今月は「皇居参観」と投稿いただいた旅行記とエッセイを取り上げました。 初めての皇居参観 1.あけぼの会バス旅行
皇居の清掃に全国から奉仕団の人が集まります。当日も鹿児島や静岡などから来た人が清掃していました。友人の話では農協(JA)が企画する観光旅行とセットになったツアーがあるとのことでした。 2.参観までの諸手続
名簿の提出後は参観日時、人員等の変更は出来ません。代理で参加も出来ません。 持参した場合はその場で、郵送の場合は後日参加許可書が送られてきます。 あけぼの会は会長が直接宮内庁に出かけ参観許可証を貰ってこられました。 (2)インターネットを利用する場合 今年の4月から電話だけでなくインターネットによる申し込みが可能となりました。 アドレスは http://sankan.kunaicho.go.jp/ 上記のアドレスにアクセスして必要事項を入力します。手続完了後参観の許可が通知されます。 受付期間は参観希望日の前の月の1日午前5時から、希望日の7日前までです。
中国・雲南省・シーサンパンナからベトナム・サイゴンまで 鈴木康夫 1月末よりメコン河にそって、中国・雲南省から、ラオス、カンボジア、ベトナム・サイゴンまで19日間の旅行に行ってきました。 雲南省のシーサンパンナで夜に飲み屋にビールを呑みにいきました。蛙や、魚の空揚げとビールを飲んで一人140円でした。少数民族の少女が飲んでいる席で非常に上手なマッサージをしてくれます。10分で140円でした。 少数民族の家は、日本の古代の家と同じで高床式でした。既に、田圃には稲の苗が植えられていました。焼畑農業もみました。若い女性も畑で働いていました。 ラオスは素朴でなかなか面白いところでした。ラオスで小学校を訪問したら、3年生よりフランス語の授業をしていました。仏領時代から引き続きフランスの力の強さを見せつけられました。 ラオスの少数民族の村に行きました。人と牛、豚、鶏、犬が一緒に住んでいます。飼い主は餌をあたえないで、家畜は自分で餌をさがして食べるのです。
メコン河は広いので、橋がなくフェリーが所々にあります。生活が河で成り立っています。河で魚を取る。灌漑の水、交通の通路(道路の役目)等河でアメリカ輸出の為の「なまず」の養殖も見ました。 食事はどこでも、中国と同じで4人に肉料理、魚料理、野菜料理が一皿ずつでた。ほとんどは油炒めや、油であげた物でした。西欧人も平気で食べていました。 カンボジアのブノンベンではポルポト時代の収容所をみてきました。監禁室や凄い拷問道具や殺された人の写真を見てきました。
アンコール・ワットも良いですが、お勧めする所は「ラオス」です。 旅行会社はワールド航空で、旅費は45万円でした。 言葉のインベーダー 新田自然 言葉が乱れているといわれて久しい。いやそれは大昔より言われ続けていることなのかもしれない。言葉が生きていて、時代とともに変わり続けて、最初不自然だったものが話されているうち認知された言葉となってしまう、つまりそれが時代の変化の証左だという説もある。「全然」などという言葉は否定でなく肯定にも使われてあたりまえになってきた。だからあまり神経質になる必要はないなどという意見もあるが、私にはどうしても違和感があって、その言葉を聞くたびに、なんでこのようなときにこの言葉が使われねばならないか、引っかかって引っかかって仕方のない言葉がある。 それが「立ち上げる」という言葉である。たとえば一月十八日付けの朝日新聞の社説にこういう表現があった。 「・・・拉致被害者の家族の帰国は最優先に実現させなければならない課題だ。そのためには政府間の公式の協議を立ち上げる必要がある。・・・」 なぜこの場においてことさら「立ち上げる」という言葉を使わねばならないのか。朝日新聞は今年になってから社説にこの「立ち上げる」をすでに二度も使用している。「立ち上げる」が好きなマスコミはなにも朝日新聞だけでなく、他の新聞、雑誌、テレビ番組でもほぼ毎日のように読まされ聞かされている。だから「もういい加減にしてくれ」といいたくなるのだ。 辞書にはどう書かれているかを調べてみた。小学館の「大辞林」には「コンピューターでプログラムを起動させる(ワープロソフトを‥‥げる)」とある。三省堂の「新明解国語辞典」には記述さえなく、ようするに認知さえしていないのだ。載っていてもあくまでコンピューター用語としての解説しかないのである。 この「立ち上げる」という言葉は当初コンピューター技術者達の話し言葉として「コンピューターが立ち上がるのを待つ」といった使われ方をしていたのだろう。そして「コンピューターを立ち上がらせる」という使い方を、面倒くさくなって「立ち上げる」としたと想像できる。それらが「サイトを立ち上げる」「ホームページを立ち上げる」などに進化(?)し、さらに「企画書を立ちあげる」「プロジェクトを立ち上げる」となり、もうなんでも立ち上げてやれと言うこととなり「地域通貨を立ち上げる」「物作り教育を立ち上げる」なかには「水槽を立ち上げる」なんて使い方をするようになった。 よいではないか「リストラ」だって「バブル」だってある時から使われはじめ、一般用語として認知されたのだから、という意見もあるかもしれない。しかしちょっと待っていただきたい。この「立ち上げる」は自動詞の「立ち上がる」を他動詞化したもので「起き上がる」を「起きあげる」と言うか?「わき上がる」を「わき上げる」というか?。私には落ち着かない語感が残って仕方がないのである。たしかに「仕上がる」に対し「仕上げる」という言葉はある。それがよくてどうして「立ち上げる」がダメなのかと言う反論もある。 だから百歩譲ってコンピュータ用語に限って「立ち上げる」の使用を認めたとしても、なんで「公式協議を立ち上げねばならない」なのか?、どうして「地域通貨を立ち上げ」ねばならないのか?。そこまでジャーナリストの語彙が貧弱となってしまったのか。なんで「設立する」とか「開始する」とか「発足させる」とか言えないようになってしまったのか。ましてこのようなくだけた話し言葉を使って書けば流行に乗っていると思っているのだったら笑止千万である。 共同通信のデスクが調べたところによると1989年にはまったく使われていなかったのが、2000年には433件使われ、その後の別の調査によれば2002年にはなんと42300件におよぶという。こうなっては奔流のように使われ、もう押しとどめるなんてことはできず、なんでもかんでも「立ち上げる」事態となる。そのうち「家庭を立ち上げる」 「子供を立ち上げる」「料理を立ち上げる」「ビルを立ち上げる」となり、「建てる」なんて字は不要となり「オール立ち上げ」万歳となる。恐ろしい言葉のインベーダーである。 インターネットを使って「立ち上げる」をチェックしてみると、上記した使い方の溢れるなかに、いくつかの同意見の人たちがいて心を強くした次第である。著名人では金田一春彦先生、ジャーナリストでは読売新聞の橋本五郎氏などがすでに意見を出しているようである。まさかこの人達は「反対意見を立ち上げ」てはいまいが…。 (通信はワード97という古いもので作っていますが、バージョンが違う方から、2行はみ出し5ページになるという警告をいただきました。今後は2行ブランクで作ります) |