今月は長男一家が東日本大震災に遭ったときの体験談を紹介させていただきます。6ページの拡張版になりました。
 長男一家は夫婦と5歳の幼稚園年中組(現在は年長組)の娘の3人家族で、仙台市青葉区、仙台と山形を結ぶJR仙山線の陸前落合駅近くのマンションの6階に住んでいました。被害の大きかった海側ではなく、山側のため、津波には襲われませんでした。
 体験記は、長男の妻が自分のブログに載せたものです。

特別寄稿
東日本大震災体験記
       新田知栄


(地震発生当日)
1.14時46分
3月11日午後2時46分 マグニチュード9.0 震度6弱

 この日6月に計画していたライブの打ち合わせをするため、友人と会場になるおそばやさんでランチをしていました。おしゃべりしながら美味しいおそばを食べて、さーそろそろ本題と思っていた矢先でした。
「なんか揺れてるね」
「あれ、すごくない?」
(厨房の方でガチャンガチャンと食器の割れる音)
「何これ」
「外に出て!」とママさん
 外は広い駐車場で上に物がないのでとりあえず外にでました。4分近く揺れていたでしょうか。そして電気が消えました。すぐに携帯をワンセグにして情報をとりました。震度6や震度7などの速報が次々に入り、大津波警報がでました。
 私のいたおそばやさんは仙台南方面長町というところです。そして我が家は山側。津波の心配はありませんでしたが、この大きな揺れにしばらくの間手が震えてとまりませんでした。幼稚園の課外保育に預けている娘のこと、ビルの5階にいるパパのことなど他にも次々と頭の中をめぐります。 すぐにパパからメールが届き、返信をしたのですが後で聞くとそのときにはもう届かなくなっていたらしいです。幼稚園からも大丈夫というメールが届いたのですが、友人の娘さんの学校からはメールが届かず心配になりながら、とりあえず気持ちを落ち着けようと2人で車にいました。

2.1時間たって
 信号が動かなくなり渋滞の可能性が出てきたので、そろそろ子ども達を迎えに行こうと意を決して友人と別れることにしました。長町から幼稚園まで通常なら車で30分ほどの距離、それが2時間以上かかりました。渋滞の中、運転中の電話も非常時の電話もいけないこととわかっているのですが、やっぱり一言でも連絡しなければと思い、携帯を片手にパパや札幌や我孫子の実家に何度も電話をかけつづけました。
 そして、偶然にも札幌の母につながり無事と状況を説明。その後パパも札幌の母に連絡がとれたようで、私達の無事は確認できたらしいです。この地震、我孫子でも相当な揺れだったらしく、連絡がとれない理由が後でわかりました。
 雪が降り出し、幼稚園に着いたときには外は真っ暗。娘は幼稚園の園庭に停めた園バスの中に数人のお友達と先生3人といました。先生と軽く話して早々に自宅へ向いました。幼稚園と自宅まで通常7分くらい、それが30分かかりました。
 娘は「地震の時おやつの時間の時でね、ちょっと泣いちゃったけど先生がいたから大丈夫だったよ」「バスでは先生と歌をうたったり、手遊びしたりしたよ」と話してくれました。先生方は子ども達に不安を与えないよう、いつも通り楽しく過ごしてくれたようです。先生方だってどんなに不安だったかと思うと、本当に感謝です。
 娘はやはり緊張していたのでしょう、話をしてくれた後あっと言う間に車の中で寝てしまいました。

3.18時半過ぎ
 自宅に到着。マンション1階の空き店舗スペースに管理人さんの運営している会社の人達がいました。とにかくまずは懐中電灯を家から取り出さねばと思い、会社の人にランタンをかりて、寝ている娘を車に残していることを伝えて暗い非常用階段を上りました。
 玄関を開けると何故か水がたまっています。そんなことよりも想像を絶するほどの惨状。足の踏み場などあるわけもなく、迷うことなく靴のまま入りました。そして懐中電灯を手にして、すぐ手に取れたお菓子類を袋に詰め込み、寒さしのぎのためスキーウェアを抱え階段を降りました。
 2度目は布団を探しました。何故か私の布団は水浸し。パパの部屋へ行きパパの布団や毛布は無事だったのでそれを抱え、娘のズボンなどとにかく寒さをしのげるものを手に取り部屋を出ました。
 ランタンを返しに行くと、スーパーからお弁当や飲み物を引き受けていたようで、それをもらって車に戻りました。そこで娘を起こしました。19時半、まだパパとは連絡がとれません。

4.20時頃
 お腹もあまりすいていなかったので、近くのお友達の駐車場へ歩いて様子を見に行くことにしました。電気がなく真っ暗なのに娘は一眠りして元気一杯。多分安心したのでしょう。懐中電灯で足元を照らしながら歩いたのですが、ふっと空を見上げると星がキラキラときれいに光っていました。娘と「電気がないとこんなにきれいなんだね〜」と話しながら手をつないで歩きました。
 そんな時にパパからの着信。地震発生から全くつながらず、札幌の母を通して無事は知っていたらしいのですが、とにかく直接話ができていなかったので、とても心配していたようです。会社の人に車で送ってもらっていると言うことで、何時間かかっても帰ってくることがわかり安心しました。
 さてさて向ったお友達の所は6歳4歳2歳の3人兄弟で、車を発見して声を掛けると、ママは来てくれてありがとうと喜んでくれました。やはり3人の子どもを連れては不安だったことでしょう。私だって1人だけど子どもを連れていることは不安だったし・・・。1時間くらい車で話してから自分の車に戻りました。

5.パパ帰宅
 21時を過ぎた頃だったでしょうか、意外と早くパパが戻りました。とにかく3人そろえたことに安堵。とりあえずパパも一度部屋へ行ってくると言って、必要なものを取りに2、3回部屋を往復しました。ちなみに我が家は6階です。
 もらったお弁当を3人で食べてから、ダメもとで両方の実家へ電話をかけまくりました。運良く我孫子の実家にかかり、3人無事に会えたことを伝えるとお母さんは泣きながら喜んでくれました。
 その後は特にやることもなく、ガソリンの心配もあったので、車中をしっかり暖めてエンジンを切りました。コートを着たまま毛布2枚と綿の入った布団を3人でかけて横になりました。
 その間も友人達からメールがたくさん入りました。時間はかなり遅れていましたが、地震発生直後から心配のメールをもらいました。なんだかすごくうれしくて、ホッとしました。そしてすぐには届かないだろうけど、無事であることの返信を続けました。
 そうそう、夕方娘を迎えに行く車の中で「YAHOO災害伝言板」というのを見つけました。とにかくパパに連絡したい、誰かが見て誰かに知らせてくれる、見れば安心してくれると思い、早々に自分が今どうしているかを簡単に書き込みました。「その災害伝言板見たよ」と言う人が何人もいました。何でも良いから無事を知らせるものは利用しておくもんですね。
 娘は車の中で寝ることに「キャンプみたい」なんて喜んでいました。そんな言葉に実は親達は救われていたかもしません。疲れていたのか娘はあっという間に寝てしまいました。
 これからどうしようと話をしましたが、全く見当がつかず。とりあえず目を閉じましたが、ウトウトしては余震で車が揺れるという繰り返しの夜でした。

(地震発生から2日目)
6.地震翌日の朝
 さすがに車で寝ていたので熟睡はできず早々に目が覚めました。体はコートを着て布団をかぶっていたのでさほど寒くなかったのですが、顔だけがとにかく寒かったです。
 6時頃回りの車もエンジンをかけはじめ、なんとなく人の動きも始まったので、我が家もエンジンをかけ車を温めました。同時に携帯の充電も忘れません。以前購入してあった車の電源から充電できる充電器を装備してあったので、ガソリンがある限りは大丈夫。パパが電池式の充電器も持っていたので、携帯電話の充電に関してはあまり不安はありませんでした。
 夜中もひっきりなしに遅れていたメールが届き、友人からの心配してくれるメールに励まされながら、無事であることを伝えました。両方の両親にも電話をかけたりして朝も無事であることを伝えました。
 テレビでは津波の被害がどんどん入ってきます。あまりのすごさに言葉がありません。私達も被災者と言えばそうなのでしょうが、津波の被害の方達に比べれば車もあり、着る物も布団も、食べ物もある、被災者なんて言葉は口にできないなあと思いました。
 うちの娘は幸いどこでも寝れるタイプ。夜の余震にも目を覚ますことなく朝までぐっすり寝ていました。それでもいつもよりはちょっと早起き。3人で前日もらっていたパンや家から持ち出したバナナでいつもと変わらない朝食をとりました。
 実はうちのマンションは同じ敷地に2棟建っていて、片方の1階は地元のスーパーです。マンションの駐車場は2階建てになっていてやっぱり危険。住人のほとんどが上からの物が落ちてくる心配のないスーパーの駐車場で一夜をすごしました。
 そのスーパーに動きが見え始めました。そしてじわりじわり人の列が連なりはじめました。まだ片付けに入る気分にもならないので、とりあえず並んでみることにしました。店舗内は被害を受けているので、外で青空市のように水やパン、カップラーメンなどを運び出してきました。2時間くらい並んだでしょうか。2リットルの水1本、カップラーメン3種類9個、焼きたてのパン4種類ほど、バナナ1房を購入しました。
 車の中か車の側をウロウロしている1日だったので、そこからスーパーの従業員の人(5名くらいだったかな)の姿をみていると朝10時くらいから15時頃まででしょうか、休みなく販売をしてくれていました。従業員の人だって地震にあっているわけだし、もしかしたら実家や親戚、友人などで津波の被害を受けて安否がわからない人もいたかもしれないし、そんなことを思うと仕事に使命感のようなものを感じられました。本当に感謝です。
 後でわかりましたが、地震翌日に営業していたお店はこのスーパーのチェーンだけでした。

7.孤立感
 食料を確保、家からも必要なものを取り出し、とりあえず現状では一安心したときでした。お昼前ころから携帯が全くつながらなくなりました。メールが行かなくなり、電話もかからなくなりました。これだけ携帯が普及している現代、携帯電話がつながらなくなることにすごい孤立感を感じました。固定電話もつながらないこの未曾有の災害時に携帯電話までダメになったら、緊急時消防署にも警察署にも病院にもつながらない。もちろん家族や友人にも・・・。地震当日の揺れ以後、この携帯がつながらないということにすごい恐怖でした。
 結局13日の夕方まで一度もつながることはありませんでした。これは我が家のソフトバンクに限らず全部の携帯電話会社がつながらなかったようです。

8.階段上がって下りてきて
 昼の時間はあっという間にすぎていきます。食料や水は確保できたので、今度は必要なものを自宅から少しずつ持ち出してきました。水を入れるタンクやカセットコンロ、ヤカン、割り箸、タオル類などなど。キャンプ用のランタンもあったことを思い出し取り出しました。
 私はマンションに入ると頭がクラクラして気持ち悪くなってきてしまって、この日はパパが何度も何度も階段を上っては下りてと頑張ってくれました。そんなパパでも部屋に入ると何を取りに来たのか頭が真っ白になってしまってクラクラきそうだったとのこと。それからは取って来たいものをメモに書き、携帯がつながらなくて心配なので時間を区切って「15分後に戻るね」とか決めていってもらうことにしました。
 一通り揃えた頃にはお日様は西へ傾いていて、また長い長い夜をむかえようとしていました。この日の夜はカセットコンロでお湯を沸かしカップラーメンを食べました。
 食べ終えると何もやることはありません。携帯もつながらないし・・・。20時すぎ3人で布団に潜り込みました。こんなに早く寝ることなんてないね〜と言って目を閉じました。この日も余震は何度もあり、夜中も車が何度も揺れました

(地震発生から3日目)
9.3日目の朝ごはん

 3日目、やはり朝早くから目が覚めました。朝は寒かったのですが、お日様が昇るにつれてどんどん暖かくなってきました。この日もスーパーが動き始めました。食べ物があるのならと思ってまたまた並んでみました。レトルトのおかゆや温めるご飯、子供用のレトルトカレーを購入。いちごをみつけた娘が「食べたい!」と言うので、大人もビタミンCが必要だねなんて言って1パック買いました。
 それから朝ごはん。前日買ったパンに部屋の冷蔵庫にあった口の開いてなかった牛乳、私はパパに頼んで持ち出してもらったコーヒーセットで温かいコーヒーを落として、ポカポカお日様の下で朝食をとりました。もちろん買ったばかりのいちごも美味しく食べました。
 娘は元気一杯、「お日様の下で食べると美味しいね」とニコニコでした。地震の恐怖感や心が不安定になっている様子はなく、親としては一安心。娘は地震のとき幼稚園にいたのですが、親が迎えに行くまで先生方が怖くないように楽しませてくれていたとのこと。そのおかげで心が安定していたのだと思います。先生方には本当に感謝です。

10.家の中−パート1
 だいぶ冷静に家の状態を理解できるようになってきた3日目。実はこんな状況になっていました。
 和室です。手前のピアノは前にずれて後ろの引き戸に仰向けのように倒れ掛かっていました。そしてその引き戸は廊下側にはずれ、トイレの戸に倒れ掛かっていたのでトイレに入っていたら出られなかったかもと思うとゾッとしました。奥に洗濯物がかかっていますがその下にお筝がバッタリ。子どものときからお筝は家にありましたが、倒れたことは一度もありませんでしたので、これもまた揺れのすごさを感じさせられました。
 今回一番気になっていた食器棚。倒れていないか心配だったのですが、幸い倒れることはなく家具そのものは助かりました。ただ上段3面に入っていた食器類の9割は割れました。思い入れのある食器やグラスもありましたが、ここまでやられるとあっさり諦めつきました。
 何故か捨てたいなあと思っていた物は残っているんですよね〜。娘の誕生祝にもらった名前入りの食器一式、結婚したときに式場からお祝いにもらったワイングラス1客、娘の誕生年のイヤープレートは無事だったので、それだけで十分かなあって思いました。

11.家の中−パート2
 とにかく見事なまでに物が飛び出ている我が家。一番被害が大きかったのはやっぱりキッチンです。スチールラックには食洗機と電子レンジが乗っていたのですが倒れて、食洗機は手前カウンターに直撃していて床は水浸し。ただ直撃してくれたおかげでカウンターの中の引き出しや扉は閉まったままで中に入っているお気に入りのマグカップたちは助かりました。
 電子レンジでは中のターンプレートがおせんべいが割れたかのようにバラバラ割れていました。電子レンジはこれでさよならかもしれません。そして食洗機がちゃんと機能するかどうか確認するにはまだしばらくかかりそうです。
 冷蔵庫、別に動かしたわけじゃないんです。歩いたのではないかと思うくらい勝手にこれだけ動き、扉も開いていました。
 写真はこれくらいしかないのですが、シンク上の収納棚の扉は全部開き、そこに入れてあった保存容器は下に散乱、土鍋と陶器製のおひつが落下し割れていました。
 他にも洗面台下の収納、備え付けの靴箱はすべて飛び出していましたし、押入れやクロゼットで収納していたダンボールが落ちたり、ベットが冷蔵庫と同じくらい勝手に動いていたり。
 100枚以上入っている引き出し式のCDラックは奥行きがしっかりしているタイプにもかかわらずバッタリ倒れました。パパの部屋のカラーボックスもピアノと同じ様に仰向けになってずれていました。細かく言えばまだまだたくさん信じられないことはありました。
 そしてなによりも我が家で一番心配だったのがテレビ。6月に新しくしたばかりでとにかく心配だったのですが、倒れるのではなく壁から前に動いたAVボードとその後ろの壁の間にいつもと同じ姿のままストンと落ちていました。おかげで傷もなく、後に電気が通ってから無事に見ることができました。
 冷静になってこれを書いている今、記録という意味でももう少し写真を撮っておけばよかったかなあなんて思いましたが、やっぱりあの時はそんな気が回りませんでした。ここに載せた写真はパパが携帯で撮ってくれたものです。

12.夕方に明るい光
 この日の夕方、幼稚園のお友達と近くの市民センターでやっている炊き出しに行くことにしました。炊き出しへむかっている途中、ダメもとで携帯を開けるとアンテナが不安定ながらも立ってたんです。これは!と思って、電話をかけてみるとつながったんです。その夜はメールに電話にと忙しい夜になりました。
 そしてもう一つこの日は嬉しいことがありました。携帯が通じるのと同時期に電気がついたんです。
 携帯電話は1日半、電気は2日半で復旧してくれました。電気はたまたまうちの地区が早かったようです。電気があるってすごいですね。暖房も使えるし明るいだけで暖かな気分になるんです。
 この日お友達のパパは仕事でお泊り。自宅はほとんど被害なし。3人兄弟にママ1人では不安だということで、是非3人で泊まって欲しいと懇願されてしまいました。迷惑かけて申し訳ないからと初めはことわっていたのですが、余震はまだ続いているし、やっぱり男の人がいる方が防犯的にも良いだろうと思い、パパと娘の3人でお世話になることにしました。2日ぶりに家の中で寝かせてもらいました。そして自宅では寝られる状況ではない私達一家は、その後1日おいた翌々日から1週間ほどこのお宅にお世話になることになりました。

(地震発生から4日目)
13.水漏れ

 電気も通ったので、いよいよ部屋の復旧を始めようと家に入りました。
 我が家はただものが散乱しているだけではなく、3LDKの一部屋以外が水漏れの被害を受けました。我が家の住んでいるマンションはオール電化です。電気温水器が各部屋の洗面所の奥にしまいこまれています。ちょっとした個室の中に入っているような感じです。その温水器が上階の部屋で倒れたらしいのです。
 我が家は幸い倒れることはなかったので上からぽたぽたと落ちる水で濡れただけですが、同じ階のお友達のところは自分の所の温水器が倒れ、上からも水がぽたぽたとダブルで被害を受けたそうです。倒れることのなかった我が家の温水器ですが、本体にはヒビが入っていたようで、温水器の下のコンクリートは水で湿っていました。
 上階からの水でリビングとキッチンのシーリングライトにたっぷりと水がたまり、寝室は照明器具の紐から、和室と和室の押入れは煙探探知機から水が落ち、その下にあったものたちは水浸し。トイレやお風呂も上からぽたぽたしていました。
 地震発生から3日ほど水が落ちていたようです。この水漏れの結果、シーリングライトを含む照明3つ、電気カーペットをダメにしました。そして震災から1ヶ月たってこれを書いている今、電気温水器は復旧していないです。とりはずされてマンションの下にゴロゴロ。我が家の住んでいる6階は全滅です。

14.ガソリンゲット
 電気と携帯電話が復旧し、あと気になるのはガソリンです。我が家は幸い前の週に満タン入れていたのですが、この先も車での生活を見込んでガソリンを求めて車をうごかしました。前日から情報をもらっていたところを何軒かまわったのですが、すべてはずれ。並んでいるのはスタンドが開くかもという見込みだけで長い列ができていました。
 パパがたくさん電話をかけて聞き続けて、ここなら大丈夫かもというスタンドへ向かい、長い長い列をたどり最後尾を見つけました。そこに並ぶこと3時間、2000円分13リッターをいれることができました。減る一方のガソリンをほんの少しでも増やすことができて一安心。
 この日は外も暖かかったので、車のエンジンを切って列に並んでも意外と楽でした。これでいよいよ本格的に自宅の片付けです。

(地震発生から6日目以降)
15.東京そして我孫子の実家へ

 地震から6日目の17日にパパが地震以来初めて会社へ行きました。
 地震後は電車がないこと、家がひどいことになっていることなどの理由から自宅待機ということになっていました。会社には救援物資が届いたということで、それをいただきに車で会社にむかいました。車を会社の前に停めて、中心部の様子を見ながらアーケド街のお店を探し、必要そうなものを買ってきてくれました。
 そしてこの日パパは会社から「しばらく東京へ戻ってくれないか」と言われて帰ってきました。「家族で戻れるなら」と言うと私と娘の分の交通機関を手配してくれるということで、この日東京へ戻ることが決まりました。ひとまず4月一杯東京出張ということです。
 翌日以降は毎日毎日家の中の片付けです。かろうじてエアコンは使えたので、部屋は暖めながら作業ができました。そして心配していたテレビも冷蔵庫のコンセントが使えたので、そこから延長コードを2本も使い無事につくことを確認。テレビが無事だったことは我が家にとって大きな喜びでした。それと洗濯機は大丈夫だったので、ぬれてしまった服やシーツ、タオルなどを洗いました。洗濯機は22日まで1日2回から3回以上まわしました。
 時々揺れる余震にビクビクしながら、21日には部屋はなんとか地震前の姿に。9割近く割れた食器や濡れた物などでゴミ袋は30リットル袋で10袋近くなりました。
 そして22日片づけを終えて、娘を連れこれもまた地震以来初めて幼稚園へ行きました。先生に4月1ヶ月間のお休みの旨を伝え、娘は先生方みんなとしばしのお別れをしてきました。まさかこの日を最後に会えなくなる先生がいるなんて思ってもみなかったし、それよりも娘本人が幼稚園にさよならする日がくるなんて想像もしていませんでした。この1ヵ月後、パパは5月1日付けで東京へ転勤になりました。
 23日、朝9時仙台駅から高速バスに乗り東京へ向いました。新宿駅到着は17時の予定。高速道路は特に地震の影響を感じることはなかったのですが、福島の入り口で新幹線の送電線がすべて斜めに傾いているのを見ました。やっぱり地震のすごさを感じました。休憩を2回はさみ、15時に新宿に到着。長いバスの旅を娘のことが心配だったのですが、予想以上に早い到着のおかげで娘は半分以上寝ているという旅になりました。
 新宿にはおじいちゃんが迎えにきてくれていました。そして我孫子へ。我孫子に着いてやっぱりホッとしました。温かいお風呂に、温かい部屋、美味しい食事、被災地の人たちには申し訳ない気持ちになりながらも、この日は家族3人朝までぐっすり眠りました。時々我孫子も揺れていたけど・・・・。
 地震から12日間、仙台で色々な経験をしたと思います。まだまだ書きたいことがたくさんあるのですが、ひとまず地震後の我が家の様子はこれにてと言ったところでしょうか。
 余震に津波被害の後、原発と東北はまだまだ大変な状況は続いています。こんな災害時に仙台にいたことはやっぱり何か縁があったということだと思います。これからは何らかの形で東北を応援できる方法を考えながら、生活をしていきたいなあと思っています。
 いつまでも応援しなくては、被災地をそしてその土地の皆さんを!!

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