今月取り上げる話題は、「中国旅行」と「ガン」です。
 「中国旅行」は、本年5月20日から24日まで、昔一緒の職場で仕事をしていた仲間が連れ立って、中国で日本語の先生として頑張っている元同僚を訪ねたときの旅行記です。なお元同僚の木澤さんは7月初旬、無事中国での仕事を勤めあげて帰国されています。
 「ガン」は7月13日に東京國際フォーラムで開催されたガン免疫療法の講演を聞いたときの感想をまとめたものです。ちょっと長くなったので今月と来月の2回に分けて載せることにいたします。


中国(蘇州・上海)の旅

1.水寂びの蘇州
 日本アイ・ビー・エム時代の同僚6名と蘇州、上海を旅してきました。
 リーダーの武藤さんが「中国蘇州の木澤さんと本当の中国を楽しむ旅行会」をやろうと言い出し、それに賛同した7名で蘇州大学で日本語を教えているやはり元同僚の木澤さんを訪ねることになったのです。木澤さんが日本語の教師を勤めるのは2度目です。毎月送られてきた「蘇州徒然草」と「新蘇州徒然草」は蘇州での生活を綴ったレポートでしたが、日中の文化や考え方の違いを興味深く伝えてくれました。その木澤さんが6月で先生を辞め帰国すことになったため、その前に押しかけて、パック旅行では味わえない本当の中国の一端に触れようというのが目的でした。
 2002年5月20日13時50分成田発の中国東方航空で出発、搭乗時間3時間、上海虹橋空港に着いたのは15時50分でした。中国と日本の時差は1時間です。空港では木澤さんと奥様が出迎えてくださいました。上海には浦東に新しい空港が完成していますが、虹橋空港のほうが市内に近く便利です。そこから蘇州まではマイクロバスで約2時間でした。そのマイクロバスは木澤さんの教え子が運転手付で特別料金で提供してくれているものでした。
 今回の旅行はホテル、食事、交通機関、観光、見物場所など木澤さんと奥様の企画と手配ですべてお膳立てされており、私達はVIP並に何も考えずにただ楽しみに専念するという大変ありがたい日程でした。しかもお二人でまたは交代で同行していただき、案内役と中国語の通訳をかってくださいました。食事はおいしい各地の中華料理を中国人と同じ値段で楽しめるよう計画されていました。パック旅行ではとても考えられません。パック旅行のオプショナルツアーがいかに高いものかということを改めて認識した次第です。
 蘇州のホテルは蘇州大学が経営している東呉飯店です。木澤さんと奥様が2部屋を大学から提供されて住んでいる同じホテルです。新しくはありませんが広い部屋でツインのシングルユース、3泊で合計8000円ほどでした。夕食は中華料理店で火鍋をいただきました。ビールやワインや紹興酒をたっぷり飲んで一人約580円でした。
 夜は木澤さんの部屋で2次会を楽しみました。昔話や中国の話に時間のたつのも忘れ、2次会は毎晩のこととなりました。

 司馬遼太郎の「街道を行く」の「中国・江南のみち」で蘇州が取り上げられています。その文章をちょっと借りてきましょう。

『蘇州の美しさの第一は、民家である。
 この古郡は、城内に大小の運河を四通八達させている。
 というより、元来、長江の氾濫がつくりあげた平原の真只中にあるこの町としては、網のように運河を掘って水排けをせねば都市を成立させるだけの土地が造成できなかったのであろう。
 城内の運河は、いずれも狭い。水に浸っている岸は、積み石で固められている。その切り石のなかには、あるいは二千年前のものもまじっているかもしれない。
 民家は、運河のふちに密集している。どの民家も、白壁に暮らしの膏がしみついていて、建てられて何百年も経ている家も多いだろうと思われた。古びて陋屋になりはてた家ほど美しく、その美しさは、水寂びともいえるようなにおいがある。潮寂びのヴェネチアとは、そのあたりでも違っている。』
 司馬さんが蘇州を訪れたのは1981年で約20年前です。木澤さんの話ではわずか2年の間でも街の風景が大分変わったとのことです。司馬さんの蘇州は今よりももっと多くの民家が残っていたのでしょう。今回それでも大学からホテルまでの小さな運河のそばの小道にその面影がありました。

2.蘇州観光−「同里」「盤門」「寒山寺」「拙政園」「網師園」
 木澤さんの作った綿密な日程表では21日と22日の2日間で蘇州の代表的な観光地の見物、蘇州大学での日本語教室見学、蘇州の市場や繁華街めぐり、古い蘇州の小道の散策、朝の太極拳体験と学生食堂での15円の朝飯体験、夜の古典芸能見学、昼食と夕食は豪華で安い中国料理とバラエティに富んだ内容になっていました。それに私たちの要求に配慮して、足つぼマッサージ、デパートやスーパーやお茶店での買い物などを加えてくれました。
 5月21日は一日中雨でした。それも並の降りではなく土砂降りです。朝9時ホテルを出発、木澤さんと木澤さんの教え子の蘇州大学4年、可愛い女子大生沈さんが同行です。
 マイクロバスはまず唐代に作られ清代の1873年に大補修された宝帯橋の見えるところで停車しました。宝帯橋は黄河と長江を結び杭州に達する大運河と蘇州城内からの運河が交差する十字路に架かっていました。司馬さんは宝帯橋についてこう書いています。

 『蒼古とした花崗岩積みの橋が、背丈を思いっきりかがめてながながとつづいているのである。その長大さと石組の巧みさ、さらには橋として他に類のない奇妙な形をしている点で、ついローマの石造遺蹟に比したくなる衝動に駆られた。』
 バスはまもなく世界遺産の同里へ着きました。同里は司馬さんのいう水寂びが実感出来る水路と漆喰の白壁の民家と小道が入り組んでいる街です。庭園もあります。雨はこやみなく降り、しずくと寒さが沁みとおってきます。靴はびしょびしょ、足指が靴の中で泳いでいます。私達は全員ビニールの雨合羽を約150円で購入し、ビニールのレジ袋で靴を覆いました。靴のほうはやや手遅れの感がありましたが、カッパは威力を発揮して立派な雨よけになりました。
 歩くよりは舟で水路を行こうと2艘の小舟に分乗しました。ベニスのようなかっこいいゴンドラでなく潮来の十三橋巡りの舟を小さくしたような小舟です。水路の水はうす緑の濁った色で、お世辞にもきれいとは言えません。水路を舟で進んでいるところにビニール袋が飛んできました。横の民家のおばあさんがゴミを投げ入れたのでした。水路は洗濯やゴミ捨て場や便器洗いの目的にも使われているようです。でもそんなことを気にしていては世界遺産が楽しめません。水路と周りの建物と木々の緑が雨の中にくすんで何とも言えない風情をかもし出しています。途中鵜飼をやっていました。面白いように鵜が魚を飲み込んでは吐き出していました。鵜飼は観光客への見世物のようで、とれた魚が食卓に上がるのかどうかは聞き漏らしました。

 次に訪れたのは蘇州城の南西を守っていた盤門です。木澤さんの説明によると、南船北馬といって蘇州のような江南の地では、城は船からの攻撃を防ぐのが重要だったとのことです。また司馬さんの言葉を借りましょう。

 『この城門が、蘇州でただ一つ残る城門なのである。さらにいえば、呉の謀臣伍子胥の目玉が遺言で指定した東門にかけられることなく、方角ちがいの西南角の門であるこの盤門(西門)にかけられたという伝説の門でもある。』
 『橋上からこの付近の構造を見ると、まず城内に小運河が流れこんできている。その小運河を、階段つきの石橋がまたいでいる。そのむこうに城門がある。ただし、これは水門としての城門である。門をくぐれるのは人や車ではなく、小運河の水のみである。このおかげで、小舟をもってそのまま城内に入りうる。
 同時に水門を閉じることによって舟を遮断できる。』
 「月落ち烏鳴いて霜天に満つ 江楓漁火愁眠に対す 姑蘇城外寒山寺 夜半の鐘声客船に到る」という張継の「楓橋夜泊」の詩で有名な寒山寺についたとき小止みになっていた雨がまた激しくなりました。屋根のない所に出ると足元がぬかるむため、混雑している人の流れに流されるように進みます。鐘楼では3回ずつ鐘をつきました。中国のお正月「春節」は旧暦で祝いますが、12月31日には寒山寺僧の手で除夜の鐘がならされるそうです。売店では「楓橋夜泊」の掛け軸を販売していましたが、木澤さんが前もって買ってくれていた値段(55元)の3倍以上していました。

 蘇州には拙政園、網師園、西園、留園、獅子林などの庭園があり、絵はがきや観光パンフレットを飾っています。いずれもかっての大官や富豪の庭園だったものです。木澤さんは翌22日、その中でもっとも有名な拙政園観光と夜の網師園での古典芸能見物を用意してくれていました。22日も雨模様です。拙政園は池を中心とした庭園で、水面が全面積の5分の3を占め、雨が美しさを一層際立たせています。ただ日本式の枯山水の石庭に比べると贅をつくしたわざとらしさがあり、何となく落ち着かない感じもしました。
 網師園の古典芸能は昔の中国(いつの時代かは聞き漏らしました)の衣装を着た美男美女が踊ったり唄ったり楽器を演奏したりして観光客を楽しませる出し物です。異文化への憧れか西洋人の観光客のほうが多かった感じでした。

3.蘇州大学日本語教室
 今回の蘇州訪問の目玉は蘇州大学の日本語教室で木澤さんの名教授ぶりを見ることでした。雨でなければ東呉飯店から蘇州大学構内を歩き、1元(15円)の朝食を食べて教室まで行く予定でしたが、22日も雨、ホテルで食事を済ませ、大回りしてタクシーで正門まで乗りつけました。なお15円の朝食の八宝粥は翌日味わうことが出来ました。
 蘇州大学の校舎は新しく清潔でした。日本の大学の教室ではあまりお目にかかれない書画カメラが備え付けられていました。1年生のクラスは初々しく、目が輝いていて、日本の大学生と比べると真剣さが違う感じです。茶髪は一人もいません。ただ自分の両親より年配の大勢の日本人の高齢者がどやどやと入ってきたためか皆さんやや緊張気味でした。
 まず生徒の何人かが日本語で簡単なスピーチをしました。中国では6月に1年の学期が修了するので1年生といってもかなり勉強が進んでいて皆さん上手でした。その後私たち6人がそれぞれテーマを決めて日本語のスピーチをしました。5月だったので端午の節句を話題の一つに取り上げたとき、ちまきの説明が関西と関東で食い違うことになり、聞いている生徒もちょっと戸惑っていました。日本の文化や習慣を正しく伝えることの難しさがとんだところで出た感じでした。わたしはラジオで勉強中の中国語で挨拶しましたが、彼らの日本語のほうがずっとレベルが高かったようです。木澤さんの話では生徒によってかなり差がついているとのことでした。
 切手のお土産や日本の雑誌を持っていったこともあって皆さん結構楽しんでいました。私たちも貴重な経験をした日本語教室訪問でした。

4.超スピードで変貌する都市−上海
 最後の一日は上海です。来たときと同じマイクロバスで上海に向いました。木澤さんは授業で時間が取れないため、奥様と教え子の干さんと凡さんの2人の大学生がエスコートしてくれました。上海は3年ぶりです。この前来たときも高層ビル群に驚きましたが、今の上海の3年は日本の5、6年に相当するようです。
 上海の名所の外灘から黄浦江の対岸を見ると、アジア一の高さを誇るテレビ塔「東方明珠電視塔」を取り巻くように超高層ビルが林立し、世界の電子メーカーの広告が競い合っています。そのテレビ塔の339メートルの展望台に昇ってみましたが、そこから見る都市の風景は、東京タワーから眺める東京と同様に殷賑を極めていました。むしろテレビ塔の周りは幕張新都心という感じで、開発が着々と進んでいるのが窺がえます。1999年9月に開港した浦東新空港はわずか4年で建設されました。現在は4000メートルの滑走路1本ですが、将来は4本の滑走路を持つアジアのハブ空港を目指しているそうです。
 アジアの拠点を東京から上海に移す海外の企業が増えているという新聞記事を読みましたが、今の日本経済と中国経済の元気さの違いや中国がもの作りの上で世界の工場になりつつあるのを考えると、仕方のないことかもしれません。帰りの飛行機では上海の企業から福祉機器を輸入しようと初めて中国を訪れた会社員と隣り合せになりましたが、やはりこれからの商売は中国抜きではやっていけないようです。物の値段も上海は国際的なレベルに近づいており、蘇州の2、3倍との感じを受けました。
 ただ観光はまだこれからの国です。わずか一日の滞在期間中、上海の変化のスピードに観光の情報が追いついていけない例を身を持って体験しました。上海観光の目玉の一つに上海雑技団というサーカス団があります。ショーを見るためには予約した上にその場所に行って切符を買っておく必要があるとのこと、地図を頼りに雑技団の場所を求めて上海の中心街をうろうろしました。ところがそれらしいところに行っても見つかりません。何人かの中国人に地図を見せながら聞いても分かりませんでした。
 とうとうここしかないというところで、英語の達者な中谷さんが英語の分かる中国人に聞いたところ、中国雑技団はたしかにそこにあったのが引っ越したとのことでした。新しい場所はその中国人も知りませんでした。歩き疲れたのと馬鹿馬鹿しくなったのとで雑技団を見る気はすっかりなくなってしまいました。
 もっとも変化のスピードに追いつけないというのは好意的な解釈で、ホテルの従業員をはじめ当然知っているべき人が知らなかったのは、中国人の手抜きというか、いい加減さを示しているのかもしれません。翌朝チェックアウトのとき、ツインのシングルユースに2人分の朝食代が請求されたのをみても、観光業を軌道に乗せるにはまだまだ改善する余地があるようです。蘇州大学の生徒や教え子の学生には笑顔がありましたが、ホテルや商店や食堂の従業員の笑顔にお目にかかることはめったになく、ありがとうとか、謝謝という言葉もほとんどありませんでした。

 昔の中国に触れることのできた蘇州と新しい中国の上海への旅行は、楽しいだけでなくいろいろ考えさせられる旅でもありました。あらためて木澤さん、奥様、そして同行の仲間に感謝したいと思います。

ガン免疫療法の講演を聞く−その1

 6月13日に東京国際フォーラムでNPO免疫療法懇談会主催の特別講演会「過去を知り未来に生きる」に出席しました。三井生命時代の同期生市川恭さんから誘われたため、手賀沼通信の記事にならないかという好奇心を満たすべく出かけたものです。市川さんは前立腺ガンの手術の経験があり、このNPOの理事の大役を引き受けています。
 最初に女優で作家の岸恵子さんの「命ということ」の特別講演がありました。国連人口基金親善大使として僻地を訪れたときの経験談に感銘を受けました。
 その後が当日のテーマの「免疫療法」の話でした。
 私は今まで多くの家族や友人や先輩をガンでなくしました。ガンは早期に発見して手術など適切な処置をとれば治ります。ところがガンは日本人の死因のトップを占めており、寿命が延びれば延びるほどその割合はますます増えています。やっぱり怖い病気なのです。

 ガンというと今から24年前に叔父を胃ガンで亡くしたときの無念さを思い出します。私と同じ会社に勤めていた叔父は会社の定期検診でガンが発見されました。当人には胃潰瘍ということでT病院に入院しました。T病院は新橋から地下鉄で一駅の所にある都内でも有数の高名な病院です。そこで放射線治療をしながら開腹手術を受けましたが、すでに手遅れ、ガンを摘出することなく手術はそのまま閉じただけでした。
 執刀したのは当時ガン手術の名医といわれたA先生でした。手術後先生から「検査で予想はしていたのですが開けてみたら手のつけようがありませんでした。抗がん剤を一杯入れておきました。残された時間はあと1、2ヶ月でしょう」というお話がありました。家族にとっては死刑の宣告です。気持ちとしてそのまま手をこまねいているわけにはいきません。叔母がわらにもすがるような思いで「丸山ワクチン」の話を持ち出したところ、「使いたければどうぞ」と言うだけで、その裏には「私が言ったことに間違いはありませんよ。ここの病院で認めていない丸山ワクチンなど気休めにすぎませんよ」というニュアンスがありありでした。本人は手術はうまくいったと思っています。同室の人からの情報で相当のお礼をするようにと叔母に指示しました。そしてA先生や看護婦長は叔母が差し出した決して少なくないお礼のお金を辞退することなくそのまま受け取ったのでした。
 病院から見放された叔父は手術後の静養ということで自宅に帰ってきました。手術がうまくいったという思いと久しぶりの我が家で叔父もしばらくは元気を取り戻しました。しかしガンの病巣がそのまま残っているのです。叔父はすぐにこれはおかしいと思うようになりました。「変だな。おかしいな。」という言葉が口を突いて出てきます。食べたものは戻し、大量の下血が始まりました。
 そして家の近くの病院に再入院。まもなく帰らぬ人となりました。さすが名医のA先生の言葉に間違いはなく手術後数か月のいのちでした。叔父は自宅にいるうちに、ガンに気がついたようでした。しかし心のやさしい人だったので、自分がガンに気がついたとは最後まで口に出しませんでした。私の推測でしかありませんが、まわりがガンだと言わない以上、知らぬ振りをしているほうがまわりを悲しませないと思ったのではないでしょうか。最後まで叔父には告知しませんでしたが、はたしてそれでよかったのか後々まで結論が出せずにいました。
 ところがこのセミナーに出て、ガンは告知したほうがいいのではないかと思うようになりました。その理由は次の55号でまとめてみたいと思います。

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