今月のテーマは「俳句」です。2月23日にNHKの衛星第2放送で「おーい日本、今日はトコトン愛媛県」という番組が放送されました。愛媛県といえば俳句とミカンと道後温泉です。愛媛県出身の武内陶子アナウンサー、「花へんろ」の早坂暁さん、子規博物館長の天野祐吉さんなどが狂言回しで出演していましたが、主役は視聴者から送られてくる俳句でした。目標は今年にちなんで2003句でしたが、それをはるかにオーバーして4777句集まりました。最後は集まった俳句を書いた紙で灯ろうを作り、ろうそくの灯をともした情緒たっぷりのエンディングでした。
特別寄稿−1 吉行幸子(吉見千恵子) 風薫る季節、モーツアルト作曲「五月の歌」をコーラスで合唱する時に胸の高まりが、青春時代に回帰した思いが‥‥します。お聞かせできないのが残念でございます。 うれしや五月 光は映え 若葉の森に ことりはうたう そよ風わたる こかげを行けば 心もすかし そぞろ歩きぬ 優美な詩です。俳句作家にも、昔から五、七、五の中に季語を生かし自然賛歌、喜怒哀楽を旨く表現した名句が多々あります。 五月六日より八月七日迄を、初夏、仲夏、晩夏として、芭蕉から現代の伝統句を、僭越ながら御紹介いたします。 未熟者の選句ですが、悪しからずおゆるしを。 子の髪の風にながるる五月来ぬ 大野林火 プラタナス夜もみどりなる風は来ぬ 石田波卿 八千代市内にも早くから多数の鯉のぼりが見られて喜ばしく嬉しい事です。 鯉幟立つべき緑ととのひぬ 後藤比奈夫 風吹けば来るや隣りの鯉幟 高浜虚子 端午の日、遠き日を思い菖蒲湯にして。 菖蒲湯の端然と胸乳ふくまする 細見綾子 沸きし湯に切先青き菖蒲かな 中村汀女 五月第二日曜日は「母の日」でした。 母の日の手のひらの味塩むすび 鷹羽狩行 母の日の母のきよ名またはるか 岸田雅魚 六月第三日曜日は「父の日」です。 父の日の隠さうべしや古日記 秋元不二男 父の日を誰にも云はれず旅にあり 林翔 新茶の新鮮な香りが豊かな気持ちに。 朝の用なかれと思ひ新茶汲む 水原秋桜子 新茶淹れ幽かにありし亡父憶ふ 加藤楸邨 この頃の天気は梅雨の走りとか。 さよならと梅雨の車窓に指で書く 山口素逝 走り梅雨鳩が浅草私うす 河野閑子 好物の初物枇杷が目について。 滿目の白きは枇杷の実包む 山口誓子 枇杷は黄に天主の塔は海光に 石原八束 さっぱりした栄養ある冷奴はよく食事に。 もち古りし夫婦の箸や冷奴 久保田万太郎 冷奴はや硝子皿のみ残る 徳永山冬子 盛夏のような一日、万録の南房総の仁右衛門島に小旅行し、自然の美しさと伝説の豊富な処に、また一つ思い出が出来ました。 万録の中吾子の歯生え初むる 中村草田男 夏空へ雲のらくがき奔放に 富安風生 赤々と月の出は、火照る感じ。 蛸壺やはかなき夢を夏の月 松尾芭蕉 師の窓に私の窓に夏の月 岡本眸 芭蕉の「俳諧は老後の楽しみ」と、言葉を念頭に‥‥。根気のない頭を「ボケ」ない為に。読書もせいぜい生きる糧にと思って居ます。 今月の「花腐し」の本名から、俳句では「卯の花腐し」陰暦四月を卯の花月という。長く降りつづく雨を言います。 晴間見せ卯の花腐しなほつづく 高浜虚子 ひもすがら卯の花腐し茶を入るる 星野立子
特別寄稿−2 新田慎二 その店は小さな店でカウンターは十席ほど、おくに八畳を半分に切った和室が二つあり、客が二十人も入れば店はぎゅうぎゅう詰めとなる。銀座並木通りといっても京橋よりのどんづまり、側を首都高が走り、最もはずれのこの辺りはきらびやかなブランド店からはほど遠く、静かな横町の一角である。入り口の角に小さな稲荷神社の鳥居と祠があり、そこを曲がって数軒目に「卯波」はある。隣が魚屋で、間口は二間あるかないか、ガラス戸を開けると「いらっしゃい」と元気よい声が返ってくる。そこが真砂女の「城」であった。鯵のたたき揚げと揚げしゅうまいが名物で、刺身は注文すると隣の魚屋から出前が届く、そんな庶民的な店であった。 真砂女がここに店を構えたのは昭和三十二年三月三十日のことであった。店の名前は「卯波」とした。鴨川の海を詠んだ「あるときは船より高き卯波かな」からとった。鴨川一の老舗旅館の女将の座を投げ捨て、裸一貫のスタートであった。開店資金は独立を支持してくれた小説家N先生やY運輸の社長、酒屋の女主人などから無担保無利子無催促で借り入れ、元来陽気な質の彼女には、苦しいが希望に満ちたスタートであった。「人生雨の日ばかりではないわ」と。開店の日には川端康成、丹羽文雄、安岡章太郎、吉行淳之介、阿川弘之などそうそうたるメンバーが駆けつけてくれた。以来半世紀をこの店で暮らし、女流俳人としてもトップクラスの位置を保ってきている。 真砂女の人生ほどドラマチックなものを知らない。それは彼女の意志と偶然が折り重なり、小説ならばやや作り過ぎともいえる一代記になっているのだ。彼女は自身の過去について結構饒舌で、飲みながらも聞いたし、自ら自伝「銀座に生きる」も出版しており、また丹羽文雄が彼女をモデルにした小説を書いており、数年前には瀬戸内寂聴が「いよよ華やぐ」と題して日経新聞に連載し話題となった。 今生のいまが倖せ衣被 「幸せなんてものはね、自分がそうだと感じれば、どんな逆境にあっても幸せなんですよ」 こんなお説教じみたせりふも、修羅場を何度も踏んだ真砂女が言えばそれなりの説得力があるから不思議だ。彼女の小気味のよい人生を振り返ってみよう。 安房鴨川の老舗旅館吉田屋(現在の鴨川グランドホテル)の三女として生を受け、なに不自由のない少女時代を送る。旅館の客だった日本橋の問屋の次男坊と恋愛結婚をして幸せの絶頂の時、夫が博打に手を出し失踪、生まれたばかりの子供を婚家に残し、実家へ戻っている時姉が急死、両親の説得で義兄との愛のない結婚生活を強いられる。嫉妬深い夫の仕打ちに悩み、寂しさを紛らすため俳句を始め、久保田万太郎、後に安住敦に師事、めきめき頭角をあらわし、処女句集出版にまで漕ぎつけ、上京している夜に旅館が全焼する。旅館に戻った彼女は女将として再建に没頭し、その努力で旅館は見事に復興する。その間海軍将校との運命的出会い、そして不倫恋愛に落ちていく、飛行基地を移動した彼を追って九州まで家出したこともあった。終戦となり、夫から「旅館をとるかそうでなければ出て行け」と迫られ無一物での家を出ることを決意、借金して銀座に店を構えたのであった。さばさばした再出発であった。海軍将校は結核となった後、復員して会社を構えていた。夢のような再会ではあったが、彼は家庭持ちであった。真砂女はしかし諦めなかった。「結婚してればそれは仕方ない、そのままの彼を愛しよう」そう腹をくくった彼女は、週のうち何日かの逢瀬を楽しみ、彼と妻を囲む不思議な関係が続きやがて彼は死ぬ。もちろん通夜の席の侍れるわけがなく、寺の門外の暗がりに佇んで一人だけの通夜をした。 羅や人悲します恋をして 花冷えや箪笥の底の男帯 俳句を通じ久保田万太郎や丹羽文雄、石田波郷、飯田龍太、角川春樹、藤田湘子他の人たちが集団でやってきたりした。波郷の句はこの店の中で作られた句だ。その波郷も逝っってしまった。 壺焼きやいの一番の隅の客 波郷 波郷忌や波郷好みの燗つけて 店は固定客もつき繁盛していったが、店は大きくせずそのままで、それは彼女が自分の声のとどく空間にこだわったのだと解釈している。私の元の会社の連中はそんな店の雰囲気が好きで、事務所が店が近いこともあって、毎日のように出入りした。常連に対しては「もう飲み過ぎよ、それにあなたの家は遠いので、もうお帰りなさい」と退席を促すなど、やさしいが厳しいママでもあった。店は「女将」である真砂女と板さんと遠縁(?)の女性の三人で、忙しい時には娘の本山可久子も手伝ったりしていた。私はこのママが好きでよく通った。俳句の話や彼女の人生談議、可久子は文学座の中堅女優で新劇の面白い裏話を聞かせてくれた。 戒名は真砂女でよろし紫木蓮 上梓した句集は七句集にのぼり、第十六回俳人協会賞、読売文学賞などを受賞、しかしそんなことには関係なく小料理屋のママは気さくで、着物の似合う小さな可愛いおばあちゃんであった。しかし時がたち、寂聴の小説が出た頃から、店は早いうちから女性客で一杯となり、私が会社を移ったこともあり、卯波から徐々に足が遠のいていった。そして彼女も私も引退し、もうお会いすることもなくなってしまったが、現在九十六才、どうかお元気で百才を越して頂きたいものである。もし時間を逆に回すことができたら、あの卯波の狭いカウンターに座り、鯵の叩き揚げで一杯やりながら、彼女の名調子を聞いてみたいのだが・・・。 なんとなく真砂女のうわさ初句会 良瓶(注、この方は私の元上司)
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