あけましておめでとうございます
 昨年は経済不況やテロなどであまり明るくない新世紀の幕あけでした。今年こそすばらしい年になるよう期待しましょう。

 さて年の初めの今月のテーマは「海外旅行」です。この3ヶ月、やや固い話題を続けたので今回は気軽にお読みいただけるものにしました。
 アジア旅行は1999年7月、一人で中国(北京、西安、上海)に行ったのが始まりでしたが、費用の安さと日数の短さと一人旅の気安さから病みつきとなり、その秋にシンガポール・マレーシアを訪ねました。そこでやはり一人で参加していた、牛久の佐藤さんと意気投合、その後は2人で、タイ、韓国、台湾に出掛けました。二人で行くと一人部屋料金を払う必要がなく、その分で飲み代がただになっておつりが来ます。それに何より旅は道ずれ、退屈することがなく、一人ではなんとなく気後れがするような夜のダウンタウンのぶらぶら歩きなども楽しめます。今回はアジア旅行6回目、カンボジアのアンコールワットです。
 今回のアンコールワットは今までの6回のうち、初めて男性のほうが多く、男性8人、女性5人で、夫婦は2組だけ、あとはみんな一人旅でした。

感動のアンコールワット

 −遺蹟と豊かな自然と人々の貧しい生活−

1.ちょっと勝手が違うカンボジア旅行
 2001年11月5日から9日まで、カンボジアのアンコールワットに行ってきました。
 カンボジアの旅行には今までのアジア旅行と違ったポイントがいくつかありました。日本からカンボジアへは直行便がありません。他国のどこかの都市を経由していく必要があります。日本からのパック旅行はバンコク経由がほとんどです。またカンボジア入国にはビザが必要です。いつもビザなし旅行になれているため、よけいな費用と時間がかかります。そしてカンボジア入国カードは記入する項目が他のアジア諸国のカードと比べるとかなり多く面倒です。なんとなく戦乱時の制約から抜け出していない感じです。  良い点としては免税店に1度も立ち寄らなかったことです。買い物旅行ならともかく、観光に免税店は時間の無駄です。多分まだシェムリアップには免税店のような観光施設が出来ていないのでしょう。また観光地で集合写真やスナップ写真を撮られることもありませんでした。他の国でも必ずしも強制ではないのですが、出来あがりを見るとつい買ってしまい、いつも高いと後でぼやいていました。
 ただカンボジアの経済という観点から見ると、観光客からせっかくの外貨獲得のチャンスを逃しており、まだまだ観光業にも徹しきれていないと感じました。
 カンボジアでは日本の強い円がそのままでは使えません。アジアでは珍しいことです。カンボジアの通貨はリエルですが、観光客は米ドルのほうが通用します。物やサービスの値段はドルです。これも内戦とそれに続くUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)時代の名残ではないでしょうか。
 今回の旅行は、近畿日本ツーリスト主催のパック旅行「アンコールワット世界遺産紀行5日間」11万4800円で中国旅行以来久しぶりに日本から添乗員が同行です。アジアのパック旅行は添乗員が同行せず現地の添乗員が現地の空港まで迎えに来て出発まで面倒を見る場合がほとんどです。日本から添乗員が同行する理由を添乗員に聞いたところ、国際線の乗り継ぎがあるためという返事が帰ってきました。行きも帰りもタイに1泊し、タイからアンコール遺蹟観光のベースとなるシェムリアップまではバンコク・エアウェイズの国際線に乗り継ぐ必要があります。そのチェックインのわずらわしさや、シェムリアップやアンコール遺跡群は危険度1(注意喚起)ですが、カンボジアの大部分は危険度2(観光旅行延期勧告)の状態にあるため念のため添乗員がついていくのかもしれません。いずれにせよ前回のタイでは運悪くマイペンライ(いいかげん)な現地ガイドで懲りているだけに心丈夫でした。

2.肌で感じた同時多発テロの影響
 今回のツアーでは9月11日にアメリカで起きた同時多発テロの影響を各所で感じました。
 まず参加者です。アンコール観光はちょうど雨季が開け乾季に入るベストシーズンです。ツアーの人数は今回13名、もしテロがなければもっと多かったのではないでしょうか。また参加者の何人かは、別のところを申し込んでいたのにツアーが催行中止になったので、アンコールツアーに変えたという人がいました。
 成田やバンコクやシェムリアップの入出国の手続きは今まで経験したことがないくらい空いていました。せいぜい数人待ちであっという間に通り抜けました。機内持ちこみや手荷物の検査はいつもより念入りにやっていたようですが、人数が少ないため帰りのバンコックで多少並んだくらいで、ほとんど待ち時間はありませんでした。それに日本の入出国カードが廃止されたことも時間短縮に役立っているのでしょう。
 バンコクからの帰りの飛行機は欧米への乗り継ぎに便利な時間帯だったせいかほぼ満席でしたが、バンコクまでのジャンボは半分くらい空席がありました。真中の4人掛けの席を2人で使い横になることができました。機内のフライトアテンダントのサービスもいたれりつくせりでした。バンコクからシェムリアップまでのボーイング717は、120〜130人乗りの小型機でしたが、やはり約半分くらい空席が目立ちました。
 アンコール遺蹟やバンコクの空港で何組かの白人のツアー団と一緒になりましたが、声をかけるとドイツやフランスやカナダの団体で、アメリカのグループは見かけませんでした。アンコール遺蹟でのガイドの言葉も、英語はあまり聞こえてこず、日本語やドイツ語やフランス語や韓国語が響いていました。
 航空会社や観光業者の大変さが実感できました。ただ旅行する立場からすると、大変申し訳ないことですが、逆に楽な旅行をさせていただいたと感じています。

3.カンボジアの貧しさは戦争の影響
 毎日アフガニスタンの国民の惨状がテレビに映し出されて私達の心を痛めていますが、カンボジアでも内戦の後遺症がいたるところに見られます。
 カンボジアは1970年ロン・ノル将軍によるクーデターでシアヌーク殿下が国家元首を解任されて以来、ベトナム戦争介入、ポルポト政権による虐殺、内戦などで国土は荒廃し、大量の難民が発生、国民は疲弊の極に達しました。1991年、UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)が設立され、その活動により1993年選挙が実施されて、約23年ぶりにシアヌーク国王を国家元首とする新生「カンボジア王国」が誕生しました。
 日本は1990年代の約10年間「失われた時代」を迎えまだそこから脱していませんが、カンボジアには実に23年間のいわば「失われた時代」があったのです。
 安定した政治と平和がない以上外国資本は入ってきません。他のアジア諸国が外資導入で目覚しい発展をしている間、カンボジアは戦火のど真中でした。発展の基礎となるインフラの整備や国民の教育まではとても手がまわりませんでした。
 アンコールの遺蹟のある観光地は地雷が除去されていて安全ですが、少し奥地に入るとまだ地雷が残っており危険なようです。アンコールワットの遺蹟の一部には弾痕が残っていました。ポルポト派がアンコールワットを占領し仏像の首を切ったり、石に彫られた女性の顔をつぶしたりしたとも言われています。戦後の上野公園でよく見かけた傷痍軍人のように、遺蹟のある場所に行くと片足や片手をなくした大人が物乞いをしていました。
 カンボジアの人々の生活は私が訪れたアジアの国の中ではもっとも貧しいものでした。市街地の真中は別として、シェムリアップからアンコール遺蹟に向かう道の両側の住居は、ほとんどが丸太で組んで屋根をトタンか萱でふいた高床式の家です。1部屋か2部屋で外から家の中が丸見えです。床もござのようなものを敷いている感じで、家具といったものはほとんどありません。電気がない家が多く、当然のことながら電化製品はありません。はだしや素っ裸の子供たちが目につきました。
 シェムリアップの道路は1歩中心街から離れると舗装がとぎれます。歩道はほとんどなく信号は一つもありません。街路灯はなく商店の明かりがたよりです。夜は出歩かないように注意されました。建物の高さはせいぜい4〜5階建てが最高でホテルや官庁などです。
 ガイドの説明では、朝食を町の屋台で食べている人が多いは、冷蔵庫がほとんど普及していないため、食材は翌朝まで置いておけず、その日の分しか買わない、だから朝ご飯は外で食べるとのことでした。
 シェムリアップの近郷の産業といえば農業と漁業と観光です。工業はほとんどありません。アンコール遺跡という世界にもまれな観光資源を活かすには、電気や水道や電話や街路灯などのインフラの整備、ホテルやレストランやお土産店やタクシーなど観光業への投資などとともに、治安の向上や地雷の撤去など一つ一つ解決していく必要があります。カンボジアは今懸命にこれらの課題に取り組んでいるところです。

4.壮大な大自然の営み
 カンボジアがアフガニスタンと全く違うところは自然の恵みです。熱帯の気候は豊かな水と緑をもたらしています。シェムリアップはアジア最大の湖トンレサップ湖のほとりに位置しています。
 11月の初めはちょうど雨季が開けた時期でトンレサップ湖がもっとも大きくなっている時でした。飛行機から見るとまるで台風の後の洪水のようでした。家々は水の中に取り残され道路は水没しています。水面の下には緑が見事でした。トンレサップ湖は雨季にはメコン河の水が流れ込んで乾季の3倍くらいの大きさになります。乾季には逆にトンレサップ湖の水がメコン河に流れ出るのです。乾季は3メートルの水深のところが雨季の終わりには15メートルにもなります。
 私達は臨時の波止場になっているところからモーター付の2艘の船でクルーズに出かけました。水面には手賀沼でアオコを防ぐために栽培されているホテイアオイが見えます。当然こちらのほうが気候のせいで何倍も大きく育っています。あちこちに数メートルの木が頭を出していますが、乾季になると20メートルくらいの高い木の姿に変わります。ヤシの木が一本も見られなかったのは水に弱いからだそうです。湖には漁師の一家が魚をとりながら水上生活をしています。小さな粗末な家が舟に乗っかっています。飲み水はトンレサップの水を沸かして飲み、汚物も湖に流します。
 しばらく舟を走らせると、乾季でも湖のままと思われる場所に出ました。そこから先はなにもありません。海のような広大な空間があるだけでした。
 トンレサップ湖は世界でもっとも淡水魚の種類が多い湖といわれ、その種類は300種以上年間漁獲量は10〜12万トンにも上るそうです。
 豊かな水はカンボジアに溢れんばかりの緑をもたらしています。道の両側にはヤシをはじめ色々な果物をいっぱいつけた木が茂っています。カンボジアが典型的な農業国といわれるのもこの豊かな水のおかげでしょう。水牛がのんびりと水田を耕している風景は別の世界に来た感じでした。
 その豊かの農地にも地雷の危険があります。一刻も早く内戦の悪夢を清算して、新しい世紀にふさわしい経済発展を期待したいと思います。

5.崩壊から守りたいアンコール遺蹟
 アンコールの遺跡群は世界遺産として有名な12世紀前半に作られたヒンズー教の宮殿アンコールワットとそれから約半世紀後に作られた仏教の都城アンコールトムを中心にした数多くのクメール建築の石造の遺蹟からなっています。最も古い遺蹟は6世紀頃のものもあります。西欧社会がその存在を知ったのはわずか130年くらい前で、フランス人アンリ・ムオが再発見するまで何世紀も密林の中に眠り続けていたのです。内戦の間は観光客は近づくことは出来ませんでしたが、終結後やっとその神秘な姿を拝むことが出来るようになりました。
 1度見たいと念願していたアンコールワットは遺跡群のシンボル的存在で、どの角度から見ても美しく堂々として期待以上でした。アンコールワットの中央部の足のすくむような急勾配の石段を登ると第三回廊に出ます。中央塔を囲む回廊ですがそこから見る周囲の景色は見事でした。また観光コースになっている「夕日に映えるアンコールワット鑑賞」のプノンバケンの丘に登って、大勢の観光客に混じって暗くなるまでアンコールワットを眺めていましたが、夕日とともに彩りをかえていく勇姿は息を呑むようなすばらしさでした。
 どの遺蹟にも彫刻が刻まれており神々のプロフィールとともに当時の戦争や生活のありさまがうかかえます。仏教彫刻とヒンズー教の彫刻が混在していて興味深い文化をかもし出しています。ところが長い年月の経過や戦乱による破壊や修復に十分な手を入れなかったために遺蹟が崩壊し始めています。
 2001年11月20日にNHKの人気番組プロジェクトXで「アンコールワットに誓う師弟のきずな」というアンコールワット修復にちなむ番組が放送されました。アンコール遺蹟の修復には世界各国から7チームが参加しているとのことで、アンコールワットの参道の途中に日本の修復プロジェクトについて看板が立っていました。テレビ番組は日本チームの小杉さんという千葉県流山の仕事の鬼といわれた石工が修復活動をしながら次代を担うカンボジアの若者を鍛えあげていく姿を描いていました。カンボジア人の手でアンコールワットを守っていって欲しいという小杉さんの思いが痛いほど伝わって来る番組でした。プロジェクトが始まった平成6年以来7年の間に20回カンボジアに通ったそうです。
 広い地域にあれだけ数多く点在する遺蹟を修復するのは並大抵のことではありません。おそらく莫大な資金と大勢の専門的技術のある人が必要でしょう。崩壊のほうが早いかもしれません。何とか少しでも長く今の姿を保っていて欲しいと感じました。

ウィルス格闘記

 

石嶋佳陽    

 高校時代の同級生の石嶋さんがウィルスにやられました。プレビューを開いただけで感染したそうです。石嶋さんのウィルスは私のところにもやって来ましたが私のほうは削除できました。メールソフトに石嶋さんはOUTLOOK、私はOUTLOOK EXPRESSを使っているのでその違いがあるのかもしれません。

 新田さん、油断大敵というか、やられてみて初めて自分のガードの甘さを反省しています。
《経緯》
 12月30日の朝にOutlookを接続した途端、画面の様子がいつもと違い、発信人は次男の名前ながら、件名は記号だけ、ファイル添付ということだけがわかりました。ひょっとしたら、という不安から家内のPCを空けたところ、明らかに私の名前でメールが飛んでいました。僕も家内もプレビューが見えるような設定にしてあったので、接続だけで飛んだようです。
 すぐに私のメールアドレスに登録してある人の中で、比較的初心者と思われる人に電話を入れて警告しました。そのうちに飛び散ったメールのなかで「配信不能」だったものがどんどん戻ってきて、その中には、警告してくれているものもありました。戻ってきたメールを見ると、私の全く知らない人や団体にも送りつけられたようで、中には身に覚えの無いWebにも飛んだようでした。プロバイダーからも「ウイルス汚染」警告が入りました。
 PCの機能そのものは全く正常で、インターネット、ワード、エクセル、後から入れてある筆まめやデジカメ用ソフトなど、特に被害はありません。実害はメールが勝手に発信されてしまったことだけのようでした。
《対応》
 「ウイルスバスター2002」をインストールしてアップデートしチェックしたところ、19本のファイルが汚染され、ウイルス名が Badtrans B と表示されました。処理の結果は「処理不能」となっていたので、なんか手を打つ必要があると思い、トレンドマイクロのHPにアクセスしたところ、偶然に「駆除ツール」の無償提供があることを知ったので、これをダウンロードして駆除できました。(これは後で知ったのですが、シマンテックでも無償ツールを提供しています)
トレンドマイクロ社
 http://www.trendmicro.co.jp/esolution/solutionDetail.asp?solutionID=3368
シマンテック社
 http://www.symantec.com/region/jp/sarcj/data/w/w32.badtrans.b@mm.removal.tool.html

 余談になりますが、僕のOSはWindouws Me なので、RESTOREというファイルがあり、これが汚染していました。ところがこのファイルに対しては「駆除ツール」は「隔離」しかできません。「隔離」処理でも使用上は問題ないそうですが、完全削除のためには、「ファイルの復元機能」を使わなければいけないということで、私の場合はこの方法で「汚染RESTORE」を駆除しました。98や2000の場合は簡単にこの「駆除ツール」だけで修復できます。家内と次男は98ですが、簡単に処理できました。
《反省点》
 自分のところには来ないだろう、他人事、くらいに甘く考えていたことが間違いでした。企業はちゃんと防衛していますが、個人は知識もなく、非常に弱いガードしかしていないのが現状です。たとえば、メーカー出荷時の初期設定は、使いやすさを優先しているので
・パスワードは「保存」もしくは「自動接続」になっている
・接続時にプレビュウ画面が直接でてくる
・ウイルス対策ソフトを入れてあるが、使い方やアップデートの説明をしていないというようになっているから、これを「防備型」に設定しなおす必要がありました。僕自身も、新田さんからIEのSP2化を忠告されたので、それだけはやりましたが、それ以外は対応していませんでした。
 とにかく、痛い目にあって初めて気づくことばかりでした。いい勉強になりました。私の周りにも結構やられた人がいます。「使い勝手より普段の防備」のほうがずっと安くつきます。

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