日本アイ・ビー・エムの元同僚で手賀沼通信の読者の岩合さんから貴重な体験記「四国八十八ヶ所歩き遍路」をいただきました。珠玉の一編です。
 四国八十八ヶ所は全長1200キロとも1400キロとも言われており、歩いて廻ると40日から50日かかるのが普通です。それを岩合さんは35日で廻られました。素晴らしい健脚です。
 私も歩き遍路をしたいと思い、いろいろ資料や地図を集めたりしていますがいまだ実現しておりません。 この体験記を参考にぜひ結願したいと念じております。

特別寄稿
四国八十八ケ所歩き遍路

岩合 高     

 "遍路とはただ歩くのみ。行と―――――"という書き物を遍路中に何処かで見た。只管打座という座禅の言葉があるが歩き遍路は只管打歩という言葉にしたい気持。本当に来る日も来る日も一日中ただ歩くのみ。マイペースの速度で一歩一歩毎日目指す寺に向かってただ歩く。空海が修行したという四国の88のお寺回り、全コースの距離は1200km前後と言われている。

 以前より一度は四国88ケ所をスポーツ感覚だが歩いて回ることに関心を持っていた。有言実行とばかり周りの人に言ってきて、また会社の同期の親友が逆縁で母親が自分の為に取っておいた88ケ所の朱印を押した白衣を親友に着せたので自分の死装束の白衣が無くなった話を聞き、その88ケ所の朱印を押した白衣を完成させるべく出発を決断。5月8日の8時50分大阪を出発。10時40分鳴門着。約2時間半かけ一番札所霊山寺迄歩き、菅笠と金剛杖を買い足しお参りと昼食を済ませ13時40分二番札所へ向かって残り87の寺の通しの順打ち(札所番号順に一気に88寺をお参りすること。八十八番札所から回るのは逆打ち、また県毎に回る一国打ち等各人の都合で分けて回っているケースは多々あるようだ。)で修行の旅をスタートした。
 服装は"南無大師遍照金剛"と背中に入った白衣、菅笠、金剛杖、輪袈裟、後は小生自身の物。持ち物は108の玉のついた数珠、納札(自分の住所氏名年齢願い事等を書き寺の納札箱に入れる)、賽銭用の10円玉(これは常に意識して用意する)、般若心経、地図、寺間の距離の分かるガイドブックを持つ。荷物は最低限にした積もりだがそれでも7,5kgあった。(愛媛新聞主催の遍路セミナーでは4kg以内に押えるようにガイドしているとのこと)3組の着替えと雨具、後は胃薬、足に豆とか出来た時の対応物とかである。
 出発前一応一日30km前後を目途に行程を15日分位計画したが現実にはどうなるか分からないので計画を立てるのを止め、取り敢えず3日分だけの旅館を予約し出発した。最初は自分のペースが掴めず少し控え目の距離にした為旅館に早く着きすぎたりした。自分のペースが分かってからは3日分の旅館の予約ストックを持たず、前日か当日の午前中に予約するようにした(比較的閑散時の為可能だった)。毎日の生活は5時半頃起床、朝食後、6時半か7時には歩き始める。当日のコースの距離の長い時は5時半出発などの例外は数回あった。ペースが掴めてからは午前中は時速5km、午後は時速4.5km位を想定し歩いた。午後3時か4時には宿に入り、先ず洗濯、風呂、翌日の計画を立て、午後6時には夕食、日記をつけて8時半か9時には就寝。普段は考えられない生活。本当に歩きと合わせて小生にとっては修行の生活。昼間目いっぱい汗をかいて風呂上りのビールは本当にうまいが余り飲むと翌日に差し支えるので抑える。なまじ飲める体質の為これが結構ストレスになった。道中2度親類で思い切り飲んで翌日8時出発をしたがこれがストレスの解消に役だった。自販機の冷たいものを連続して取り過ぎ一度だけ下痢をしたのが唯一の内科的病気だった。下痢止めと調整剤で事なきを得た。外科的には当初両足の親指の爪が死んだような状態とやはり両足の薬指の感覚が無い状態になったが痛くもなかったのでそのままにし問題は無かった。しかし最初の軽登山靴を高知県の中村で別の靴に履き替えたが、この靴に慣れるまでは数回豆を作った。毎日足の何処かに違和感は有るのだが歩いているうちに無くなってしまうという連続。ただ風呂での足のマッサージと冷水掛けは毎日必ずやった。
 小生の寺での手順は先ず本堂でローソクを立て線香を焚き、納札を箱に入れ、賽銭を入れ数珠を持ちお参りをして、般若心経をとなえる。そして同じ事を太子堂で行う。
 正式には本堂(寺により本尊が薬師如来とか大日如来とか異なる)でそれぞれのご詠歌を唱え、また他にもあるようだがそれらは省略した。このことの88回x2の繰り返しだった。
 結構毎日の歩きの為にいろいろの欲望を抑えた生活で、歩きながらふといつも何気なく生活して当たり前のようにやっていることは本当は幸せな事なんだと考えさせられた。

 歩く道は目的の寺に向かってどの道を歩こうと自由だが、小生は空海の頃からの遍路道を最優先した。それは車道よりも距離が短く時間の節約になるからだ。それでも比較的新しい車道(バイパス)、それが出来るまでの旧道も結構多かった。昔ながらの山の中の遍路道は時代と共に少なくなってきた様だ。割合は分からないが新しい車道が一番長かった印象がある。ただし明らかにトンネルを通りたくないだけの峠の山道は距離と時間を考えてトンネルを利用した。道順はガイドブックと遍路宿での情報交換(中にはお四国病と言って2、3年経つとまた歩きたくなるらしく2回目以上の人も結構多い)と宿の主人の情報を参考にし、後は歩いている時に出会った人に聞いた。99%の人は親切に教えてくれた。こちらが聞かずともうろうろしているとわざわざ自転車を降りて教えてくれる人、追いかけてきて間違いを指摘してくれる人等本当に親切だった。道標は遍路道保存協力会の遍路マークの付いたものを優先し、"四国の道"(東海遊歩道等の四国版)の石標の案内を参考にした。一番役立った遍路道保存協力会のマークは多分ボランテイアで山道は比較的多かったが場所によっては印刷が消えていたり、枚数が少なかったり、少し大きな町に来ると全く無かったりとキチンとした所との差が大きかった。廃道になった所(小生はそこを通ったが)にも遍路マークがあったりで維持、保守の大変さを思わせた。一体何人の人達に道を教わったか本当に嫌がらず教えて頂き感謝感謝の毎日。お参りの時には必ずお礼と代参をさせて頂いた。車道を歩く時は歩道があれば歩道、歩道が無ければ対面交通で歩いた。トンネルは歩道の有無に拘らず、左側を歩くと後ろから来た大型の車の風に煽られて車長の長い車には巻き込まれそうな感覚になる。だから対面交通にし白いタオルと菅笠を目立つように持った。菅笠は被ると車の風に煽られ飛ばされそうになるので必ず手に持った。対面交通だと自分の目で確認出来、壁にへばりついたり、それなりの対応が取れるからだ。また旅館や寺等で道を聞くと必ず山道も車道も時間は同じですよとの返事が返るが、これは山に余り登ったことの無い人々を頭においた返事であり、山登りをする人にとっては、はるかに山道が時間と距離の両方を稼ぐ事ができる。山道とは言え四国の低山標高1000m以上のところに寺は無い。登る時間は数ケ所を除いて1時間以内が殆どである。

 小生にとっては海岸線の道は変化があり退屈はしなかった。太平洋の荒波、瀬戸内の静かな島と海の景色、南伊予の落ち着いた海はそれぞれに特徴を持ち歩いていて救われるような感じを持った。太平洋の少し風の強い日の海は波も高く岩に砕ける様は豪快で素晴らしかった。しかし山の中の車道は変化が無くきつかったそんな時は出来るだけ遠くの景色を見、時間も見ないようにし俳句を考えたりしながら歩いた。
 ある時何気無く鏡を見ながらふと気付いたがいつもより鼻毛の延びが早い気がした。多分車道を歩いた為と思う。人間の体とは良くしたものだと感じ入った。
 徳島、高知を終え愛媛県に入った頃から何故か嫌気を感じる事が多くなった。愛媛ナンバーの車を見たくないような気分にさえなった。帰ってから何かで読んだのだが同じ状況になる人が結構多く中だるみ現象との事。山の車道で景色に変化が無くかつ2日間終日雨に降られ、寺の場所、旅館の場所で行程の取りずらい所のせいに思っていたが、あれは中だるみ現象だったのだと納得した。しかし瀬戸内海の見える所に出てきてからはその気分も無くなった。
 一番きつく歩き疲れたのは風の強い雨の降る山の中の車道でそんな時はもうどうにでもしてくれとの気になると同時に、なんでこんな事をしてるのだろうという気持になった。台風の時など休めばとも考えたが宿にいてもテレビか酒になる。必ず後悔すると思い、少しでも進もう行ける所までという気持で歩いた。休むと時は経つが距離は稼ぐ事が出来ない。結果的には雨の時も風の時もいつもと同じだけ歩いた。雨風等のつらい時は一番悪かった時よりましだと比べながら自分を励ましたものだった。
 
 比較的旅館の空いている時期だったが、前日か当日に旅館予約をするようにした後1回だけ困った事があった。四十五番岩屋寺を終え、丁度台風4号の影響の雨の中で歩き疲れて今日は早めに止めようと数件の民宿にtelするも一杯で、止むを得ず少し距離のある比較的大きな久万町まで出ざるを得なかった事があった(後で分かった事だが愛媛県の高校総体が開催中の為だった)。やっと見つかった久万町まで約3時間とのこと、疲れていたのにそんなことはどこかに吹っ飛んでしまい、午後2時半から雨の中、山道を走り降りた。ついでに四十四番大宝寺を打ち(この時のみ道順の関係で逆打ち)宿に着いたのは5時半頃。後で火事場の馬鹿力みたいなものを自分に感じた。自分のペースも分かり1日の距離を35km前後に設定、それに該当する近辺の町に旅館を探し予約する。これがなかなかうまくゆかず、目的地に旅館が無く行程が30kmになったり40kmを超えたりすることも数回あった。またお寺の位置関係も一緒に考える必要がある。四十四番札所、四十五番札所の回り方はうまく行かないともう一泊するとかの時間のロスをが起こる。六十番横峰時、六十六番雲辺寺等、山の中のお寺は前後の宿泊場所と自分の体力を考えて、宿の場所の関係で前日は午後2時には終えざるを得ないとかの事が起こる。早く着き過ぎてもっと行けたのに等と後悔した事が数回あり、最初は自分に腹を立てたり、ガイドブックに腹を立てたりしたが段々腹が立たなくなってきた。この為だけでは無いが四国から帰った後、いつまで続くか分からないが、家に帰って頭では思っても表に出して怒ることは少なくなった。以前経験者から"あるがままを良しとする"という話を聞いた。分かる気がする。
 旅館だけでなく昼食にも気を使う必要がある。小さな田舎の集落また国道と雖も食堂、自販機さえ数10kmの間無いことさえある。ましてや山の中は当たり前。その為にいつもクラッカーを予備食として持ち歩いた。昼食がクラッカーと水のみと言うことも10回位はあったように思う。このためだけでは無いが毎日の8時間前後の歩きで足の筋肉も付き体重も4kg程落ちた。
旅館の食事中の会話で中には歩くことが楽しいという人もいたが小生にとっては決して楽しいものでは無かった。修行の反動から帰ってからの3日間は酒を思い切り飲み、当たり前に出来ることの幸せを目一杯味わい修行の足りなさを感じた次第。

 菅笠、金剛杖、白衣、輪袈裟、背中のザック等の姿で歩き遍路と分かり対応してくれる。その対応にお接待というのがある。自分がお参りに行けないので代参をして下さいという意味をこめて、現金や菓子、飲み物、その他を呼びとめて渡される。お接待を受けたら拒否はしないのが原則の様だ。接待所が通り道にありお茶やトマトを頂いたこともあった。お接待しますという看板は数多く見かけた。接待を受けた時は自分の住所、氏名を書いた納札を名刺代わりに渡しお返しする。バイクを停めてわざわざ200円をくれたおばあさん、スーパーの前で500円くれた女性、道が分からずうろうろしていたら自転車を停めて道を教えてくれ、お接待しようと言って1000円くれてその方のお父さんの供養をと言ったおばさん、お役に立てて嬉しいと言ってテレフォンカードをくれたおばさん、戸惑いながら受け取ったが現金は計4000円程になった。寺では皆様の代参をさせて頂いた。お接待をしてくれるのは全部人生後半の女性で、男性の場合は道順など丁寧に教えてるが物のお接待は無かった。受けなかったお接待は車の同乗。寺への坂道と、雨の中とで誘われたが歩きが目的の為丁寧にお礼を言って断った。お接待とは異なるが道で会った方々からの励ましの言葉(頑張って下さい、お参りご苦労様です)、わざわざ車を停めて励まされたり、小学生から高校生までの挨拶等々一杯皆様に背中を押された。中には手を合わされた事もあった。本当に疲れている時に励まされると年甲斐もなく涙ぐむ時もあった。午後に速度の落ちた時に励まされるとその後の歩く速度が速くなることが何度もあった。ただ挨拶、励ましは県庁所在地の都会は殆ど無く、田舎に行く程多かった。徳島の田舎が一番関心が高かったように思う。
 背中を押されたのはお接待の人々、声を掛け励ましてくれた方々、道を教えてくれた方々、挨拶を交わした子供達、電話してくれた知人、家の者、途中で泊まった親戚、自分も経験してみたいと三つの寺を一緒に歩いた知人、宿の方々、時々出会い顔見知りになったお遍路仲間等々本当に沢山の人々に背中を押された。これが無ければ成功は無かったと思う。人間ばかりでなくいろいろな花々(特に各々が別の山の上にあり、連続した二十番鶴林寺と二十一番太龍寺で後者の山を登りきった所に有った薄桃色の石楠花は忘れられない)、景色、小鳥、蝶等にも背中を押された。また道中いつも鶯が鳴いており後半は鶯が鳴くと何かほっとするものを感じた。また六十六番雲辺寺の手前の民宿で泊まった時に見たホタルの飛び交う幻想的な光景は懐かしくもあり本当に癒された。

 今でもどうしてか分からないが般若心経を読んでいて涙が出てきたことが三度ある。しかもこの現象は小生一人ではないようで、宿の食事時の会話でそんな事を話した歩き遍路の人もいた。最初は十番切幡寺、次は四十九番浄土寺、最後は八十八番大窪寺、最後はやり遂げた達成感だが途中のは未だに何故か分からない。多分亡くなった友を思い出したり、雨の中を歩いた後でお世話になった人々の事等を思ったせいだと考えている。頑張っている自分にも涙したのかもしれない。自分でも帰ってからも何か涙もろくなったような気がする。

 まもなく終了の頃の宿の食事時八十八番を終えたらその足で家に帰ると話すと帰る楽しい家がある人は羨ましいと言われはっとした事があった。未だにその方の個人的な事は何も知らないが、回っている内に数人の歩き遍路と顔見知りになったが、皆何かを心に背負って歩いているのだろうと思い何故歩いているとかの会話はしたことは無い。一人だけ本人から話し出した事はあったが。
 そして我々と同年代の定年後の人も多いが50代の人、意外に多いのが30歳前後と思しき人達だった。話によると最近は女性も2割程いるそうだ。女性の一人歩きもいた。若い彼等は野宿を前提で歩いている人が殆どで、バスの停留所や遍路道に用意された宿泊所、寺、善根宿(好意で遍路を泊める民間の方)等に泊まりながら自炊用具、寝袋を担いで歩いていた。数日に1回旅館に泊まったり、温泉等で風呂に入っているとの事。それに比べれば毎日旅館に泊まっている小生は大名旅行の様なもの。
 皆何かを心に背負って歩く遍路装束をしているだけで仲間意識のような物をお互い感じすぐに会話や挨拶が出来る。それ自体が癒しの世界の様にも思える。

 旅館やビジネスホテル、民宿に34泊したがホテルは別にして本当に気持を分かってくれて対応するところは3軒か4軒だった。何も言わなくても心のこもったサービス、対応をしてくれる所は心が伝わって来るものだ。他は旅館側ペースで泊めてやっているという感じが多い。しかも襖一枚で隣の部屋というところが結構気を使う。大切なのは相手を慮る心が伝わって来ることなのだが今の現状ではなかなか難しい事に思える。
 またこれと同じ事を寺に感じた。お参りする人の気持と寺側の対応のギャップである。88の寺の納経所に行って朱印を押して金を払うが、ここは全くビジネスの世界で寺側の気持が伝わって来ないことが実に多い。お参りご苦労様ですの気持の伝わってくる寺は四分の一位。後は機械的に判を押して書くこれの繰り返し作業という感。例えば八十八番最後の寺で道中壊れた菅笠を捨てるに捨てられず最後まで持ってきて、杖と一緒に奉納しようとしたが寺の対応が余りに素っ気無く一緒に35日間も苦労してきたのにこんな所で奉納できるかと思い杖は持ち帰った。また未だお参りの人がいるにも拘らずバケツにお賽銭を集めて運ぶのに出会ったことさえある。そんな心の無い思いをした寺は多々あった。逆に四十七番浄瑠璃寺では雨の中だったが、寺の奥さんのお茶とお菓子のお接待が心伝わり嬉しかった事を覚えている。寺の住職の前提資格として歩き遍路を経験する事などと言う人もいた。
 四国周りの団体も多い。土日の納経所は混雑することがあった。参加者は年配の女性が70%位を占めているように思える。団体には納経所専門の係がいて参加者の納経帳等を大きなカバンに入れて納経所に持ち込む様子はまるでスタンプラリーを思わせた。余計に寺の納経所は機械になるのだろう。道中の最後の方には風に煽られ壊れた雨傘や菅笠等一緒に回った仲間との思いがありなかなか棄てられなかったが最後まで持ち歩き傘等に礼を言って棄てた。

 そして八十八番大窪寺を6月11日13時30分打ち終え35日間の通しの順打ちの修行の旅を終えた。

 さて当文章の冒頭部の"遍路とはただ歩くのみ。行と―――――"の後半部は忘れたが、自分ならどうだろうと考えてみた。"人の情、優しさ、当たり前のことを当たり前に出来る幸せ、相手の事を思う心は伝わるもの"と入れたいと考えている最近です。

 出来の良し悪しは分からないが歩きながら作った俳句で最後を締めくくりたいと思う。
"四万十の蝶の導く堤かな"
"うぐいすがいつも励ます山遍路"
"静寂にここぞとばかりホトトギス"
"山つつじ緑の香り遍路道"
"爽やかな風の広がる田んぼ道"
"遍路宿ホタル飛び交い旅忘れ"
"うぐいすと友達になる遍路道"
"蝶の舞う磯の香りの懐かしく"
inserted by FC2 system