今月は59号に続いて再び「ウォーキング」を取り上げます。
 3月にかなりきついコースを、4月には反対に楽なコースを歩きました。山登りもそうですが、どちらも違った楽しさがあります。
 今年は不況やイラク戦争やSARSの影響で海外旅行がかなり減ったようですが、安上がりの国内のウォーキングは増えているようです。私は今回ご紹介する生涯大学の歩こう会のほかに、地元の「ふれあい手賀沼の会」と「東京ハイキングクラブ」に入会しています。
 興味のある方は下記の電話番号にお問合せください。
「ふれあい手賀沼の会」04−7184−6734
              (田宮克哉氏宅)
「東京ハイキングクラブ」03−3891−2280
            (事務局又は秋山氏宅)

 今月の特別寄稿は、手賀沼通信の読者で昭和4年富山市生まれ、昭和44年より取手市にお住まいの吉倉隆三様からいただいた「ラジオと私」です。吉倉様は70歳を超えてアマチュア無線やピアノやギターなど幅広い趣味を楽しまれています。

スリーデーみずウォークに参加

1.琵琶湖から大阪までのみずウォーク
 3月21日から23日まで3日間をかけて琵琶湖のなぎさ公園から大阪の中之島公園までを歩くスリーデーみずウォークに参加しました。この催しは同じ時期に京都で開催されていた第3回世界水フォーラムを記念して、日本ウォーキング協会と読売新聞社が主催したイベントでした。主催者のホームページにみずウォークの説明がありました。

 「人間の生活に欠くことのできない「水」。世界の水が今危機に瀕しています。水と貧困、環境問題、異常気象、水をめぐる紛争…。これらの問題について、世界各国から、各国政府、国際機関からNGO、民間企業、労働者、子供、女性にいたるまで、あらゆる分野の人たちが集い、話し合う国際会議『第3回世界水フォーラム』が、2003年3月16日から23日まで、滋賀、京都、大阪の3府県を結んで行われます。
 世界環境会議、世界湖沼会議につづく、関西での大規模国際会議の開催を記念し、日本ウオーキング協会と読売新聞大阪本社では『スリーデーみずウオーク』を開催することになりました。」
 
 1日目は大津市の琵琶湖畔にあるなぎさ公園を出発し、瀬田川に沿って下り、喜撰山ダムと天ケ瀬ダムの近くを通って、宇治川べりの宇治公園までの32キロです。2日目は宇治公園をスタートして宇治川を下り、桂川と木津川を合わせて大河となった淀川の河川敷を枚方市淀川河川公園まで歩く32キロです。3日目は同公園を出て、ひたすら淀川の河川敷を歩き、赤川鉄橋と毛馬閘門で淀川を渡って、大阪城公園で大阪城を1周し、中之島公園のゴールまでの26キロです。合計すると90キロになります。
 私がスリーデーみずウォークの開催を知ったのは昨年12月みずウォーク江戸川大会に参加したときのパンフレットでした。早速読売新聞大阪本社から詳しい案内を取り寄せました。
 参加するために先ず確保しなければならないのは20日から22日までの宿です。インターネットで3日間のスタート地点の近くのビジネスホテルを探しました。ところが意外と近くに安くて便利なホテルがありません。それに毎日ホテルを異動すると荷物をどうするかという問題があります。主催者もそのあたりを考えスタートからゴールまで毎日荷物を送る搬送サービスを用意していますが、ホテルからスタート地点とゴール地点からホテルまではこちらで運ばなければなりません。3日分の荷物はかなりの量になります。スタート地点の場所を地図で眺めているうち、京都をベースとしてそこから通うのが便利ということがわかりました。インターネットで調べた結果、初日の大津までは11分、2日目の宇治までは21分、3日目の枚方市までは28分電車に乗ればよいということがわかりました。同じところに滞在すれば荷物の移動は不要です。弁当と飲み物とカメラその他だけ持って行けばすみます。雨具は天気予報を見てザックに入れるかどうか決めればいいのです。結局京都駅から1分の京都第2タワーホテルに決めました。1泊7000円です。朝早く出るので食事はコンビニを利用することにしました。
 昨年の暮れころから下肢の痺れがひどくなり痛みも出てきました。いろいろ原因を調べた結果、どうやら背骨と腰からきていることがわかりました。3日間のウォーキングに耐えられるかどうかは歩いて見なければわかりません。どうするか悩みましたが、「せっかく決めたのだからトライしてみよう、歩けなくなったら途中でリタイアすればよい」と覚悟を決め行くことにしました。

2.ゴールは遠かった
 20日の京都行きの新幹線に乗って1時間ほどたったころ、車内の電光ニュースでイラク戦争の開戦を知りました。京都駅に着いたら新聞の号外が配られていました。一方では水フォーラムの垂れ幕が下がり平和と戦争が錯綜している雰囲気です。なんとなくみずウォークの前途を暗示している感じでした。
 
 初日と3日目はすばらしいウォーキング日和でした。朝は零度近い寒さでしたが、途中から腕まくりをして歩き、かなり日焼けしました。ところが2日目は今にも雨が降りそうな曇り空で冬のような寒さでした。私のスリーデーウォークはその天気と同じように2日目が抜けた"間抜けな"ツーデーウォークになってしまいました。
 出発する前に心配していた下肢のほうは何ともなかったのですが、1日目に足の爪をいため、両足の親指の付け根に大きなマメを作ってしまいました。足を引きずりながらホテルに帰り着き靴下を脱いだところ、左の第2指の爪がはがれ、指先が真っ赤に充血し、親指の下のマメは今にもつぶれそうでした。32キロを甘く見ていたツケが回ってきたのでしょう。今まで20キロは何度も歩いていましたが、32キロは初めてでした。今までのウォーキングと同じように軽い気持ちで靴と靴下を選びマメ対策を講じていませんでした。雨のことを考え、替えの靴こそ持っていきましたが、いずれも2900円のスニーカーでした。せっかく本格的なウォーキングシューズがありながら、重いのを嫌って履いていきませんでした。靴下はウールとポッサム(ニュージーランドの小動物)の厚手のものを持っていきましたが、摩擦が大きくマメができやすいのです。初日は最後に長いくだりがだらだらと続く行程でしたので爪をいためないような注意が必要でした。後の祭です。
 それでも何とかしようと、京都駅の地下街の薬局で足の裏を守るラバーやガーゼやホワイトテープを購入し、持参していたバンドエイドとあわせて応急手当をしました。2日目の朝は出かけるつもりで早起きし、ためしにコンビにまで歩いてみて何とかなりそうな気もしたのですが、天気予報が芳しくないのと3日目は何とか完歩したいため、涙を呑んで休むことに決めました。サボリの虫が顔を出したのかもしれません。
 ホテルでボケッとしていてももったいないので、500円の市バス1日乗車券を購入し京都見物をすることにしました。歩くのでは休養になりません。結局京都駅を出て京都駅に戻ってくる東回りと西回りと南回り3系統のバスに乗って2日目を過ごしました。下車したのは最初のバスの哲学の道から銀閣寺までで、後はバスの中からの見物となっていしまいました。
 3日目は多少よくなった足の状態を気にしながら、ゆっくり歩きました。コースが平坦で歩きやすく、距離も26キロと初日より短かったので何とか歩き通せました。それでも中之島公園のゴールに到着したときは、初日と同じ位マメと爪が痛みました。ゴールは遠かったというのが正直な感想でした。あとで東京に戻ってゆっくり調べたら足の爪が3枚駄目になっていました。

3.豊かな日本の水
 テレビに映ったアフガニスタンやイラクの戦争はほとんどが砂漠地帯です。中国でもシルクロードや黄河地帯は緑があまりありません。地図を見ると中央アジアやアフリカには砂漠が広がっています。オーストラリアを飛行機で横断したとき眼下には荒野が横たわっていました。
 今度みずウォークで歩いてみて、日本の水の豊かさと緑の多さに改めて心を強くしました。日本で水フォーラムが開催された意味がわかるような気がしました。
 初日のスタート地点の大津市なぎさ公園は琵琶湖のほぼ南端にあります。比叡山を背景に琵琶湖の水が朝日に輝いていました。琵琶湖の水は瀬田の唐橋を過ぎると瀬田川となります。それから宇治川、淀川と名前を変え大阪湾に注ぎます。1日目のゴールの宇治公園近くの宇治川の水量の多さと流れの速さには目を見張りました。心が洗われる感じでした。
 3日目のスタート地点では急流はすっかり穏やかな淀川となっていました。川幅が広く河川敷の中の道は舗装されており、道と川面の間の広場は公園や球技場やゴルフ場などに利用されていて人々の憩いの場所になっていました。
 私達はこの豊かな水と河川や湖沼を大切に守り次の世代に伝えていく義務があると思います。 

 最後に水フォーラムのホームページのコメントをご紹介しましょう。水フォーラムの総括レポートの冒頭は次のようになっていました。
 「『第3回世界水フォーラム』
 3月16日から23日までの8日間にわたって京都、滋賀、大阪の琵琶湖・淀川流域において開催された第3回世界水フォーラムは、盛会のうちに幕を閉じ、100以上の新しい約束が示された。フォーラムには、182の国・地域から24,000人以上が参加したが、これは当初予想されていた8,000人という参加者数の3倍にも及ぶものであった。
 第3回世界水フォーラムでは、適切な水供給や健康と衛生の改善といった人間が生活するのに必要な水と、食料生産、交通、エネルギー、環境に必要とされる水のバランスをいかにとっていくかについて、38のテーマ、5つの地域に関わる351の分科会で議論が展開された。またほとんどの国において、より効率的なガバナンス、能力の向上、適切な資金調達が必要であるということが確認された。」
 フォーラムでは討議した結果について暫定声明文が出されましたが、その中に次のような文章がありました。翻訳文のせいか、あるいは利害の対立する意見を集約したせいかパンチの効かない文章になっていますがご参考のために載せておきます。
 「すべての人に安全で衛生的な水を
 科学技術の進展による水の利用の効率化と先進的需要管理の改善が不可欠である。しかしながら、大半の開発途上地域およびとりわけ都市では水の需要が増大しており、このような現状に対処するには、それだけでは充分とは言えないだろう。影響を受ける人々も皆便益を受けることを確保した上で、地下水の涵養やダムの利用による貯水の増大を含め、利用可能な水供給を増加させるためのあらゆる選択肢を検討することが必要である。世界ダム委員会の勧告(2002年)を参考にすることができる。過去に経験したような環境コストや社会コスト、リスクを避けるためには、優れた実践事例を幅広く採用することが求められる。
 過度の資源開発、無規制の都市および産業の廃棄物、産業汚染、農業集約化、地球気候の変動は、地表水や帯水層の広範に及ぶ水質悪化を引き起こしてきた。これらの要因は、洪水をはじめとする災害に対する脆弱性の増大と相まって、社会および経済の発展、貧困緩和および環境の持続可能性を阻む結果となる。」

千葉県生涯大学歩こう会
 千葉県生涯大学2年生になった今年の4月、生涯大学の歩こう会に加入しました。生涯大学江戸川台校舎は、60歳以上の高齢者が福祉科、生活科、陶芸科などにわかれて週1回勉強する学校ですが、学習以外にいろいろな同好会やサークルもあって趣味や交流を楽しんでいます。1年生の時は都合で同好会やサークルには参加していなかったのですが、今年からウォーキングを楽しむ歩こう会に入りました。OBを含めると会員数約320人の最大の同好会です。
 4月19日(土)、今年度最初の例会は「古都『鎌倉』の往時をしのびながらの散策」でした。鎌倉駅近くの寿福寺に集合し、英勝寺、浄光明寺、海蔵寺を廻り、化粧坂切通しを登って、源氏山公園に出、銭洗弁天から佐助稲荷神社を経て鎌倉駅に出るというコースです。家を出たのが午前7時、午前9時50分に集合、出発は10時、午後2時10分には鎌倉駅に戻りました。電車に乗っている時間が一番長く、その次は参拝や休憩や昼食やビールを飲んでいる時間、歩いている時間が一番短いという大変楽なウォーキングでした。3月の水ウォークの後遺症で左足の第2指のつめははがれたままでしたが、約6キロの短い行程のため全く影響はありませんでした。
 総勢104名、全員が60歳以上で、杖を突いている方やかなり高齢の方も多いため、たっぷり休憩時間のある、よく考えたコースでした。事前の下見や、出発前の注意や、要所要所での適切な助言など、幹事の皆さんのご苦労がしのばれます。狭い道での車の往来には世話役から「気をつけて」の声が飛びます。今回は雨で1週間延期になったため参加者が少なかったとのこと、いつもは180人くらいのグループになるのでもっと気を使うようです。
 八重桜やしだれ桜が満開、つつじや山吹やつばきがきれいでした。若葉の緑が目に染みます。静かな高級住宅地に100人あまりの集団が行くのはちょっと申し訳ない気がします。土曜日なので結構観光客が出ていましたが、我が歩こう会が一番の大部隊でした。
 鎌倉は京都とはスケールが違いますが由緒あるお寺や神社が数多くあります。作家や芸術家などが住んでいた昔からの住宅地もあります。ところが鎌倉という場所が狭いためと東京に近いためか以前は山だったところまで目一杯開発が進んでいる感じす。こんなところにまでという場所に住宅地が開けていますが、道路は昔のままが多いようです。住宅は素晴らしい建築ばかりでしたが、道を広くするところまではできなかったのでしょう。そして狭い道に住民の車だけでなく観光客の車が入り込んでいます。車に乗っている人からは、ウォーキングの集団は邪魔だったと思いますが、歩いている私達は「なんでこんなに車が多いの」と感じました。立場が違うと勝手な感じ方をするものです。
 歩くという意味ではやや燃焼不足の歩こう会でしたが、景色を楽しみながら周りをゆっくり見る余裕が持てました。また大勢の顔見知りの人と一緒に歩く気安さや楽しさもあります。歩こう会にはそれなりの楽しみ方があると思いました。

特別寄稿
ラジオと私                             

吉倉隆三     

 小学4年の頃、夏休みの宿題で鉱石ラジオを出品し賞をもらってから、ラジオ技術に興味をもちはじめました。その後、真空管による三球式ラジオを作り、スピーカーより第一声が飛び出したときの感激は今でも忘れ得ない想い出になっています。その頃、一般家庭用ラジオとして幅をきかせていた受信機は、三、四球式の再生検波ストレート受信機でした。昭和14年頃、旅先で乗ったタクシーにラジオ受信機が搭載されていたのには驚きの目を見張ったものです。
 太平洋戦争が始まり、金属類が軍需用資材として回収、寺院の釣鐘、町の銅像などの姿が消えたのもこの頃でした。戦果がおもわしくなく敗色をみせはじめた頃、サイパン島がアメリカ側に陥ち、「超・空の要塞」と呼ばれたB29による本土空襲が始まったのです。一般家庭では、その情報を得るためにこぞってラジオを購入したものです。そして、今も忘れ得ない昭和20年8月2日未明、B29大編隊による猛爆で、富山市内も焦土と化したのです。もちろん私の家も焼けてしまいました。私達は荒れ狂う炎の中で逃げまどうか、虫ケラのように焼き殺されるしかなかったのです。B29は、まさに「恐怖の火の鳥」でした。
 やっとのことで終戦を迎え、8月15日、玉音放送を疎開先のラジオできいたのですが、真空管の寿命がつきる寸前だったせいかよく聞こえませんでした。そして食糧難、インフレの波、焦土と化した国土、このような世相のなかで私達を慰めてくれたのはラジオから流れてくる音楽でした。ラジオもスーパーヘテロダイン方式に切替えるべく私も勉強したのは、この頃でした。昭和26年朝鮮動乱が終った頃から日本経済もどうやら安定するわけですが、民間放送の開局と同時にブームになったのは、私達マニアの手作りラジオでした。私も知人から依頼されて多数のラジオを製作し、喜ばれたものです。そしてテレビ放送の開局、トランジスターの開発から、IC、LSI等に進歩発展し、パソコン、携帯電話等々益々時代も変わって行きます。
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