今月のテーマは日本の国技の「大相撲」です。
 5月30日に初代貴ノ花が亡くなったあと、マスコミが元横綱若乃花と貴乃花兄弟を面白おかしく取り上げています。大相撲ファンとしては本当に残念でなりません。
 二人の間の揉め事が何なのか、どちらに非があるのか、なくなった貴ノ花がその原因を作ったのか、別れた母親が悪いのか、周りにいる人が火をつけたのか、私には分かりません。新聞に出ている週刊誌の広告を見たり、時々耳に入ってくるテレビ番組から判断すると、マスコミが週刊誌の売り上げを伸ばしたり視聴率を稼いだりするため、わざと仕掛けているのではないかと思います。週刊文春と週刊新潮はそれぞれどちらを支持するかが分かれているようですが、裏ではわざとそうするような取引があるのではないかとかんぐりたくなります。またテレビのレポーターは土足で相手の家に上がりこむようなひどい取材を続けています。
 私はスポーツの観戦が大好きです。どんなスポーツも好きですが、特に野球と相撲は物心ついたときから好きでした。最近の残念な報道を見るにつけ、ここで戦後の大相撲を取り上げてみたいという気持ちになりました。そこには数々のすばらしいドラマがありました。土俵の外のどろどろした見世物でなく、勝負にかける胸のすくような戦いがありました。
 なお例によって私の独断と偏見と好みが入っています。

私の選んだ戦後の番付表

 まず戦後の力士の番付表を作ってみました。現役力士は含んでいません。戦後活躍し引退した力士ばかりです。幕内は現在40人なので、役力士を東西2人ずつ選び、残りは前頭を12枚までとしました。
それぞれ活躍した時代が違い対戦相手も違うため、それに順位を付けるなど乱暴な話ですがこれもお遊びです。一応地位と優勝回数などの成績をめどにして、それに多少の味付けをしてみました。
前頭6枚目までは、5枚目の貴ノ花を除いては全員横綱です。不祥事で廃業した双羽黒を除いては横綱全員が入っています。前頭7枚目から10枚目までは大関です。大関は全員ではなく、優勝経験者から9名を選びました。最後の4人は舞の海が小結、他の3人は関脇です。

まず横綱です。番付の上位を占めています。
・大鵬は優勝回数32回、幕内成績746勝144敗、勝率83.8%、勝率8割以上は大鵬しかいません。子供の好きなもの「巨人、大鵬、玉子焼き」の言葉を残しました。千代の富士は優勝回数31回、幕内成績807勝253敗、勝率76.1%、通算勝利数937勝は史上トップです。双葉山に次ぐ53連勝の大記録を持っています。どちらも甲乙つけがたくダントツの成績です。千代の富士は国民栄誉賞に輝いています。(なお大鵬の全盛期には国民栄誉賞はありませんでした)
・北の湖は優勝回数24回、幕内成績804勝247敗、勝率76.5%、横綱昇進最年少記録は未だに破られていません。貴乃花は今話題の人ですが、優勝回数22回は4番目の記録で、最年少幕下優勝、最年少関取、最年少幕内優勝などの記録も持っています。「若貴人気」で史上空前の大相撲ブームを巻き起こしました。
・栃錦と初代若乃花は戦後初の大相撲ブーム「栃若時代」を築きました。優勝回数はともに10回ですが、栃錦が初優勝したときは年3場所、若乃花が初優勝したときは年4場所でした。栃錦は技能賞9回受賞が示すように初代技のデパートでした。若乃花は小さい体で真っ向勝負、異能力士といわれました。引退後も栃錦が協会理事長、若乃花が事業部長として、新国技館を建設するなど大相撲の発展に力を合わせました。
戦後の大相撲番付表
西
番付力士名出身地 番付力士名出身地
横綱大鵬 幸喜北海道 横綱千代の富士 貢北海道
横綱北の湖 敏満北海道 横綱貴乃花 光司(2代)東京都
大関栃錦 清隆東京都 大関若乃花 幹士(初代)青森県
大関曙 太郎ハワイ 大関武蔵丸 光洋ハワイ
関脇輪島 大士石川県 関脇北の富士 勝昭北海道
関脇北勝海 信芳北海道 関脇佐田の山 晋松長崎県
小結柏戸 剛山形県 小結玉の海 正洋愛知県
小結若乃花 勝(3代)東京都 小結若乃花 幹士(2代)青森県
前頭1千代の山 雅信北海道 前頭1東富士 謹壱東京都
前頭2隆の里 俊英青森県 前頭2琴櫻 傑将鳥取県
前頭3朝潮 太郎(横綱)鹿児島県 前頭3鏡里 喜代治青森県
前頭4三重の海 剛司三重県 前頭4栃ノ海 晃嘉青森県
前頭5貴ノ花 利彰(初代)青森県 前頭5吉葉山 潤之輔北海道
前頭6旭富士 正也青森県 前頭6大之国 康北海道
前頭7小錦 八十吉ハワイ 前頭7高見山 大五郎ハワイ
前頭8貴ノ浪 貞博青森県 前頭8若島津 六夫鹿児島県
前頭9琴風 豪規三重県 前頭9霧島 一博鹿児島県
前頭10朝潮 太郎(大関)高知県 前頭10清国 忠雄秋田県
前頭11貴闘力 忠茂兵庫県 前頭11安芸乃島 勝巳広島県
前頭12寺尾 常史鹿児島県 前頭12舞の海 秀平青森県
・曙と武蔵丸はともにハワイ出身で曙は外国人初の横綱、優勝回数は11回を数えます。貴乃花、若乃花と同期生で互いに出世を競い合って昇進しました。武蔵丸は優勝回数12回、連続勝ち越し55場所の記録を持っています。
・輪島は学生相撲出身初の横綱でした。優勝回数は14回、左を差し、右から強烈に絞って「黄金の左」から放つ下手投げが必殺技でした。北の富士は優勝回数10回、現代っ子らしい明るい性格で若い世代からも歓迎されました。
・柏戸は優勝回数5回、左前まわしを取り右おっつけで一気に突っ走る速攻でファンを魅了しました。しかし怪我や糖尿病に悩まされることが多く同時代の大鵬には大きな差をつけられました。玉の海は優勝回数6回、これから強さを発揮すると期待されていたときに、心臓動脈血栓症で横綱現役中に死亡しました。

 次に大関以下です。
・貴ノ花は優勝回数は2回ですが、大関在位50場所を数えます。大関在位が長いということは横綱にはなれないが落ちることもなかったということです。名大関といってもいいでしょう。軽量ながら柔軟な足腰を生かしたスリリングな取り口は行司泣かせでした。
・高見山と小錦はともにハワイ出身で、高見山は東京オリンピックの年の昭和39年に高砂部屋に入門、アメリカ人初の力士として大相撲の国際化に貢献しました。通算出場1654回は史上第3位の記録です。小錦は現役時代の高見山にスカウトされて入門、ここであげた大関の中では最高の3回の優勝をしています。右ひざを痛めなければ横綱も夢でなかったでしょう。
・貴ノ浪は脇が甘く相手十分になることが多かったのですが、懐が深いため右上手を取るとスケールの大きい相撲を取って観客を喜ばせました。若島津は「南海の黒豹」といわれ女性に人気がありました。夫人は元歌手の高田みずゑで、松ケ根部屋を起こしました。二人とも2度優勝しています。
・琴風は関脇まで上がったあと左ひざを痛めて幕下まで陥落、その後不屈の闘志で大関に昇進、2度の優勝を飾っています。霧島は若島津と同期生、筋肉質の美男子で、パリ公演では「相撲界のアランドロン」と紹介されました。1度の優勝です。
・貴闘力は闘志の塊のような力士て、負け越せば引退という幕尻の前頭14枚目のとき優勝をしました。通算連続出場1456回という史上3位の記録も持っています。安芸乃島の金星16個は史上最高の記録、上位に強く下位に取りこぼすという典型的な上位キラーでした。通算出場回数、通算勝利ともに史上6位という記録も持っています。
・寺尾は39歳まで現役力士として活躍し、通算敗北1位、通算出場2位、通算勝利5位、通算連続出場6位という記録を持っています。端正なマスクとすらりとしたスタイルで特に女性に人気がありました。舞の海は小さい体から多彩な技を繰り出し、「技のデパート」といわれました。身長170センチ足らずのため、1度は身体検査に落ちましたが、頭にシリコンを詰めて再検査で合格しました。

記憶に残る戦後の名勝負

 私の記憶に残っている名勝負を振り返ってみたいと思います。なお力士名はそのときの名前で書かせていただきました。
(1)栃錦−大内山(昭和30年夏場所)
   栃錦捨て身の首投げ

 最初の大一番は横綱栃錦と新大関大内山の一番です。昭和30年は私が高校3年のときでした。この番組をラジオで聞いていました。ラジオはアナウンサーの声を頼りに想像力を働かせてその場面を頭に描くしかありません。今から50年も前のしかも頭で描いたイメージを未だに覚えているということはそのときの感動を忘れていないということだと思います。
 身長差25センチ、体重差38キロも劣る栃錦が、何度も大内山に突っ張られ、最後大内山十分の体勢になって勝負あったかと思った瞬間、捨て身の首投げで大内山を投げ飛ばしました。

(2)千代の山−若ノ花(昭和30年秋場所)
    17分15秒の死闘

 初代若ノ花は小さな体でどんな大きな力士にも真正面から力勝負を挑みました。生涯で4回の引き分けのうちこの年に3回の引き分けを記録しています。すぐ息の上がってしまう今の力士からは想像も出来ません。
 この一番は優勝争いのトップに立つ1敗同士の横綱千代の山と関脇若ノ花が11日目に当たったものです。まず水入りの大相撲になり、決着がつかぬまま二番後取り直しになりました。取り直しでも両者譲らず、再度の水入り、再開後は二人とも力を出し切ったせいか殆ど動かず、行司が中に入って引き分けとなりました。17分15秒の、長い熱のこもった一番でした。

(3)栃錦−若乃花(昭和35年3月場所)
   史上初の全勝横綱の対決

 この一番は史上初の全勝横綱が千秋楽に優勝を争うという1戦でしたが、図らずも栃若時代のフィナーレを飾る戦いとなりました。
 立会いはがっぷりの左四つ、土俵の中央で数呼吸後、栃錦が左の差し手を抜いて上手を切りにいった瞬間、若乃花がすかさずつけ入って、もろ差しから寄り切りました。「その瞬間両力士が顔を見合わせてにっこりした笑顔には実にさわやかなものがあった」と、「大相撲おもしろ話」に出ています。栃錦は翌5月場所の途中引退しています。

(4)柏戸−大鵬(38年9月場所)
   史上2度目の全勝横綱の対決

 大相撲は柏鵬時代となっていました。これまで優勝回数は大鵬の11回に対して柏戸はわずか1回でしたが、両者の対戦成績は9対8と柏戸が1つリードしていました。
 この場所柏戸は休場明け、勝ち越せば上々というのが大方の予想でしたが、14日まで大鵬とともに白星を重ねていました。史上2度目の全勝横綱の対決、立会いは大鵬がもろ差し、柏戸は左で前みつを取りますが、大鵬が一気に西土俵によります。土俵に詰まりながら柏戸は右を巻き替え、すくい投げで崩して寄り切りました。
 支度部屋に戻った柏戸はこらえきれずに泣き出し、報道陣が何を聞いてもすすり泣くだけであったと「大相撲おもしろ話」にありました。

(5)大鵬−戸田(昭和44年3月場所)
   世紀の大誤審

 大鵬は3連覇45連勝と、双葉山の持つ69連勝の記録更新を目指して快進撃を続けていました。戸田の突進に大鵬は反身になり右から突き落としに出ましたが、戸田は落ちながら体を預け、大鵬が土俵を割りました。行司式守伊之助は戸田の足が出たとして大鵬に軍配を上げましたが、物言いがつき戸田の勝ちとなりました。45連勝でストップです。
 ところが分解写真で見ると戸田の右足が完全に出ていました。怒りの電話が協会に殺到しました。その結果翌年の5月場所からビデオを判定の参考に取り入れることになりました。

(6)北の富士−貴ノ花(昭和47年1月場所) 突き手かかばい手か
   北の富士−貴ノ花(昭和47年3月場所) 2場所連続行司差し違え

 初代貴ノ花は「土俵の鬼」といわれた初代若乃花の実弟でそのかぼそい体とハンサムな容姿から「角界のプリンス」といわれましたが、容易に勝負をあきらめない脅威の粘りは「サーカス相撲」とか「行司泣かせ」とも言われました。
 1月場所では北の富士が貴之花にのしかかるように重ねもちになって倒れそうになりましたが、最後の一瞬に貴ノ花が反撃、北の富士は右手から落ちました。行司木村庄之助は北の富士の突き手と見て貴ノ花に軍配を上げましたが、物言いがついて北の富士のかばい手と判断され行司差し違えとなりました。場内はごうごうたる不満の声が充満、協会には抗議の電話が殺到しました。
 翌3月場所は北の富士が激しく寄りたてたところを最後の瞬間に貴ノ花がうっちゃり、また庄之助の差し違えとなりました。貴ノ花の水泳で鍛えた体はしなやかそのものだったのです。2番続けて差し違えとなった庄之助は詰め腹を切らされるようにして引退に追い込まれました。

(7)貴ノ花−北の湖(昭和50年3月場所)
   貴ノ花決定戦を制し初優勝

 昭和50年3月場所は貴ノ花に初優勝のチャンスがやってきました。千秋楽を迎えた貴ノ花は1敗、2敗の北の湖を破りさえすれば優勝です。大阪府立体育館の大観衆は貴ノ花一色でしたが、北の湖は上手投げで勝ち、優勝決定戦に持ち込みました。場内は「タカノハナ」の絶叫で興奮の坩堝と化しました。その観衆の声援に押されて、決定戦では北の湖を寄り切りで下し、兄の二子山審判部副部長より優勝旗を授与されました。二子山の目はうるんでいました。

(8)千代の富士−北の湖(昭和56年1月場所)
   ウルフ初優勝、大フィーバー

 31回の優勝回数、大鵬の上を行く53連勝の記録を持つ大横綱千代の富士が初めて優勝したときは、NHKのテレビ視聴率は52.2%、貴ノ花が初優勝したときの50.6%を抜いて新記録を達成しました。瞬間最大視聴率は65.3%と伝えられています。このときも相手役は北の湖でした。関脇千代の富士は千秋楽まで14連勝、1差で北の湖が追いかけるという展開でした。北の湖は横綱の貫禄を見せて同点決勝に持ち込みました。決定戦では千代の富士が出し投げを連発、見事に初の栄冠を獲得しました。

(9)貴花田−千代の富士(平成3年5月場所)
   18歳貴花田、35歳の大横綱を引退へ

 王者大鵬が最後に引導を渡されたのが初代貴ノ花でしたが、千代の富士もその息子の前頭筆頭の貴花田に平成3年の5月場所初日に敗れ引退を決意しました。まさに新旧交代のドラマです。
 貴花田(2代目貴乃花)は十両、入幕、小結、関脇、大関と殆どの最年少昇進記録を書き換えました。そして兄の3代目若乃花とともに「若貴兄弟」として大相撲を全盛時代に導きました。

(10)貴乃花−武蔵丸(平成13年5月場所)
   怪我を克服、貴乃花決定戦を制し優勝

 私の独断と偏見の名勝負物語の最後は、貴乃花の最後の優勝となった武蔵丸との優勝決定戦です。貴乃花の表彰式で土俵に上がった小泉首相が「感動した」と言った言葉は有名になりました。
 13日目まで白星を重ねていた貴ノ花が14日目の武双山との取り組みで怪我をしました。そして千秋楽は武蔵丸との一戦で突き落としに破れ優勝決定戦にもつれ込みました。怪我で痛々しい貴乃花を見ていたファンはもうだめだとあきらめました。ところが決定戦では貴乃花が武蔵丸を上手投げで破り22回目の優勝を果たしました。終わったあと貴乃花が見せた仁王のような形相はいまだにはっきりと覚えています。

参考文献:「大相撲おもしろ話」新山善一
       「平成17年版大相撲力士名鑑」水野尚文・京須利敏 編著
インターネット:「日本相撲協会公式サイト」
       「大相撲記録の玉手箱」
       「相撲評論家の頁」

inserted by FC2 system