謹んで東北地方太平洋沖地震で亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された方々へのお見舞いを申し上げます

 恐ろしくも痛ましい巨大地震でした。大津波で多くの人が亡くなり多くの家が流されました。そしてそれに続く東京電力福島第一原子力発電所の大事件です。太平洋戦争以後の最大の災害、最大の国難と言えるでしょう。
 手賀沼通信4月号は地震の起る以前に書きあげていたのですが、この地震の体験を中心に急きょ書き直すことにしました。書き始めたのは地震発生から9日が過ぎた3月20日ですが、毎日事態が動いています。お手元に届くころには古くなった情報が混じっているかもしれません。その節はお許しください。

 弟のエッセイはこの地震について感じたことをまとめたものです。私も弟も仙台に赴任し何年か住んでいました。

「東北関東大地震」体験記

1.3月11日午後2時46分

 毎週金曜日の2時40分から30分ほど、近くの我孫子市立第一小学校の下校見守りをボランティアでやっています。
 3月11日はボランティア仲間と2人で学校近くの道路で子供たちが校門から出てくるのを待っていました。そこにあの大地震がきたのです。
 ものすごい音と揺れでした。地面が躍動し、目の前のカーブミラーが今にも折れそう、周りの家が崩れそうな感じでした。急いで仲間と学校に駆けつけました。
 学校の体育館の壁がはがれて落ちていました。子どもたちは危険を避けるため急いで学校のグラウンドに集められました。そこにかなり大きい余震が来ました。校舎の屋上の放送塔が大きく揺れました。授業は中止、保護者を呼び出して無事に帰宅する方法が取られました。
 妻が心配だったので携帯ですぐ家に電話しましたが通じません。子供を迎えに来たお母さんに震源地を聞くと宮城県とのこと、仙台に赴任している長男一家がどうなったか不安でした。
 子どもたちは保護者に任せることにして急いで家に戻りました。妻は地震の時家の2階にいたのですが、死ぬかと思ったそうです。路上にいた私のほうが感じた怖さは小さかったかもしれません。
 家の中は1階はほとんど変わりはありませんでしたが、2階はものが落ちて散乱していました。私の部屋はパソコン本体が倒れ、モニターも下に落ちていました。幸いどの部屋も家具は倒れていませんでした。
 庭の石燈籠は倒れていましたが、家には損傷は見られませんでした。

2.長男一家の被災者生活
 仙台には固定電話も携帯も携帯メールも通じません。災害用伝言ダイヤル171はうまく操作できませんでした。家内と二人で心配しながらただ待つしかありませんでした。
 6時前に妻の携帯に長男の嫁から、「パパは会社に、自分は友人と蕎麦屋に、娘は幼稚園にいる」というメールが届きました。地震直後に打ったメールが3時間ほど遅れて届いたのです。3人がそれぞれ別の場所にいることは分かりましたが、安否は分かりませんでした。
 夜10時ころ、やっと長男から電話がかかりました。携帯電話からの電話でした。「3人とも無事でマンションの駐車場の車の中にいる。停電しているので今晩は車の中で過ごす」とのことでした。無事だったことに思わず涙が出てきました。後でわかったことですが、携帯のヤフーの災害用伝言版に長男の嫁からみんな無事というコメントが入っていました。
 翌日メールが来て、マンションに入ったところ、家の中はめちゃめちゃで、マンション全体に水漏れがあり、しばらく住めそうにないとのこと、車の中での生活が始まりました。
 その後、孫の幼稚園の同級生のお宅に泊めていただけるようになり、真冬並みに寒かった夜も家の中で過ごすことができました。
 そして地震の影響で長男の職場が一時的に東京に変わったため、3月23日に3人で仙台発新宿行の緊急避難バスでこちらに避難してきました。21日からクロネコヤマトの宅急便も営業を再開していたので、身の回りの品物を送ることができました。

3.我孫子市と若松の被害
(画像のクリックで拡大表示)
 我孫子市では人的被害はありませんでした。3月17日現在、約250戸の家屋損傷が報告されています。成田線の沿線の布佐地区が地震の最大の被害を受けました。
 液状化現象で電柱が倒れたり、土砂や水があふれたりしました。
 私の住んでいる若松地区でも被害がありました。大谷石の塀やブロック塀が倒れたり、地盤がずれたり、液状化現象で土砂が噴出していました。
 手賀沼遊歩道はいたるところ液状化現象で砂が溜まったり壊れたりしていました。

4.恐ろしい大津波の爪痕
 関東大震災や阪神大震災では多くの人の命を奪ったのは、地震の後に発生した火災でしたが、今回の地震では津波の恐ろしさを思い知らされました。その痛ましい映像がテレビで何度も放映されました。一瞬声を失いました。家族や友人や我が家が流さていく様子を目の当たりにした被災地の方々は、どんなに辛かったことでしょう。
 私は1975年から78年まで仙台に赴任していました。津波の犠牲になった、気仙沼、志津川(南三陸町)、女川、石巻、塩釜、相馬などには仕事や遊びで行ったことがあります。特に女川にはたびたび会社の同僚と釣りに行きました。舟を借りるなどお世話になった行きつけの釣り宿がありました。おそらくその宿も津波で流されてしまったことと思います。志津川にはチリ津波のにがい経験から高い防潮堤が作られていました。「これがあるから今度は大丈夫」と土地の人が言っていたのを思い出します。
 昨年10月には宮古からの陸中海岸をバスと三陸鉄道で巡るツアーに妻と参加しました。宮古の田老地区、ホテルのあった田野畑村、ウミネコの八戸港、いずれも思い出深い場所ですが、やはり津波に襲われました。
 街そのものがなくなり、大勢の人が亡くなった三陸海岸の復興はどのように進めていくのか、大きな課題です。
 時がたつにつれ判明していく人的被害の大きさを読売新聞で追ってみました。
死者行方不明
・12日(土)夕刊  287  725
・14日(月)朝刊 1217 1086
・16日(水)朝刊 3373 6746
・18日(金)朝刊 5692 9506
・20日(日)朝刊 750811680
・22日(火)朝刊 880512654
・24日(木)朝刊 948715617
・26日(金)朝刊1010217053
・31日(木)朝刊1136216290
 また20万人以上の人が苦しい避難所生活を送っており、津波ですべてを失った人々の生活再建のめどは立っていません。

5.福島原発はどうなるのか
 福島県の東京電力の福島第一原子力発電所と福島第二原子力発電所は激しい揺れと津波の被害を受けました。第二原発は安全に停止しましたが、第一原発は深刻な状態に陥っています。
 地震発生から3月27日までの福島第一原発の経過を追ってみましょう。
・地震発生の翌12日の午後、1号機で水素爆発が起こり、原子炉建屋が骨組みを残して崩壊。
・14日午前11時過ぎ、3号機が水素爆発を起こし建屋の上部が吹き飛ぶ。
・福島県が半径20キロメートル以内の住民に避難指示。
・2号機は14日午後7時45分頃、原子炉内の冷却水が完全になくなり、燃料棒がすべて露出して冷却でき
 ない状態になる。
・2号機は15日午前6時14分、原子炉格納容器の下にある圧力抑制室の一部が損傷。高濃度放射能が
 拡散する大変深刻な事態。
・15日午前6時頃、4号機の使用済み核燃料プールがある建屋5階の屋根付近が損傷し、4階付近で出
 火。
・1号機から4号機まですべてに緊急事態が発生。
・菅首相は福島第一原発周辺の半径20キロから30キロ以内の住民に屋内退避を勧告。政府と東電は事
 故対策統合本部を設置。
・15日午前10時22分3号機付近で400ミリシーベルトの超高濃度の放射能を観測。
・4号機は16日午前5時45分頃使用済み核燃料を貯蔵するプール付近で再び出
 火。
・3号機に対し、17日午前9時48分、自衛隊の大型ヘリ2機が2回ずつ海水を投下。
・17日夜には自衛隊の大型消防車両5台で、約30トンの放水。放水は18日も行われる。
・19日には東京消防庁の屈折放水塔車も加わり3号機に向けて約60トンの海水を放水。
・20日には初めて4号機に対して放水。2号機に対しては冷却機能回復を目指して外部電源からの通電作
 業。
・21日政府は福島、茨城、栃木、群馬県産のホウレンソウ、カキ菜、福島産の原乳の出荷制限を要請。23
 日には制限の種類を拡大。
・23日3号機の中央制御室に電気が通り、3、4号機に真水を送り込む作業開始。
・23日東京都の金町浄水場から乳児が飲む暫定規制値の2倍以上の放射性ヨウ素を検出。
・24日3号機の地下で作業中の東電作業員2名が被ばく。
・25日南放水口付近の海水から基準の1250倍の放射性ヨウ素が検出される
・30日勝俣東電会長が1号機から4号機までを廃炉にする方針を明言。
 いつ、どのような形で終息するのでしょうか。

6.いつまで続く計画停電
 東京電力は3月14日から地震による電力供給力不足を補うため計画停電を実施することになりました。
 事前に十分な説明や根回しを行わないで実施に踏み切ったため、初日の首都圏の鉄道網は大混乱、計画停電ではなく、無計画停電となりました。
 2日目からは通勤の足は回復しつつありますが、計画停電は国民生活や企業活動に大変な負担や支障を与えています。
 自治体のイベントや施設は3月いっぱい中止になり利用できなくなりました。お店も計画停電中は閉店です。工場が閉鎖されるところも多く、生産活動が鈍っています。プロ野球やJリーグは試合を中止したり遅らしたりしています。
 計画停電は4月いっぱい続くとのこと、夏になれば冷房による電力需要が増え、また計画停電が行われるはずです。
 福島第1、第2の原子力発電所が使えないため、電力供給はどうやって回復するのでしょうか。中部電力や関西電力は東電とサイクルが違うため、やりくりすることは簡単にはできません。休止している火力発電所をできるだけ多く再開させ、 長期的には風力発電や太陽光発電などクリーンエネルギーの活用を図るべきでしょう。

7.日本人は素晴らしいのか思いやりがないのか
 「日本ではあれだけの災害が起こっても、被災地では略奪や強盗やいさかいなどが起こらない」と、諸外国から驚きと称賛の声があがってるようです。
 毎日のようにテレビで被災地の様子が放映されていますが、皆さん整然と行列を作って水や食料や救援物資を受け取ったり、お互い励まし合い助け合って避難生活を送っているのが見られます。日本人はほんとうに素晴らしいと改めて感じました。
 ところが被災地でない場所で日本人の身勝手さ、思いやりのなさが見られます。
 地震発生直後から近くのガソリンスタンドは長蛇の列が続いていました。そんなに急にガソリンがなくなったはずはありません。満タンにしておきたいという心理が働いたのでしょう。並んでいる車はほとんど乗用車でした。
 被災地の東北は関東よりも寒いところです。そこでガソリンや灯油が不足しているのです。日本人に本当に思いやりがあるのなら、自分たちは我慢してでもガソリンや灯油を災害で苦しんでいる人たちに回してあげようと思うはずです。枝野官房長官が国民に対し不要不急のガソリンを入れないよう国民にお願いしましたが、どこ吹く風でした。
 やさしさが日本人の本質か、自己中心主義が日本人の本質か、わからなくなりました。おそらく両方とも日本人の本質かもしれません。人によって、時によって、どちらの資質がより多く現れるかでしょうか。

特別寄稿
運命              新田自然

 ニュージーランド、クライストチャーチで多くの日本人が地震にあったのは2月22日、まだ一ヶ月も経っていない間の出来事だ。あんなに遠くまで出かけて行って地震に遭うとは運の悪いことだ、と事故直後には思っていた。
 そして、3月11日は悪夢を見ているようだった。友人を病院に見舞って話し込んでいたとき、突然大きな揺れが来て、テレビをつけたら東北の惨状はもう始まっていた。それから延々と続く、これでもかこれでもかと押し寄せる津波パワー。人も家も車も船も、いとも軽々と呑みこんで押し流す海水の力に、声も立てられず見入っていた。そのものすごい映像はもうみんなの共通のものとなっているため、これ以上述べることはしない。
 その時東北にいたという「運命」あるいは「運の悪さ」がこの稿の主題だ。
 運命とはその人の意志や努力では、どうしようもない巡り合わせだと定義される。たしかにその時、そこで生活していた人、旅行でその地に行った人、一秒先の未来を予知できない以上、どうしようもない巡り合わせだと言えよう。三陸沖は地震の巣だと、絶対に足を踏み入れない人がいたとしたら、今回の地震には遭わなかったとしても、この列島に住んでいる以上、どこで地震に遭うかも知れないのだ。かつて関西には地震が少ないとして、地震保険料も安く、保険加入者も少なかったが、阪神大震災は東京より早く起こってしまった。
 未来を予知することは出来ないとしても、人間が打つ手段として、地震予知、あるいは病気などの早期発見というのがある。地震については、地殻変動などから、発生を予知しようとしたが今回は機能しなかった。癌や糖尿病など、検診によって早期に発見し、早期に治療することによって、早く死ぬリスクを回避できる。しかしそれですら「死ぬリスク」は他にもあり、他の病気で死ぬリスク、検診に通う途中の交通事故で死ぬリスクなどいろいろあって、生きているかぎり、すべてのリスクから逃れることは不可能である。運命論者的に言うと、人は定められた「運命」にしたがって生きていくしかないのだろうか。
 「仕方がない」とは理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面した際に、粛々とその状況を受けながら発する、日本人特有の諦観の感情表現である。織田信長は明智光秀に本能寺で襲撃されたとき、「是非にあらず」と呟いたという。これもやむをえないこととして運命を受け入れた言葉だ。
 こんどの東北の悲劇をその地の人達は「仕方がない」として受け入れ、寒さの続く夜、燃料も水も食糧も不足する中で、人々はけっして盗みや暴動などを起こさず、助け合って懸命に救助を待っている。「堤防が低かった」とか「避難誘導が悪かった」とか政府や行政を非難することもない。被災者達は事故が起こったことを天命として受けとめ、やがて力強く復興にむけた活動を始めるに違いない。これこそ日本人のしなやかさ、力強さである。日本人のすばらしさを世界に発信して欲しいものだ。
 しかし原発事故に対する政府、東京電力の対応の悪さは、原子力という凶器を扱う責任ある者としては、頼りなく、右往左往して、初期対応、情報提供、避難誘導など、不手際が目立った。大地震に対する対応策こそ、原発推進者に課せられた必須の義務だったはずだ。数百年に一度の大事故だったのだから「仕方がない」と諦めるには、あまりにもふがいない対応だといわざるを得ない。

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