今月号も第51号に続いて「寄稿文特集」です。できるだけ寄稿文をお寄せくださいというお願いに対して、いろいろな方から個性的なエッセイが寄せられました。いずれも体験をもとにした珠玉の文章で、大変ありがたく、感謝感謝です。
 8月15日は終戦記念日。森正男様からいただいた「私の戦争体験」はタイムリーな一文となりました。
 日本IBMで一緒だった今村孝さんの「吟行 東海道の旅」と弟の新田慎二の「タイ心の旅に詠む」は俳句と短歌の違いはあっても、旅先で作られた一首と一句です。味わい深い特集になりました。

特別寄稿−1
私の戦争体験

森 正男     

 私は東京生まれ、昭和19年7月大東亜戦争が激しさを増し、日本軍の劣勢が益々鮮明になり、私の住んでいた江東区大島町周辺は密集地帯が多く、空襲に備えて区画整理で方々の家が壊されていた。各家庭では家の縁の下に防空壕を作り、消防団や婦人会では毎日のように家屋に梯子を掛けてバケツリレーで消火訓練をして本土空襲に備えていた。4歳年上の姉は軍需工場に駆り出され、当時第2大島国民学校4年生の私達は学童疎開をすることになった。縁故の無い人は山形県に行くことになったが、幸に母親の実家が千葉県市原市にあったので縁故疎開で市原の伯父さんの家に疎開出来るように母が頼みに行った。
 国民学校入学の頃から、毎年夏休みには市原の田舎に行って楽しく遊んだ想い出が沢山あるので、母が帰って返事を聞くのが楽しみで、亀戸駅から降りて帰る母を近くの電車路まで出迎えに、胸をわくわくさせながら待った。かーちゃん大丈夫だった?私が聞くと暫く間を置いて、母は少し寂しげな顔で田舎に行けるよと言った。今にして考えると小学4年生の息子を一人で遠くにやるのが不安だったのかも知れない。それに引き替え私の方は飛び上がって喜んだ。わんぱくの限りをつくして遊べることしか頭の中に無かったのだ。指折り数えて田舎へ行く日を待った。7月20日母に連れられて田舎へ行き、一晩泊まって母は帰った。子供ながらに楽しいはずの生活がこの日から一変したのだ。今までは東京からのお客様扱いされていたのを知らなかったのだ。厄介者扱いにされてしまい、親に言うべきことまで、嫌み辛みの言葉をぶつけられ、子供ながらに辛く心に響いた。
 戸田村国民学校に転校入学する。当時は疎開生徒が多く、4年生のクラスは2クラスあったが教室は生徒であふれていた。二人掛けの机に三人掛けが当たり前だったので小さくなって座っていた。教育の程度は極めて低く、勉強には付いて行けたし、苦労はしなかったが、言葉使いには苦労した。べーべー言葉には付いて行けず、地元の奴らに東京ぺー東京ぺーと言われて馬鹿にされた。何とかべーべー言葉を覚えようと喋ってみてもアクセントや間の取り方が違うので又馬鹿にされた。何かに付けて疎開、疎開と馬鹿にされるので、こちらは江戸っ子だと思い、よく喧嘩したが、のろまの奴らには負けなかった。家に帰れば庭を掃いたり、風呂を薪を燃やして沸かしたり、遊ぶ暇はなく、伯父さんや伯母さんの顔色を伺いながら過ごした。食事はお勝手の板の間に正座で座り、嫌みを聞きながらの食事は、子供ながらに針のむしろだった。やがて戦況が益々傾いて来て、田舎まで警戒警報のラジオ放送が来るようになり、11時頃になると担任の佐久間先生が電話を取る真似をして、モシモシ警戒警報ですかと、ラジオよりも早く知らせると、必ず警戒警報になるようになり、笑いを誘って生徒の緊張を解してくれたのをおぼえ ている。
 警戒警報になると授業はうち切られ、部落に帰されて自習をするようになったが、勉強などせず、お宮のやしろに戸板を積んで舞台の代わりにして、東京ぺーの私に歌を歌うように仲間にせがまれて、加藤ハヤブサ戦闘隊の歌を得意になって歌った。地元の若者も次々と兵隊に駆り出され、毎日のように全校生徒で馬立駅に兵隊送りにいくようになり、月日が経つにつれて、戦死者の英霊を迎えることが日増しに多くなって来た。学校では勉強はほとんどしなくなり、戦死者の家に農作業の勤労奉仕に行ったり、上級生は松根油作りに駆り出され、私達下級生は松ヤニしぼりに鋸を持って、山に行き松の木を傷を付けて松ヤニしぼりをさせられるようになった。夜になり布団の中に入ると東京のかーちゃんを思い出し、家の付近の竹藪が風にゆられて、ざわざわと聞こえる音が耳に焼き付き、一層寂しさがつのった。やがて正月が訪れた。田舎には一級上の子供がいたが、その子には新しい下駄や足袋を与えたが、自分にはその子のお下がりの下駄に鼻緒をすえた物をもったい振って与えられたので、子供ながらに悔しかった。その頃には大人の心も一目で読めるような子供になっていた。
 東京の方では焼夷弾や爆弾が頻繁に投下されるようになり、3月9日の東京大空襲でとうとう本所、深川、亀戸一帯が丸焼けにされた。その夜は風の強い夜だった。市原の田舎からも東京の空が真っ赤に見え、燃えかけの紙や中国の紙幣等が飛ばされてきた。伯父さん達がこの分では大島も焼けたっぺーなどと話していたが、それが現実になった。翌日の夕方になって家族全員が焼け出されて来た。
 おばあちゃんは恐怖で腰を抜かしてしまい、馬立駅前の靴屋のおじさんが、おぶって連れて来てくれた。母は三歳の妹をおぶって、姉の手を引きながら命からがら辿り着いた。着ている物は泥まみれで見るも無惨な姿に驚いた。父は南方のボルネオに軍属として派遣されていなかったのである。かーちゃんは私の姿を見るなり、正男ちゃんと一言声をかけた。今までの会いたくて、寂しかった気持ちが一気に込み上げて、会うことが出来た嬉しさで胸がはち切れんばかりに込み上げた。67歳になった今日までにこの時ほどの嬉しさ、感激は脳裏に焼き付いて忘れることは出来ない。親子の絆が確立された瞬間だったと思うし、以後今日までこの時以上の感激を味わうことはなかった。恐らく生涯を通しても絶対無いと思う。しばらくして裏山の中腹に、掘っ建て小屋を建てて貰って家族で住むようになったのは夢のような出来事だった。九尺二間の一間とお勝手の本当に狭い住まいだったが、私にしては、母や家族と一緒に暮らせるだけで天国だった。しかし食事だけは私だけが伯父さんの家でしばらく食べた。恐らく預けられる時に纏めて生活費を渡してあったのではないかと思う。白米のご飯を食べるよりも、お粥や、すいとんでもいいから家族と食事がしたかった。二ヶ月ほどして、我慢が出来なくなり、母に訴えて、話して貰い、ようやく家族と一緒に食事が出来るようになった。
 戦況は益々厳しさを増し、千葉市周辺が空襲に合い、爆撃されたり、市原の田舎までも空襲警報が頻繁に来るようになった。第二次大戦で結ばれた三国同盟もイタリアがいち早く降伏し、パリを攻めていたドイツ軍も無条件降伏した。孤軍奮闘の日本だったが、神風を頼るしか無くなっていた。硫黄島玉砕、沖縄が戦場となり、本土決戦まで取り沙汰されるようになってきた。8月に入り、広島、長崎に原子爆弾が投下され、ピカドンが投下されたと、学校では先生方が大騒ぎをしていた。生徒は松ヤニしぼりに兵隊と一緒に行くようになり、1日に何キロとノルマを決められて厳しかった。8月15日家にいると、伯父さんの家に皆が集まっていた。お昼にラジオで天皇陛下の放送があると聞かされて、耳をすまして、玉音放送を聞いた。5年生の自分にはよく意味が分からなかったが、大人達は戦争が終わった。戦争に負けたと口々に言いながら、涙を浮かべながら話していた。何故か子供の私には、悔しさや、悲しさはなかった。明日から厳しい松ヤニしぼりに行かなくて済むという安堵感があった。昭和16年から4年半の長い戦争は終わり、この日を境に戦後と呼ばれるようになり、民主主義の幕開けとなる。自分としては昭和19年7月から終戦までの1年間がいろんな意味で戦争だった。人間形成が確立された期間であり、人の心を見抜く術や辛抱強さ、努力すること、全部がこの短い期間の体験に凝縮され、以後の社会生活の基盤となった。

特別寄稿−2
吟行 東海道の旅
今村 孝    

 西行法師が又もや東海道の難所「小夜の中山」として知られている中山峠を越えたのは六十九才のときであった。年とってから再び越えられるとは命あってこそのことだなあ。佐夜(小夜)の中山は懐かしいなあ。その時の思いが歌に現されている。
 年たけてまた越ゆべしとおもいきや命なりけりさやの中山            西行法師

 かつて、芭蕉もここを訪れ西行の歌を受けた句を詠んでいる。「涼み」は夏の季語。芭蕉がふうふう言いながら登り、自分の笠でやっと僅かの涼しさを得ている感じが出ている。
 命なりわづかの笠の下涼み      芭蕉

 私も3月中旬にこの「小夜の中山」へ俳句の仲間と供にいってきた。茶畑が一面に広がる山を登り中山峠へ着くと、狭い一本道からは山々を一望できる世界が広がっていた。
 また、かつての名刹「久延寺」に並び茶店があり、棒に絡めた名物の水飴を売っていた。
 西行の小夜の中山囀りる             たかし
 無住寺の日向日昃(かげ)や雪柳           たかし
 水飴を売る婆のゐて花明り     たかし

 夕方には浜名湖畔の遠州舞阪に下り「舞阪宿脇本陣」を訪れた。町の教育委員会が運営しており、元教師らしきご婦人が丁寧に案内してくれた。湖畔での天丼が美味しかった。
 舞阪に残る本陣風光る         たかし
 大き日のしづしづと落つ海霞         たかし

 翌日は別のメンバーも加わり静岡の登呂遺跡を訪れた。公園の中に「型絵染」染色作家の芹沢けい介美術館があり尋ねてみた。
 竪穴の太き柱や鳥帰る         たかし
 弥生田の今に残りぬ蝶生るる         たかし
 花冷えや着物の柄の芭蕉文     たかし

 見るもの、聞くもの、美味しいもの、そして仲間との句会、充実した二日間であった。

特別寄稿−3
タイこころの旅に詠む
新田 慎二    

 旅行記を短歌でつづってみようと思い、タイ旅行で実験してみました。やってみると俳句で表現するのに比べ、短歌のほうが旅行記としては適しているように思えました。俳句ができる限り言葉を削っていくのに比べ、短歌は説明的に表現できると思ったからでした。芭蕉のように文章を美しく表現できる場合は、文章の区切りに俳句をもってきて印象深く表現することも可能ですが、私には難しいので短歌だけを作って並べてみることにしました。ところが短歌の表現力も未熟なので、文章で補筆しないと旅行記としては何のことやら分からないことになり、以下のように中途半端なものとなってしまいました。
 しかし、つくる過程で苦吟したため、短歌そのものは心にしっかり残すことができました。
 この旅は五年ほど前の出来事でしたが、不思議なもので、散文なら暗誦できないものですが、三十一文字の場合頭に刻み込まれてしまっています。

 飛行機は冬のナリタを飛び立てり こころは既に炎熱の国
 出発は二月十一日、成田空港を飛び立ったJL717便の窓からは、雪を被った富士山が冬空にくっきりと聳え立っている。バンコクの気温は三十度前後とのこと、服装はまだ冬支度のままである。寒さと暑さのギャップが実感されないまま、すでに心はタイに飛んでいる。

 合掌と含羞の微笑(えみ)うつくしく 仏の国に歩み入りにき
 バンコク空港にて美しい民族衣装を着た女性の合掌に迎えられ、この国が仏教国であることを実感。そして全員が熱帯フラワーのレイをかけてもらった。タイの女性の恥じらいを含んだ笑顔を見て、私は不思議な懐かしさを感じていた。「含羞の笑顔」それは過去のわが国では何処にでも見ることができたが、もう首都圏の何処を探しても見ることはない。含羞という言葉とともにそういった表情を、われわれは過去の時代のどこかに忘れてきてしまったようだ。

 暑き夜にブーゲンビレアの花は燃え たえなる指のたおやかな舞
 バンコクの二月は乾季ではあったがさすがに暑い。風はなくじっとり汗ばむ陽気だ。夕食のレストランはホテルから船で渡ったところにあった。赤紫のブーゲンビレアの花がライトアップされ、墨を流したような水面に映えている。ビールとタイ料理、そしてタイ舞踊が始まる。美しい舞姫の妖しい指の動きにバンコクの夜はふけていく。

 バンコクのスラムにおわす仏さま 心やさしき人の住むなり
 翌日、バンコクのスラム、クロントイにあるプラテープ財団を訪ねる。事務局長のプラテープ・ウンソンタム・ハタさんはスラムのために半生をささげてこられた人、夫君の日本人秦さんとともに、エイズ防止や子供の保護などに注力されておられる。おだやかな表情の静かな人であった。功績によりアジアのナイチンゲール賞といわれるマグサイサイ賞を送られている。案内されスラムを視察、文字通りのスラムではあったが、テレビは必需品のようであり、どの家庭にもおかれていたのと、通りの隅に小さな仏様が祀られてあったのが印象的であった。

 チェンライのホテルの窓を乳色に 染めて夕陽はビルマに沈む

 遥かなる仏教訪ぬ旅に出て タイの北なる地の果てにいる
 夕方、タイ北部のチェンライ着。ホテルで夕食までのしばらくの時間、ぼんやりと窓の外を眺める。川の向こうに農村風景が広がっており、作物を取り入れている人たちや、アヒルや犬を眺めることができる。夕陽が沈み、あたりが乳色に染まり、遠くミヤンマー国境の山脈がボウとかすんでいる。旅先の、けだるい、なんとなくものうい時間。

 四季の花一季に咲きて王母宮 桃源郷のさ中に立てり
 タイはこの地域で植民地とならなかった唯一の国であり、王室に対する民衆の敬愛は強い。国王殿下の母君の離宮が北部タイの山中にあり観光地として公開されていた。王母宮というより、むしろコテイジという感じの質素で小さな宮殿だったが、花の中にうずまっている感じで、それも日本の一年かけて見る花が同時に咲き競っており、まさに桃源郷とはこんなところか、といった佇まいであった。風さわやかに頬を撫で、バンコクで飲んだビールと同じモノがまるで別の味がした。

 なにもかも呑んでメコンはながれゆく いくさ戦のこともアヘンのことも
 ゴールデントライアングルを視察。メコンの蛇行によってさえぎられたタイ・ラオス・ミヤンマーの国境三角地帯、アヘンの栽培で有名なところである。メコンは褐色の水をたたえゆっくりと下流のカンボジア、ベトナムに向かって流れていく。麻薬、地雷、ベトナム戦争、ポルポト、その間で揺れる人々の暮らし、喜びも悲しみも、あきらめさえも包み込んで流ゆくメコン。川の表情はあくまで穏やかで、何事もなかったように流れていく。かなりスピードの出る川船で、対岸のラオス側を見る。子供たちが水浴びをしていたり、村人が魚を採ったりしている。

 ゴールデントライアングル駆けめぐる 麻薬捜査官(グリーンベレー)の眉目麗しく
 自動小銃を持った捜査官に案内されるケシ栽培地帯。わが国の援助もあって農業指導が行われている。ケシ栽培をやめると食っていけない、食っていけないと子供たちが町に出てしまう、ろくな仕事はなく風俗営業に走る、そしてエイズが蔓延する、だからケシ代替作物で食っていけるようにしないといけない。農業指導のほか、軽工業の導入や特産品の製造にも力を入れているそうだ。茅ヶ崎から来たという農業指導員に会う。「メロン栽培を指導していますが、なかなかよい値段で売れなくて」と、中年の指導員は郷里近くに住む私に笑顔で話した。

 機上より富士山みえし瞬間に 魔法は醒めて冬の日本

 旅立ちと別れと出会い空港の 人ごみのなか身をまかせつつ

 旅装解き湯船に身体溶き放ち旅の余韻を独り楽しむ
 再び機上の人となり、スケジュールに忙殺される生活に戻らねばならない。できることなら魔法は解けないで欲しい、まどろみながらそんな思いに浸っていたが、誰かの「富士山だ」の声に、現実に引き戻され、あわれかぼちゃの馬車は消え去ってしまった。
 無事成田着、解団式を終え、NEXを待つ間の空港は、出発時とまったく変わりなく、ひたすらあわただしく、一人ひとりがそれぞれ違う目的を持ってひしめき合っている。ほっとしたような開放感とけだるい疲労感、雑踏に身をまかせる気持ちよさ。
 そして自宅の人となり、心の旅の終わったことを実感した。よい旅であった。
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