今月はいつもと違ってちょっとアカデミックな「考古学」と単なるスポーツの出来事から社会現象になった感じのある「阪神タイガースの優勝」と義理の娘が企画し一家で手伝った「琴のコンサート」について紹介させていただきます。
 「弥生時代、始まりの疑問」は以前一緒にテニスを楽しんだ仲間で手賀沼通信の読者の大山さんがお寄せくださいました。大山さんは退職されたあと千葉県の茂原に土地を求めて転居し、野菜や果物作りや田園生活を楽しまれています。

特別寄稿
「弥生時代、始まりの疑問」

大山 清     

 皆様ご存知のように、先日「弥生時代の始まる時期が500年遡る」という発表が国立歴史民俗博物館からありました。
 この発表に驚き、明治大学考古学研究室主催の意見交換会(7月4日)及び国立歴史民俗博物館主催の講演会(7月5日)に参加し、話を聞いてまいりました。また、NHKテレビの放送(7月7日)も見ました。私は考古学のことも、科学のことも全くの素人で、話を聞いても十分わかったとは言えませんが、私なりに聞いたことをまとめて見ました。

1.考古学の立場での時代測定
 元来、考古学では「相対年代」で表されていました。「相対年代」は2つ以上の遺物・遺構・遺跡間の時間的新旧関係を示しており、即ち、土の中に埋まっている遺物等で深いところから出土する物ほど古いものとして年代を決め、土器編年が作られました。土器編年は一つの形式で一人の人間が製作できる期間を30〜50年で計算し、どれだけ古いかを見ています。ここには又、製作から副葬までの時間幅を任意に見積もっています。一方、年号の表示している遺物、例えば「秦始皇25年(前222年)」在名の銅戈(出土状況が不明のため年代的定点としては不適との説もある)等や火山灰層、舶載文物(現代の国名の中国や韓国)等で暦年代を測定しています。そして、現在では「放射性炭素年代測定」(別途後記2で説明)や「年輪年代測定」も使われています。
 現在の弥生時代の暦年代については、細型銅剣の流入が始まる時期を弥生前期末の年代とし、「秦始皇25年(前222年)」から50年遅れた時期、前170年ころに当ててあります。そして、それより以前の土器が6種類あるので30年を乗じて、暦年代の弥生時代の始まりは紀元前400〜300年頃としたのだそうです。
 その結果、現在の弥生時代暦年代は概ね以下のように考えられています。
  弥生早期〜前期初  紀元前400〜300年頃
  弥生前期末     紀元前200〜170年頃
  弥生中期末     紀元後   1〜 50年頃
  弥生後期末     紀元後    250年頃
 こう見てくると、考古学上の暦年代測定はあまりはっきりした根拠もなく決められたようですが、現在はこれにより理論立てているようです。

2.科学的測定法
 先日発表になった「弥生時代は500年遡る」という測定をしたのは、加速器質量分析法AMSを用いた放射年代測定に基づくものです。
 放射年代測定法はC−14の半減期を調べることにより時代測定をするもので、半減期は5730±40年の放射性同位元素です。C−14の量を求める方法は、C−14が壊変して放出される放射線を測定する方法と、C−14の数をそのまま測定する方法とがあり、1980年代に導入されました。前者を利用した方法は数mgの炭素が必要で4万年程度の測定が可能ですが、後者の場合は1mg程度で検出限界も5万年以上にまで遡ることができます。これは科学的に測定するものですが、C−14の濃度は一定であることを前提に求められます。しかし、実際には濃度が経年変化しているそうです。たとえば、6〜7千年前の大気中の濃度は約80%も高かったと推測されています。更に、局所的に平衡になっていないこともあるようです。たとえば、海洋深層水のような古い海水が涌き出ている場所や石灰岩の溶け出しがあるような河川等では、C−14の平衡に乱れが生ずる影響があり、付近の貝や貝を食べる動物等の測定には注意が必要とのことです。また、それ以前に考えなければならないのは、測定誤差が生じることです。したがって、多くの資料を調査することにより、精度を高める必要があります。 この科学的測定法も絶対確実とは言えないようです。
 考古学的な年代測定には、この科学的測定も行われており、以前は前者が使われていましたが、近年の考古遺物の年代測定には加速器質量分析法(AMS法)を用いることが多くなってきているようです。
 今回の歴史民族博物館の調査はこの加速器質量分析法を用い、土器の外面の黒くこげた煤を使って測定したものです。それによりますと、紀元前900年頃になったというのです。しかし、まだ作業中でもあり、また資料も少なく、確定的なことは言えないということでした。
 今回の研究主任者は総合研究大学院大学併任、国立歴史民俗博物館情報資料研究部教授の今村峯雄氏で、今までの経歴はAMS法専門にやってきた人で、考古学関係にはあまり関わってこなかったようです。したがって特別な拘りもなく、出た結果をそのまま発表したようです。でもこれには歴史民族博物館考古研究部の春成秀彌氏が関わっており、春成氏は戸惑いを見せていた感じです。

3.結果
 この結果、都合の良いことは稲作の伝来した時期が前900年頃となり、朝鮮半島に伝来してからあまり年数を開けずに日本(当時は日本という国はなかったが)の九州に伝来し、徐々に東日本に広がっていたことになる(いままでは朝鮮半島から日本に伝来したのが500年も遅れ、且つあまり年数をおかずに国内に広まったことになっている。それで、最近では縄文時代に伝来し、本格的にはじまったのは弥生時代だとの説が有力になってきている)。非常に説明がしやすくなりましたが、一方、今回の調査資料で使った板付遺跡資料には松菊里型遼寧式銅剣再加工品が共伴しており、遼寧式銅剣の成立年代と近すぎるという問題が出てきています。
 こんなことで、考古学サイドの受け止め方は、@拒絶的反応 A肯定的支持 B静観派 とわかれているようですが、静観派が一番多いようです。
 いずれにしろ、すぐ結論が出るものではなく、資料も増やし確実なものにしてから結論を出すべきでしょう。論文や教科書の変更は全部の整合性が確認されてからでも遅くはないことでしょう。考古学会は捏造問題で大変な苦労をし、信用も失いました。捏造では、それを基準に時代測定をしているものもあるようです。まだまだ影響が出るようです。この研究成果も捏造の二の舞にならぬよう慎重に結論を出してもらいたいものです。

阪神タイガース優勝おめでとう

1.18年ぶりのリーグ優勝
 9月16日(月)ついに阪神がセ・リーグ優勝をはたしました。広島相手に劇的なさよならゲーム。ヤクルトが横浜に負けて18年ぶりの優勝でした。最後は5連敗して、ファンを大分やきもきさせましたが、地元の甲子園に戻って、大阪のファンの前での星野監督の胴上げとなりました。優勝の決まった日、NHKの衛星放送で見ていましたが、インタビューで星野監督の「あ〜しんどかった」という言葉が真に迫っていました。でも2位とのゲーム差を考えると優勝は間違いなく、毎日ファンに「今日こそは」とその時を期待させたのは、あまり早く優勝を決めてしまうより、かえってファンサービスになったのではないでしょうか。
 全国のタイガースファンの喜びようがそれを表していたと思います。大阪・ミナミの戎橋からは5300人以上のトラキチが道頓堀川に飛びこみました。そして死者まで出してしまいました。ロンドンや上海やパリでもタイガースファンが集まって「六甲おろし」の大合唱があったそうです。
 9月17日にはお堅い日経新聞が3ページにわたって「阪神V特集」を組んでいました。日経新聞らしく、わずか2年で「負け犬根性」の染み付いていたタイガースを見事優勝に導いた星野監督を、江戸時代中期に他藩からの養子でありながら米沢藩を立て直した上杉鷹山にダブらせていました。また星野監督は球界のゴーンではないかと、日産自動車のカルロス・ゴーン社長との共通点を挙げています。そして阪神優勝の経済効果を、識者の意見として近畿圏で1479億円、全国で最大6355億円と紹介していました。
 阪神が前回優勝したのは18年前の1985年(昭和60年)でした。日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落した年です。バブル時代の真っ盛り、1人8万円の豪華ディナーに人々が群がり、キャバクラが大繁盛、「科学万博−つくば85」が開催され、エイズが初めて日本に上陸した年でもありました。
 昭和60年10月16日ヤクルトと引き分けたタイガースは21年ぶりに優勝を決めました。監督は吉田義男、3番バース、4番掛布、5番岡田の新ダイナマイト打線が打ちまくりました。バースは3冠王になってMVPを獲得しました。日本シリーズでは広岡監督率いる西武を4勝2敗で破って日本一になりました。
 この時も21年ぶりの優勝とあって大阪は大騒ぎでした。戎橋からは数人が道頓堀川に飛びこみ、バースに似ていたケンタッキーフライドチキンの人形が胴上げされて川に投げ込まれました。しかし今年の優勝の注目度はそのときに比べると大違いです。前回は地方版の大騒ぎでしたが、今年は全国版のお祭り騒ぎです。
 阪神タイガース公式ホームページに、和田豊打撃コーチが書いている「虎の意地」というページがあります。コーチの目から見た選手の活躍や自分の心境を日記風に綴ったものです。優勝決めた9月15日は「『夢』そして・・・『虎の意地』」はパート3までありいつもの3倍の内容でした。
 コーチといえば和田コーチは私の家から歩いて5分の我孫子高校出身で我孫子高校が初めて甲子園に行ったときのメンバーでした。また西本聖投手コーチは私のふるさとの松山商業出身で、江川とともにジャイアンツのエースでした。2人とも選手時代からの大ファンです。和田コーチが何時間もかかってパソコンに向っている姿を想像すると愉快になります。2人のためにも今年の優勝を祝いたいと思います。
 私は巨人ファンですが、ライバルの阪神も好きです。長嶋対村山、王対江夏等数々の名勝負にいつも酔っていました。その阪神が元気を失ってからは野球が以前ほど面白くなくなりました。その阪神が戻ってきたのです。本当に優勝おめでとう。今年のジャイアンツは戦う集団ではなくなっていますが、来年には立ち直ってタイガースと再び熱い戦いを繰りひろげて欲しいと願っています。

2.タイガースの苦難の記録
 ここで今までのタイガースの苦難の歴史を振り返ってみましょう。
 タイガースはジャイアンツと同様大変歴史の古いチームです。1936年にプロ野球が誕生して以来、1リーグ時代は選手権を15回争いましたが、ジャイアンツが9回、タイガースが4回、ホークスが2回優勝しています。タイガースとジャイアンツはいつも競り合っていました。
 ところが2リーグに分かれてからは、昨年まで53年間にジャイアンツがリーグ優勝30回、日本一20回に対して、タイガースはリーグ優勝3回、日本一は1回です。ジャイアンツが1.8年に1回優勝しているのに対して、タイガースは18年に一度しか優勝できないでいるのです。53年間のリーグ優勝の回数は広島とヤクルトが6回ずつ、中日が5回です。阪神より下は横浜(大洋)の2回だけです。
 1985年の前回の優勝以後も、リーグ優勝は巨人7回、ヤクルト5回、中日と広島が各2回、横浜が1回と、セリーグの他の球団は全て優勝を経験していました。しかも阪神はこの17年間に、Bクラスが15回、そのうち10回は最下位でした。今年の優勝にタイガースファンが狂喜するのもうなずけます。
 なぜタイガースは苦難の道を歩いたのでしょうか。私の独断と偏見を述べたいと思います。もし間違っていたらお許しください。
 苦戦した第1の理由は監督が変わりすぎたことです。2リーグ制になってから昨年までの53年間に25代19人の監督が生まれています。同じ監督が再登場しているため、代と人は合いません。つまり平均すると1代の監督は2.1年しかもたなかったのです。しかもシーズン途中で監督が変わった年が5回もありました。一番長かったのは、第19代の中村勝広監督の5年半、続いて第1代目の松木謙治郎監督の5年、3番目は第6代目の藤本定義監督の4年半です。藤本監督のときに2度優勝しています。その後の優勝が今から18年前の吉田監督の時でした。19人の監督がいたのに優勝監督は今年の星野監督を含めてわずか3人です。
 これにたいしジャイアンツの場合は53年間で8代6人の監督です。在任期間も川上監督の14年、水原監督の11年、第2期長島監督の9年と長期政権が多いのです。チーム作りや選手の育成を考えると、監督がくるくる変わるのは大問題です。
 第2の理由はフロントの考え方がチーム作りや選手の育成をあまり考えなかったことです。阪神球団は弱くても観客が集まります。同じ大阪にあった、阪急(今のオリックス)、南海(今のダイエー)、近鉄などパ・リーグの球団は、いくら強くても球場にあまりお客さんを呼ぶことは出来ませんでした。その結果、阪急と南海は身売りしました。阪神のフロントは成績が悪いと監督の首を次々に変えました。安易な方法だからです。また、どんな名選手もフロントの都合でトレードに出されました。小山や田淵や江夏がその例です。球団にとって看板選手は貴重な財産という気がなかったのでしょう。逆に江本孟紀のように、「ベンチがあほやから野球をやってられへん」といって任意引退した選手もいました。ここでいうベンチは監督だけでなくフロントも指していました。
 ただ最近は変わったようです。星野監督を粘り強く説得して招いたのはフロントの力です。今年のチームの大リストラと大補強も星野監督だけでなくフロントの力もあったことと思います。逆に今年はペタジーニやペドラザに大金をつぎ込んだ巨人のフロントのお粗末さが目立ちました。
 苦戦の第3の理由は、選手の「負け犬根性」と「甘え」だったと思います。9月20日にNHKスペシャル「阪神を変えた男・星野仙一」という番組が放送されましたが、その中で星野監督がどうやって選手に勝負の厳しさと勝つことへの執念を植え付けたかを、監督自身やコーチや選手の言葉を引用して紹介していました。競争の少ない社会は活力を失います。タイガースのファンは、罵声を浴びせることもありますが、負けても負けてもタイガースを応援します。そのあたりがジャイアンツファンと違います。トラキチの声援の大きさに、負けても「しかたがないわ」とあきらめ、勝負へのこだわりを捨てていたのでしょう。
 この点も今年は変わりました。バース、掛布、岡田の3人の大砲がいた18年前と異なり、今岡、赤星、金本、桧山、アリアス、片岡、矢野などいずれも小粒です。ピッチャーも小山、村山、バッキーなどのいた藤本監督時代と違って絶対のエースはいません。いずれもつなぎ野球ですが、与えられた仕事をきっちりこなしています。タイガースの変身の前にはジャイアンツも簡単には巻き返せないのではないでしょうか。

「琴 どきどき らいぶ」コンサート

 9月7日(日)夜6時30分より、我孫子市のアビスタ(生涯学習センター)のホールで「琴 どきどき らいぶ Vol.6」と銘打った琴のコンサートを開催しました。演奏する曲に古典より新曲が多く、衣装も和服ではなくごくラフなシャツ姿で演奏するため従来のイメージの演奏会ではなく新しいスタイルのコンサートです。通常の琴以外に十七弦の琴と尺八が加わりました。
 出演したのは、NHK邦楽技能者育成会47期の同期生7名で20代と30代の女性です。今年の5月に結婚した長男の北海道出身の配偶者がそのメンバーの一人です。育成会には北海道から代々木のNHK放送センターまで毎週火曜日に1年間通い、10時から17時まで実技と理論を学んだのだそうです。そして昨年育成会を卒業したあと「音紡ぎ」を結成しました。北海道が2名、秋田県、茨城県、神奈川県、愛知県、千葉県と、それぞれ住んでいるところが違います。今までに各地で5回コンサートを開催、その度に遠方からかけつけました。
 今回は義娘の企画で我孫子で開催することになりました。金曜日に仕事が終わった後から集まり始め、土曜日と日曜日の昼間に練習をしました。当日幸いにもアビスタの午後予約がキャンセルになったので思いがけず本番で使うホールで合同練習が出来ました。
 尺八は我孫子市在住でプロの坂田粱山先生にゲスト出演いただきました。坂田先生はNHK邦楽技能者育成会30期卒業の先輩で、数々のコンクールで優勝され、国内、国外で活躍されておられます。
 私がこの会に関わったのはアビスタを私の名前で予約してからです。日曜日の午後を申し込んだのですが抽選で外れ、夜しか取れませんでした。会場は最大150人くらい入れます。家内が何人かの人にあたったら、「昼間なら」と言われました。主婦は夜は出にくいものです。
 そこで人集め作戦を開始しました。出演者が遠方から来るのにパラパラの観客では気の毒です。まずポスターから始めました。義娘の作ったチラシの原稿を拡大コピーして、アビスタ、市民プラザ、市民会館、近所のクリーニング店、ドラッグストア、ラーメン屋さんなどに貼らせてもらいました。チラシは120枚コピーし、招待券を90枚印刷しました。そして手賀沼通信読者や生涯大学や民謡の会などの友人で我孫子近辺の方に配りました。家内も友人やご近所の方にお渡ししました。「あびこ広報」にも載せてもらいました。
 当日50人も集まればよいほうと考えていたのですが、招待券の方が46人、当日チラシやポスターをみてこられた方が20人、前もって予定されていた方と合わせると約110人の方にご入場いただきました。大成功です。「音紡ぎ」始まって以来の観客数でした。
 出演者一同大喜びでした。肝心のコンサートの方も好評、多くの方から励ましやお礼のお言葉をいただきました。ご来場いただいた方、お花やご祝儀や贈り物をいただいた方に、紙面を借りて深くお礼申し上げます。ありがとうございました。

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