オリンピック回想記

 いよいよオリンピックが間近に迫りました。8月13日から29日までの17日間ギリシャのアテネで第28回オリンピックが開催されます。そこで今月は「戦後のオリンピック史」を紐解いてみたいと思います。手賀沼通信のいろいろなテーマの中で最も楽しく書けるのがスポーツについてです。今回も私の記憶を中心にまとめてみたいと思います。例によって私の思い入れが混じることをお許しください。
 記事のネタは記憶の外に、「知恵蔵」「JOCのホームページ」「Official website of OLIMPIC MOVEMENT」です。

1.戦前のオリンピック
 近代オリンピックはご存知の通り、フランスのクーベルタン男爵の提唱によって始まりました。第1回大会
は1896年、古代オリンピック発祥の地のギリシャのアテネで開催されました。日本が始めて参加したのはスウェーデンのストックホルムで開催された第5回大会で、派遣された選手はわずか2名でした。もちろんメダルはゼロでした。
 日本が初めて金メダルを取ったのは第9回オランダのアムステルダム大会でした。三段跳びの織田幹雄と200メートル平泳ぎの鶴田義行の2人です。戦前の大会は13回ありますが、内1回は第1次世界大戦で中止、2回は第2次世界大戦で中止されています。日本は第5回大会以後合計6回参加しています。

2.第15回ヘルシンキ大会(1952年)
 戦後のオリンピックは1948年にロンドン大会が行われましたが、敗戦国の日本は参加が認められず、終戦後7年たったヘルシンキ大会から参加することになりました。日航「もく星号」遭難事件や「血のメーデー事件」のあった年でした。  当時私は高校1年生、実況放送をラジオで聞いたのを覚えています。日本でテレビ放送が始まる1年前の年でした。実況放送はガーガー、ビービーと雑音が激しく、また時差が6時間あったので、とんでもない時間に何とかアナウンサーの声を聞き取ろうと、耳を凝らして聞き入った記憶があります。
 戦後数々の世界記録を出した「フジヤマのトビウオ戦後数々の世界記録を出した「フジヤマのトビウオ」古橋広之進が400メートル自由形に出場しましたが、とっくに最盛期を過ぎていたため8位と惨敗でした。もしその4年前のロンドン大会に出ていたら、全盛期のイアン・ソープのような大活躍が出来たことでしょう。4年に1度のオリンピックはその後も同じような悲劇を生んでいます。金メダルはレスリングの石井庄八ただ一人でした。

3.第16回メルボルン大会(1956年)
 メルボルン大会はオリンピックがヨーロッパおよびアメリカ以外で行われた初めての大会でした。それまではヨーロッパで10回、アメリカで2回と欧米に集中していました。馬術だけメルボルンでなくストックホルムで行われたのはヨーロッパへのこだわりがあったのかもしれません。
 メルボルン大会で印象的だったのはオーストラリア勢が水泳で大活躍したことです。それまでは水泳というとアメリカがナンバーワンでそれに次ぐのが日本でしたが、オーストラリアでの大会ということもあり、地元勢がアメリカをしのぐ勢いでした。男子はマレー・ローズが1500メートル自由形、400メートル自由形、800メートルリレーで金、女子ではドーン・フレーザーが100メートル自由形、400メートルリレーで金、400メートル自由形で銀でした。
 日本選手は金4、銀10、銅5の大活躍、体操で11(内女子1)、水泳で5、レスリングで3のメダルを取りました。水泳のホープ山中毅は惜しくも銀メダルとなりましたが1500メートルと400メートルでのマレー・ローズとのデッドヒートは今でもしっかりと覚えています。

4.第17回ローマ大会(1960年)
 1960年は私が大学を卒業して社会人になった年ですが、日本が揺れ動いた動乱の年でもありました。1月に日米新安保条約が締結され、5月に国会で承認されると安保反対の動きが全国的に広がり、デモ中に死亡した東大生の樺美智子さんの合同葬儀の6月15日には国会周辺を33万人がデモ、全国で620万人が参加する反対運動になりました。7月14日には岸首相が刺されて傷を負い、10月12日には浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺されました。その後日本は政治の季節が終わり、池田勇人総理の元で高度成長の時代に突入します。
 ローマ大会の印象が薄いのはそんなことがあったためでしょう。4つの金は全て体操男子、初めて団体優勝を果たしました。体操はさらに銀2、銅3と大活躍、水泳も銀3、銅2のメダルをとっています。体操の小野喬は一人で6つのメダルを獲得しました。

5.第18回東京大会(1964年)
 日本中が熱狂の渦に包まれたのが東京オリンピックです。日本のオリンピック関連の投資総額は7年間に1兆円を超えました。その8割は新幹線、高速道路、地下鉄などの交通網の整備に当てられました。東海道新幹線の開通は10月1日、オリンピックの開会式は10月10日でした。
 私は9月15日にそれまで勤めていた保険会社を退職し、10月15日に日本アイ・ビー・エムに入社しました。休みの1ヶ月の間になんとか開業日の新幹線の乗車とオリンピック開会式入場を果たしたいと、遅まきながらチケットの確保に奔走しましたが、新幹線は2日目にしか乗れず、開会式はテレビで見ることになってしまいました。
 10月10日は素晴らしい好天、355名の日本選手の軍隊式の堅苦しいながらも整然とした入場行進に胸を熱くしました。日本選手の活躍も見事で、金16、銀5、銅8で、金メダルの数はアメリカ、ソ連に次ぐ3位でした。重量挙げでは三宅義信が世界新記録で金メダル、レスリングでは5階級で金メダルでした。体操男子は前大会に次いで団体で優勝、個人総合は遠藤幸雄が金、鶴見修次が銀、種目別でも金と銀各3と、体操王国日本の面目躍如でした。新たに加わった柔道では、無差別級で神永昭夫がオランダのヘーシンクに敗れましたが、他の3階級は金でした。
 そして極めつけは女子バレーの「東洋の魔女」の活躍です。決勝戦で宿敵ソ連を熱戦の末倒し、見事優勝を飾りました。このときのテレビ視聴率は85%、優勝の瞬間の前後は東京都内では電話をする人がいなかったという伝説が生まれました。
 なお東京オリンピックから記録の集計や発表に初めてオンラインシステムが使われました。日本アイ・ビー・エムがシステムの開発を行い運用をサポートしました。日本国内での初めてのオンラインシステムでした。NHKの「プロジェクトX」にいつ取り上げられるかと楽しみにしているのですが、会社が総力をあげて取り組み大きな問題も出なかったため、番組の柱になっている「負けそうになりながら頑張る」悲壮感がないのでプロジェクトX向きではないのかもしれません。

6.第19回メキシコ大会(1968年)
 メキシコ大会で特筆すべきは日本のサッカ−チームが銅メダルを獲得したことです。当時はサッカーは今ほどメジャーなスポーツではなく、銅メダルを取ってもそれほど評判にはならなかったのですが、もしアテネで日本のサッカーチームが銅メダルでも取れば日本中が大騒ぎになるのではないでしょうか。
 メキシコでも日本の体操男子は金6、銀2、銅4と世界の頂点立ち続けます。レスリングも金4、銀1と活躍しました。主役は加藤沢男に代わりました。女子バレーは銀に落ちましたが、男子バレーが初めて銀メダルを取りました。
 陸上男子200メートルの表彰式で金と銅のアメリカの黒人2選手が黒い手袋をした手を高く掲げ、アメリカの黒人差別に抗議したのが印象的でした。なお国内ではこの年の12月に3億円事件が起きています。

7.第20回ミュンヘン大会(1972年)
 ミュンヘン大会は血の惨劇が発生しました。大会9日目にパレスチナ・ゲリラがイスラエル選手団宿舎を強襲、選手とコーチの2人を殺害、9人を人質にとりました。そしてイスラエル国内に拘留されているアラブ人200人の開放と自分達の脱出を要求しました。人質とゲリラはヘリコプター3機に分乗、空港に到着した直後に警官隊とゲリラの銃撃戦になり、ゲリラの手投げ弾で人質9人は全員死亡、ゲリラも5人が死亡し2人が逮捕されました。オリンピック史上最悪の事件です。
 日本選手は東京大会に次ぐ好成績をあげました。前回2位だった男子バレーは見事優勝、ブルガリア戦での逆転劇は今も語り草になっています。女子バレーも銀を守りました。水泳では田口信教と青木まゆみがメルボルン大会以来の金メダルを取りました。相変わらず男子体操は、金5、銀5、銅7とメダルを稼ぎまくりました。種目に復帰した柔道も金を3つ取りました。レスリングも金2、銀2と好調でした。
 この年は浅間山荘事件と横井庄一さんの生還が話題になりました。

8.第21回モントリオール大会(1976年)
 モントリオール大会が開幕したのは7月17日でした。その大会期間中の7月27日に田中角栄前首相がロッキード事件で逮捕されました。マスコミの話題もその事件に集中、オリンピックはかすんでしまいました。私もモントリオール大会の印象はあまりありません。
 記録を見ると男子体操は団体で5連覇、金3、銀5、銅3の好成績でした。アテネに出る塚原選手のおとうさんが活躍しています。次ぎのモスクワ大会は不参加ですし、ロサンゼルス大会は団体は銅です。その後の成績を見てもモントリオール大会を最後に男子体操が中国などに後れを取るようになったのではないかと思います。女子バレーは東京大会以来の金を獲得しました。レスリングと柔道も好成績でした。水泳は惨敗、メダルはおろか6位以上の入賞すらありませんでした。

9.第23回ロサンゼルス大会(1984年)
 第22回大会はソ連のモスクワで1980年に開催されました。ところがソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してアメリカが不参加を表明、日本もアメリカに同調して参加しませんでした。モスクワオリンピックを目標に懸命に努力していた選手は泣く泣く涙をのみました。
 ロサンゼルス大会は今度はソ連がボイコット、2回続けてスポーツが政治に振りまわされる結果となりました。
 アメリカで開催されたこともあり、陸上の100メートル、200メートル、400メートルリレー、走り幅跳びの4種目で金メダルを取ったカール・ルイスが人気抜群でした。体操、柔道、レスリング、女子バレーなどオリンピック常勝軍団は健在、柔道無差別級の山下泰裕は右足を負傷しながら優勝、体操では個人総合の具志堅幸司と鉄棒の森末慎二が金メダルを取りました。ソ連圏不在の中、得をした種目もあったようです。
 競泳は相変わらず不振でしたが、この大会からシンクロナイズド・スイミングがメダル獲得に顔を出すようになりました。ソロとデュエットで銅メダルを取りました。

10.第24回ソウル大会(1988年)
 3大会ぶりに世界中の国が参加する大会です。参加国、参加選手、競技種目も大幅に増えました。ところが日本の獲得メダル数は金4、銀3、銅7と大巾に減りました。お家芸の柔道の優勝は95キロ超級の斎藤仁ただ一人でした。永らく世界のトップに君臨した男子体操はわずか銅メダルが2個、女子バレーも4位となりました。快挙としては100m背泳で鈴木大地が競泳16年ぶりの金を取ったことです。
 開催国の韓国は選手強化策が実をむすび、金12、銀10、銅11のメダルを獲得しました。高額の報奨金を出したり、ボクシングでレフェリーを饗応するなどなりふり構わぬ姿勢もありましたが、以来日本は常に韓国の後塵を拝しています。
 ショックだったのは陸上100メートルで9秒79の脅威的新記録で優勝したベン・ジョンソンが、筋肉増強剤を使用したため金メダルを剥奪されたことです。これ以後ドーピング検査が厳しくなりました。男勝りの体型をして高記録を連発していた中国の女子陸上選手や東ドイツの女子水泳選手などはその疑いを持たれています。

11.第25回バルセロナ大会(1992年)
 この大会では2人の選手の名言を思いだします。一つは200メートル平泳ぎでわずか14歳の岩崎恭子選手がオリンピック新記録で優勝、「今まで生きてきたなかで一番幸せ」という言葉です。もう一つは男子マラソンでもっとも期待を集めていた谷口裕美が中間点の給水ポイントで転倒し「こけちゃいました」という言葉でした。
 また女子マラソンで松野あけみと最後まで代表を争った有森裕子が女子マラソンで銀メダル、日本女子陸上に人見絹枝以来、64年ぶりのメダルをもたらしたのも感動的でした。男子マラソンでも森下広一が戦後初の銀メダルを獲得しています。
 この大会から女子柔道が加わりました。女子柔道は銀メダルを3つと、銅メダルを2つ取りました。また新に野球が新しい種目に登場、銅メダルを勝ち取りました。全員アマチュアでしたが、今ジャイアンツで活躍している小久保裕紀の名前があります。
 ただ金メダルの数は、戦後初めて参加したヘルシンキ大会の1個に次ぐ3個という少なさ、オリンピック新興国の発展に日本の選手強化策が追いついていけないことを思い知ることになりました。

12.第26回アトランタ大会(1996年)
 アトランタはバルセロナ大会をさらに下まわる成績でした。3個の金は全て柔道。ただ、優勝確実と見られていた田村亮子は無名の北朝鮮の16歳のケー・スンヒに破れて銀メダルでした。金3、銀6、銅5の成績はメダルを獲得した79ヶ国中23位でした。
 その中でもいくつか印象に残ることをあげてみましょう。女子マラソンの有森裕子は銅メダル、「自分を褒めてあげたい」という言葉が有名になりました。アマチュア選手の野球は銀メダル、その中に現在プロで活躍している、今岡、松中、福留、井口、谷(田村亮子と結婚)などがいました。初めて種目に加わった女子ソフトボールは4位に入賞しています。シンクロナイズド・スイミングは新種目となって以来3大会連続してメダルを獲得、自転車や女子のヨットでもメダリストが誕生しました。

13.第27回シドニー大会(2000年)
 日本が獲得した、金5、銀8、銅5の合計18個のメダルのうち、女子が金2、銀6、銅5と合計13個のメダルを取り、日本に限っては女子の大会ということを強く印象付けました。女子のメダルの数が男子を上回ったのは初めてです。
 圧巻は女子マラソンで優勝して日本中を熱狂させた高橋尚子と過去2回連続銀に甘んじて念願の初優勝を飾った田村亮子です。ご存知の通り田村はアテネ・オリンピックに参加しますが、高橋は選に漏れました。高橋尚子の不参加は残念でなりませんが、マラソンがあのような選択方法をとっている限り、今回のような割りきれなさはなくならないでしょう。
 シンクロは今回もメダルを獲得、4大会連続です。競泳でも女子が銀2、銅2のメダルを取りました。女子ソフトボールも銀メダルを取りました。もう少しで金という惜しい銀でした。
 男子で気をはいたのは柔道の金トリオ、その中でも母親の遺影に見守られながら優勝した井上康生は感動を与えました。プロ・アマ混成の野球は4位に甘んじました。全員プロの長嶋ジャパンのアテネでのリベンジを期待しましょう。

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