪にみて脚気患者は二十一万千六百余名、他病に参入されているとみられる者を含めて推定すると「少なくとも二十五万(約七一%)」、戦病死者三万七千二百余名中実に二万七千八百余名(約七五%)ということになる。ちなみに海軍では、脚気患者は八十七名、同病における死者は三名である。どうしてこのようなことになったのか。(統計の取り方が確立されていなかったため、異数データが存在する)
 森鴎外がこのことに深く関与していることについては坂内正氏の「鴎外最大の悲劇」に詳しいので、主としてそれにしたがって以下を進めてみる。

 当時の第二軍軍医部長である鴎外森林太郎は、脚気は細菌による感染症であるとして、栄養障害説をとる海軍の高木兼寛と激しく対立していた。高木は遠洋航海において乗組員の食事と脚気の発症率を検証し、白米食が脚気の原因だと主張。一方林太郎はドイツ留学中「日本兵食論」を発表、帰国後、陸軍兵食の科学的根拠として「兵食試験」をおこない、白米中心の陸軍兵食を正当化させていた。陸軍が細菌説をとるドイツ系学派、海軍が栄養障害説をとるイギリス系学派の立場をとっていたため、両者は相容れることなく終戦にいたるのである。硬直した官僚組織の最たるわが国の陸海軍は、敵国と戦う場合においても、自らの立場や利害を優先させ、それは大東亜戦争に至っても容易に改善されなかった。また陸軍内部においても白米派と麦飯派に別れ、石黒忠悳率いる白米派が力をつけ、麦飯派は人事面でも冷遇された。林太郎も白米派の中心人物で論客、「脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎」などという自分たちにとって都合のいいデータのみを使用する非論理的な論文を発表し、左遷先の小倉から復帰を果たし、第一師団軍医部長に栄進している。
森鴎外(ウィキペディアより)(画像のクリックで拡大表示)
 脚気患者続出の中で特に惨状を呈したのが旅順攻略についている乃木率いる第三軍であった。脚気のためまともに走ることが出来ず、「恐怖のため酒に酔って」突撃していったと、外国の観戦武官の目に映った。乃木にとって林太郎は、息子に与える本の推薦を依頼するほどの畏友であり、左遷され小倉へ出立する林太郎を独り駅頭に見送ったりする仲であった。そんな乃木であるから、林太郎の説を疑うことなく遵守したようだ。
 平時においては、経験的に麦飯を食べると脚気にならないと、各師団は麦を調達し脚気は沈静化していたにもかかわらず、戦争にともない林太郎達の差配で麦の配給は停止されてしまった。患者の激増に耐えきれなくなった陸軍大臣寺内正毅は、前線からの強い要請を受けて、林太郎の頭越しに現地軍に対し割麦を送る決定をした。
 また、林太郎は実にまめに報告書を野戦衛生長官に送っていたが第九十九回「臨時報告」において、他の軍については脚気患者数を報告していたが、旅順攻撃の第三軍についてのみ脚気患者数を報告しないばかりか、「平病」として内地へ送り返した患者数を異様に多い四万四千六百十五名と報告している。旅順を視察した海軍中佐が「兵員はほとんどすべてが脚気に侵されている惨状」と報告しているにもかかわらず「平病」患者が突出して多いのは何を意味するのであろうか。
 「ロシアのどの将軍よりも多くの日本兵を殺した」と陰で非難された森林太郎は、それでも軍医最上位の陸軍軍医総監(中将相当)、陸軍省医務局長にまで上りつめ、退官後一年数ヶ月で、側近を務めた元老山県有朋の推薦もあって、帝室博物館総長兼図書頭、帝国美術院初代院長などに就任、一方では考証史伝「渋江抽齋」「伊澤蘭軒」「北条霞亭」など三部作を書き上げ文豪の名を恣にした。戦後、脚気の原因を探る「臨時脚気調査会」の会長も務めたが、死ぬまで自説を曲げることはなかった。調査会は林太郎の死後一年九ヶ月して、脚気はビタミンB欠乏による栄養障害病であると認めたのを最後に解散された。

 鴎外晩年の憂鬱は人口に膾炙されるところである。その理由についていろいろ論評されているが、大きな位置を占めるのが「脚気問題」ではなかっただろうか。自説こそ曲げなかったが、彼は心の奥底では、高木説に敗北することを確信していたに違いないと思うのである。自己主張が激しく、若い頃より「論争」に明け暮れ、生来の負けを認めない性格は、自らの死に際まで引きずらざるを得なかった。しかしやがて解明されるであろう脚気の原因は、自説にこだわるあまり、麦の供給を断ち、多くの兵士を無駄に死に追いやったとして、必ずや責任追及されるであろう、畏友乃木は旅順の戦いにおいて多くの戦死者を出した責任をとっていさぎよく自害している。「にもかかわらず己は」と、そのことが頭を離れなかったのではないかと思われるのである。

 鴎外と脚気のしがらみは、津和野藩御典医であった祖父森白仙に遡る。脚気を病んでいた白仙は参勤交代で国許に帰る藩主一行に随行できず、遅れて旅立ち、東海道中鈴鹿峠を越えた江州土山の宿で脚気衝心のため急死した。祖父を深く敬愛する鴎外は、左遷された小倉時代、東京への出張の途中土山に立ち寄り、宿場はずれにある常明寺の古塋域を捜索し、白骨の露出する荊棘のなか、白仙の墓碑を探り当てている。
 また自らの死を前にして逢着した「北条霞亭」の死因が、不幸にしてまた脚気だった。この死因について鴎外は異様なまでのこだわりで、文中五回にわたり「脚気ではなく萎縮腎である」との説を強引に繰り返した。これは日露戦争において、他の軍医ならば容易に脚気と診断するであろう患者兵士達を、厳しく細を立てて診断し、平病として分類してきた過去があったことと符合する。であればこそ霞亭の症状は厳密に診断すれば、萎縮腎であって真性の脚気ではなかったと主張したかったのだろう。彼にとってそれがなし得る唯一の釈明の道であった。後世に伝わるであろう脚気問題における彼の誤りと責任に対する、これがなおわずかな矜恃を残した唯一可能な釈明であった、と坂口はこの本を結んでいる。
 鴎外は皮肉にも、その「萎縮腎」で亡くなった(肺結核を併発していたともいわれる)。

 そして彼は死に臨んで有名な遺言を残した。
「余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス 森林太郎トシテ死セントス
 墓ハ森林太郎ノ外一字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ 手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス 大正十一年七月六日
                        森林太郎言(拇印)賀古鶴所書」

 と彼は文学者とは思えない乱れた文体と異常なまでの強いトーンで死後の外形的取り扱い(受爵など)と墓碑銘にいろいろ書かれることを拒否したのである。脚気論争で負けた高木は生前に男爵となって「麦飯男爵」と評されており、軍医総監の前任である石黒忠悳、小池正直もそれぞれ子爵、男爵となっている。また彼らがなった貴族院議員にも推挙されなかった。なぜ爵位が授けられなかったのかは明らかではないが、膨大な脚気による死者を出したこと、軍人と文筆家の二足のわらじを履き続けたことなどが影響していると考えられなくはない。自らの昇進と階級服である軍服着用にことのほかこだわった林太郎にとって、爵位は自らを装飾するにふさわしい衣冠束帯であったはずである。そう思わざるを得ないのは、林太郎が軍医総監になったとき、バイエルン国軍医総監フォン・ロッツペック夫人に自らの肩書きに「男爵」をつけて挨拶状を送ったりしていることだ。死後受爵できなかったことに対する屈辱から逃れるため、このような遺書を残したという説さえもある。でないとするならば、そんなことにこだわり続けてきた自分について、もういい加減にして裸で死んでゆきたいのだと思った、とも解せなくはない。
 鴎外の遺書に対する解釈は、渋川驍、唐木順三、高橋義孝、松本清張、江藤淳など多くの人が評論を試みているが、不思議なことに脚気についての言及が少ないのである。戦中までの評論ならば陸軍に対する憚りがあったと思えるが、戦後も昭和五十六年にいたって初めて松本俊一氏によって公に指摘されたのではいかにも遅い。文豪に対する遠慮がそうさせたのだろうか。これだけ豊富に残されている文献、書簡、諸統計などから脚気へのアプローチはそれ程困難ではなかったはずである。

 話は飛ぶが、日露戦争について克明に描写されていると言われる司馬遼太郎の代表作「坂の上の雲」においても脚気は不思議に出てこないのである。旅順攻防の戦闘シーンは彼我双方の視点から精緻に描き出され、作者特有の「余談」まじりに読ませてくれる。しかし話が乃木軍の司令官の性格や参謀長の作戦の不備、児玉源太郎のとった行動などについては詳しいが、脚気の惨状については触れていないのである。これだけの患者や死者を出しながら、それに触れずして旅順攻防戦の語りは画竜点睛を欠くことになる。神田の古本店を空にするほど、徹底的に資料漁りをするこの作家にして「脚気」に出くわさなかったのだろうか。あるいは乃木を評価しない司馬遼太郎の小説の構成上故意に除外したのであろうか。

 遺書を口述して三日後鴎外は没した。看護婦の証言によると、臨終の言葉は「ばかばかしい」であったという。たぐいまれな頭脳とあふれんばかりのエネルギーで、文武ともに最高位にまで上りつめたが、まだまだ未練を残す死であった。彼は妄想という作品の中で「自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる」「舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる」「夜寝られないときにはこんな風に舞台で勤めながら生涯を終わるのかと思ふことがある」と書いている。彼に鞭を与え続けたのは、母峰子であったか、山縣か石黒か、はたまたもうひとりの自分であったか、「ばかばかしい」とは、心ならずも走り続けた人生をふり返っての言葉だったのかも知れない。
 享年六十歳、三鷹禅林寺に「森林太郎墓」とのみ彫られた墓碑が立っている。

 冒頭の話に戻るが、脚気に罹った私の祖父は砲兵として日露戦争に従軍したそうで、大切そうに砲兵隊の写真を持っていた。その写真にはなぜかロシア軍兵士も写っていて、なんとなくのんびりした戦争だと子供心に感じた記憶がある。
 砲兵隊は陸軍だが、はたして祖父は第何軍に従軍したのだろうか、そして従軍中脚気には罹らなかったのだろうか。

参考文献
 「鴎外最大の悲劇」 坂内正著 新潮社
「鴎外を学ぶ人のために」 山崎国紀編 世界思想社
 「二生を行く人森鴎外」 山崎一穎著 新典社
「虚無からの脱出森鴎外」 吉野俊彦著 PHP研究所
フリー百科辞典「ウィキペディア」

高木兼寛「脚気の原因は食べ物にあり」

 高木兼寛は我が国最初の医学博士、慈恵医科大学の前身成医会講習所の創設者として知られています。
 日露戦争後陸軍軍医総監となった森鴎外と海軍軍医総監だった高木兼弘は脚気の原因で対立しました。森鴎外は細菌が原因、高木兼寛は食べ物が原因と考えました。
 森鴎外はドイツに留学、高木兼弘はイギリスに留学しています。鴎外のバックには細菌説をとるドイツ医学、陸軍、東京大学医学部がありました。高木兼寛はイギリス医学、海軍が後ろ盾でした。
 高木兼寛はイギリス留学時代,イギリス人には脚気患者が皆無ということに気づきました。そしてそれはイギリス人の取る食事がその効果をもたらしているのではないかと考えたのです。
 兼寛は海軍に洋食と麦飯という兵食改革を取り入れました。その結果海軍では脚気発生率が、明治16年23.1%、17年12.7%、18年以降1%未満と激減しました。
 しかし現場で実証されたものの医学理論が粗雑だったため、なかなか認められませんでした。
 私が学生だった50年以上前、病院で先生が書くカルテはドイツ語だったのを覚えています。カルテという言葉そのものがドイツ語です。日本の医学は明治時代よりドイツ医学が主流でした。
 高木兼寛の功績が認められたのは、彼の死後ビタミンが発見されてからでした。

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