今月は「寄稿文特集」です。
 三井生命時代の同期入社の川中さんから毎号手賀沼通信をお送りするたびに丁寧な感想文をいただきます。いまどき珍しい万年筆で、インクの色も鮮やかな手書きです。素晴らしい文章で、内容も退職後の生活をユーモアを交えて綴っています。読者の方の参考になると思い、川中さんにお願いしてそのうちの2回分を掲載させていただきました。私の退職後の生活に比べると、アウトドア中心、同期会の永久幹事で面倒見のよさがにじみ出ています。
なおお手紙としていただきましたので挨拶など一部をカットさせていただきました。
 弟の新田慎二(ペンネーム−自然)からは、自分探しの一文が届きました。私と違って俳句や短歌を書いたり、絵を描いたりと文学青年の名残りをとどめた生活を送っています。兄弟でも違うものですね。

特別寄稿−1
私の退職生活その1

(48号「退職後ほぼ4年がすぎました」についてのお手紙)

川中秀作  

 お元気にお過ごしのご様子何よりと存じます。私の方も特に大きな病もなく毎日過ごしております。昨年11月頃から何となく胃が重く痛みもあり一時ちょっと心配しましたが、医者に行き、薬を貰い、あまり飲み食い過ぎないようにとの注意を受け、ややおとなしい生活にしたおかげで、今の所は特に気にならない程度になりました。それに伴い飲みが少しずつ多くなり、いつまたバチが当たるかとやや気になっております。
 貴兄は退職後4年経過した由ですが私のほうも3年を経過いたしました。元々退職後どうしようと余り悩んだ訳ではありませんでしたので、何となく3年経ってしまったなという状況です。
 その間何をしたかと考えると、貴兄に比べると全く恥ずかしい話ですが、それこそ特にこれといったこと  何もしないまま今日に至ってしまいました。したがって貴兄の参考になる話は殆どなく手賀沼通信の原稿になるような話もありません。悪しからずご了承下さい。
 一応この1年間は三井生命の同期のハイキング(きわめて軟弱なもので、半日ほど歩いてどこかで軽く飲んで食って解散と言う程度のもので、終了後の飲み会をまず決めてそのあとコースを決めるという形となっています)を6回程、他に高校同級生とのハイキング(これも乗り物で出来るだけたかいところへ行き、あとはおしゃべりしながら下りるだけという軟弱なもの)を数回、いとこの主催するハイキング(これも連絡ある企画の内程度の軽いもの中心)に2、3回といった、いわゆる散策を楽しみました。
 また相変わらず続けているラグビーをこれは合宿・試合・練習も含めて20回程参加しました。尤も合宿といっても夜の宴会が目的で、土曜日に菅平へ行き軽く体を動かして大宴会、翌日は二日酔いで現役の試合を応援(というよりは酔い覚ましに大声でどなりまくるというもの)する程度です。試合というのは60歳以上のメンバーを中心とする15分ハーフ程度の試合に出て、何となくうろうろしているうちに終わり、あとはお決まりのビールで乾杯というもの、練習というのも現役の練習している所にちょっとお邪魔気味に参加するといった程度のものです。
 でもラグビーをやっていたおかげで、若い人達との交流がありこれにより気持ちの若さが保てているのではないかと思っています。練習試合の後で若い人たちと飲みながら我々の時代の話なども含めややお説教めいた話をしているとストレス(今はあまりありませんが)が大いに解消します。尤も若い人達にとってはいい迷惑かもしれませんが‥。
 貴兄が尺八を再度始められたとか、私も定年少し前からこれは全く初歩から始め、すでに10年近くなりました。この尺八は貴兄の民謡とはちがい都山流という尺八でとても難しく(メロディーになじみがない為、うまく吹けているのかがよく判らないこともあります)未だに初心者の域を出ていません。文化センターでの教室に毎週1回通っています。
 でも時々(年3回程)発表会がありこれを目標にけいこをしているという状況です。
 本当は退職後暇になったらやることがなくなって困るのではないかと思い、ひまな時に家で吹いていれば時間もつぶせるのではないかと始めたわけですが、うまくもないのに家で吹くのもはばかられ殆どけいこせず、このためさっぱり進歩しないのかもしれません。上達するには毎日少しでも吹くということが大切なようで、週1回程度では仲々上達しないようです。いずれアウトドアが難しくなって来たら少しずつふやして行こうかと思っています。
 いずれパソコンが必要になることもあろうかと思いますが、今の所万年筆も使えるし、インクもまだ大分残っていて捨てるのも勿体ないので、時々は手書きをしていきたいと思っています。読みづらいかと思いますがご容赦下さい。

特別寄稿−2
私の退職生活その2とニュージーランド旅行

(49号「自然の豊かさを満喫したニュージーランド旅行についてのお手紙)

川中秀作  

 先般、さんご会有志による花見を計画し、タイミング的には絶好(3月27日)の日でしたが、前日も翌日も良い天気であったのに当日のみ朝から雨で最悪の日でした。15人程案内を出した所9人から参加の回答を得ておりましたが、多分当日欠席者が出るものと思っていた所、雨の中9人全員集まりました。
 コースは新宿御苑→千鳥ヶ渕→護国神社→水道橋という定番に近いものでしたが、雨のせいもあって当然乍ら人が少なく、負け惜しみでなく、案外の散策となりました。尤も我々散策の目的はうまく飲むための散策ですからそれがよければいいということで、この日も、スタート前に中華料理で昼食(酒付)をとりましたが、結構うまくて幸先がよく(?)、あとはひたすらコースを歩き(というより雨なので休む所もなく)、護国神社内の茶店で一休みして(ここでも何人かはビール、お酒)、水道橋の行きつけの店ヘゴールした次第。まずは成功ということになりました。でも護国神社もゆっくり見て、新しい発見もできました。お手紙にもありましたので次回からはご案内を差しあげます。
 私も平成7年にニュージランドへ行って来ました。時期的には2月初旬なので、新田さんと同じような季節で、確かにこの時期は一番いい季節だったようです。私の旅行は毎日聴いているTBSラジオの企画もので、毎週土曜日の朝の「大宅映子の辛口コラム」の聴取者に呼びかけた企画で大宅映子さんも同行するというので参加したものです。昭和51年にフィジーへ行って以来の外国旅行なので、家内ともども舞い上がってしまって何かふわふわしている内に終わってしまい、新田さんのように充分なる観察ができませんでした。でもマウントクックでは小型飛行機で氷河の上を飛んだり、大宅映子さんと氷河の氷で作ったオンザロックを飲みいい想い出となりました。それと一応本場でゴルフをしてみるかということでコースを回り、ラグビーそのものは観ることはできませんでしたが、ジャージー・Tシャツなどを買い込んですっかり満足した旅行でした。
 また一晩は大宅映子さんを交えての懇親パーティーもあり想い出深い旅行となりました。
 これで海外旅行が楽しくなり、その後、香港、カナダ、アメリカ西海岸、北欧と旅行し、今年はヨーロッパへ行きたいなと思っています。
 次のテーマ介護保険について情報ありがとうございます。
 私は今の所64才ですが来年2月に65才となりますので大いに参考になりました。
 さんご会の皆には言っていませんが今回民生委員を仰せつかり、どんな情報でもありがたいので今後とも「老後」等に関する情報をよろしくお願いします。
 私の回りは定年後これで頑張ろうなどというまじめな人は少なく、何もしなくていいというのがこんなに楽しいとは思わなかったというような人間が多く、前向きな人には全く参考にならないと思いますがやはり類は友を呼ぶのでしょうか。
 お互いからだには気をつけ暫く(20年くらいか)は頑張りましょう。

特別寄稿−3
自分探しの旅ノート−教科書のなかの一文

新田自然  

小学生時代の教科書のなかに忘れ得ぬ短文がある。
 「四年生の楽しさよ、桜の花をしらべてみたりー」
 頭の中に呪文のように刷り込まれているこの短いセンテンスが、小学校の教科書のなかにある文章であることは分かっているのだが、一体どのような意味を持って書かれたものか、ズーっと気になっていた。短文のようでもあり、詩のようでもあり、前後の脈絡も不明で、とにかくもう一度その教科書を手にとって見なければならないが、そんなことができる筈はないと思っていた。昨年の春、四国へ帰った時、小学校を訪問して、当時の教科書が保存されていないかと訊ねてみたが、そんな昔の教科書について保存はおろかどんな教科書を使用していたかも分からないと言われ、それはもう詮ないことと諦めていた。
 ところがインターネットを利用するようになり、ひょんなことから教科書図書館というものが存在することを知り、電話をしてみると、戦後の教科書はほとんど収蔵しているという、とにかく一度行ってみることとした。図書館の名前は

 財団法人 教科書研究センター付属教科書図書館(東京都江東区千石1‐9‐28)という。

 錦糸町で電車を降り、バスで千石二丁目まで行ったところにこの図書館はあった。開館日は月曜から水曜までで、9時30分から16時30分まで開館しているという。
 受付で訪問の目的を告げ、探索のやり方を相談したところ、
「昭和24・5年ですか、その頃でしたら、まだ文部省の教科書しかありませんから探すのは簡単です」
と、復刻版が置かれている書棚まで案内された。「文部省著作国語教科書」と表記されたその教科書は年次ごとに箱に収められていた。4年生用の教科書は上下2冊で、戦後間もない頃のことで薄いものであった。心をときめかせ開くと、なんとも言えず懐かしい小学校の匂いがして、たちまちあの当時にタイムスリップしていった。「みにくいあひるの子」「どんぐりと山猫」など、間違いなくこの教科書で読んだものだ。宮沢賢治の、あの語りかけるようなやさしい文体や、「どってこ、どってこ」といった独特の擬音表現に子供心にも新鮮な感じがしたことを思い出した。
 くだんの文章は何処だ?読み進んでいくうちに期待は高まる。
「本当にあるのかな、勘違いだったら?」
かすかな不安もよぎる。ゆっくりと注意深くページをめくる、そして、あった、あったぞ。間違いなく、記憶していたそのセンテンスがそのままの姿であったのだ。
〈五 作文〉という題がつけられていた。文章をたどってみる。
『思っていることを、はっきり書きあらわそうとすると、文章が、だんだんくわしくなっていきます』として、ドッジボール大会についての作文が例示されていた。続いて
『しかし文章は、くわしくしさえすれば、はっきり写しだすことができるとはかぎりません。ふでをいれるほど、かえって、文章がみじかくなっていくことがあります。』
『心にはっきりとえがかれた一つのかたちは、まじりけのない宝石のようなものでありますから、よけいなことばは、ちりほどもあってはなりません』と書かれてあり、その例示としていくつかの例示があり、続いて
『雨が降る。風がふく。さくらの木が、ぬれてゆれている。』
『四年生の楽しさよ。さくらの花をしらべてみたりー』
『どの花も、みんな空を向いている。日がてっている。』
さらにいくつかの例示が続き、そして最後のまとめとして、
『人の顔をちょうこくするのに、二つのやりかたがあります。
 一つは、はじめ骨組みをこしらえておいて、それにねんどでだんだん肉づけをし、しだいに、その人の顔ににせていくやりかたです。
 もう一つはだいりせきや木材をけずっていってだんだんその人の顔に似せていくやりかたであります。まえのやりかたは、ちょうど、文章をくわしく書きたすのににています。あとのやりかたは、文章をきりつめていくのと同じです。
 やりかたはいろいろですが、ねらいどころは一つです。心に思ったことを、はっきりと写しだすことにほかなりません。』
 とあった。まさにその通りで、そのようにできない自分を、今ももどかしく感じており、感慨をもって読み直した。しかし何故この文章のみを記憶していたのか?という疑問は解決したわけではなかった。作文というこのテーマで書かれている内容が印象的だったのか、この例示がちょっと変だと感じたためか、あるいは四年生のクラスが思い出深いものであったためか、今ではなんともいえないが、五十年来探していたものが見つかって、なんともいえぬすっきり感を味わった。

 実はもうひとつ、教科書について調べたいことがあり、併せて探したが、これは見つからなかった。それは5・6行の短い詩で、旅から戻ってきた時のゆったりした気分を描写しており、たしか旅の靴についても触れていたように思われるものだった。以前からこの詩が気になっており、作風から立原道造か中原中也に絞り込んで調べたこともあるが見つからなかった。センテンスが不明で、教科書の年代が小学校用か中学校用かも不明で、受けた感興だけを記憶しているため検索が難しかった。また、教科書検定制度が昭和26年から始まり、いくつかの出版社から教科書が発行されだしたため、十数社の教科書を調べなければならなかった。
 詩の内容からして中学校に狙いをつけ、先ず何処の社のものだったか、教科書の表紙を眺め、記憶をたどるが、どれも似たようなもので絞りきれず、片っ端から読み進んでいくが、今度はなかなか行き当たることができない。
 教科書を特定するため、コンテンツから探す方法も採ってみた。「菜の花と小娘」という志賀直哉の文章に新鮮さを感じたため、索引から探したところ、中学1年の教科書で4社からの教科書に載っていることが分かり、そこからアプローチを試みたが、その一文に辿り着くことはできたが、教科書を特定することはできなく情けない気持となった。小学校4年の教科書があんなに印象的だったのに、それより近い中学校の教科書を思い出せないとはどういうことかなのか。それとも小学4年生とはそんなに多感な時期で、見たこと聞いたことがインクが紙にしみ込むように刻み込まれていく時期だったのか。

 閉館時間となり、やむなく図書館をあとにしたが、まだまだ諦めるものか、そんなことを司書の女性と話をしたところ、慰めてくれ、私も気にして探しておきますともいってくれ、再度訪問することにして矛を収めた。しかし今回の訪問は、長年の懸案を解決するという大きな収穫をもたらせてくれ、帰途はおだやかな気持で、バスの中から暮れなずむ下町の賑わいを眺めることができた。

自分探しの旅ノート−教科書のなかの一文

 手賀沼通信第48号でお知らせしたとおり、昨年12月8日早朝に泥棒に入られましたが、その犯人がつかまりました。被害届は入られた日に届けていたのですが、4月12日に再度我孫子警察署のお巡りさんが被害の状況を聞きに来ました。千葉県の東金で犯人が逮捕されたというのです。現金以外は目もくれない手口からプロの泥棒ではないかと思っていたのですが、予想どおりでした。60歳くらいのプロ中のプロだとのことでした。
 そして5月1日の読売新聞の東葛版にその詳細の記事が出ていました。ご紹介しましょう。

 『九州−東北 窃盗行脚800件余 3件の容疑で追送検の男自供
 県警捜査三課と東金署などは30日、深夜に民家に忍び込んで現金などを盗んだとして、東金市川場、自称・中古車仲介業杉山建男被告(59)(窃盗、住居侵入罪で起訴済み)を3件の窃盗と住居侵入の疑いで千葉地検八日市場支部に追送検した。
 杉山被告の供述によると、1999年10月以降、九州から東北まで日本列島を北上しながら盗みを続け、県内だけでも576件(被害総額約7798万円)、この外にも300件の盗みを繰り返していたといい、県警で裏付けを進めている。
 追送検の容疑は、昨年1月29日午前2時頃、八千代市村上の会社員(51)方に侵入し、現金約7万円や財布などを盗むなどした疑い。同年12月1日に市原市青葉台の会社員(59)方に侵入し、現金などを盗んだ疑いで同月逮捕、起訴され、その後、7件の窃盗事件で追送検されている。
 杉山被告は犯行を繰り返しながら、1昨年1月、知人を頼って県内に来て住み始めた。その後、中古車仲介業を始めたが、業績が上がらず盗んだ金は生活費だけでなく、従業員数人の給料にも充てていたという。』

 12月に逮捕されたということは我が家に侵入してまもなく逮捕されたわけです。追起訴の7件の中に我が家への侵入が入っているかどうか不明ですが、警察は自白した800件余りのすべての裏付け捜査をするのでしょうか。一つ一つの事件ごとに刑が加算されるのでしょうか。盗んだ金額によって刑は違うのでしょうか。ちょっと興味のあるところです。

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