第20回冬季オリンピックは2006年2月10日から26日までイタリアのトリノで開催されます。日本選手団のメンバーも準備完了です。後は開催を待つばかりです。テレビでオリンピックを観戦するのは、寒い冬を家の中で過ごす最大の楽しみと言えます。
2004年8月発行の手賀沼通信第77号で「オリンピック回想記」として、戦後の夏のオリンピック史を書きましたが、今回はその冬季編です。冬季オリンピックも戦後日本が初めて参加した第6回オスロ大会以後を取り上げます。
内容は私の記憶が主ですが、正確さを期すため、前回同様
・日本オリンピック委員会:http://www.joc.or.jp/
・The website of the Olympic Movement:http://www.olympic.org/uk/index_uk.asp
のホームページを参考にしてまとめました。
冬季オリンピック回想記
1.第1回〜第5回冬季オリンピック大会
冬季オリンピックは1924年フランスのシャモニー・モンブラン大会が最初です。1896年に始まった夏季大会から遅れること28年です。そして戦前に4回開催されました。日本選手は1936年にドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開かれた第4回大会に初めて参加しました。選手は男子33名、女子1名の参加でした。
成績は男子スピードスケート500mに石原省三が4位に入賞した記録が残っています。
1940年と1944年は第2次世界大戦のため中止となりました。戦後は1948年にスイスのサン・モリッツで第5回大会が開催されましたが、日本の参加は認められませんでした。
2.第6回オスロ大会(1952年)
ノルウェーのオスロで開催された第6回大会に13名の日本選手が戦後初めて出場しました。
入賞者は1人だけで、天才少年として期待された猪谷千春はスキー回転11位、大回転20位、滑降24位の成績でした。
私は当時中学3年生でしたが、ほとんど記憶がありません。夏のヘルシンキ大会の記憶はあるので、おそらく冬季大会は日本国内であまり報道されなかったのではないかと思います。
この大会から冬季大会でも聖火が点灯されることになりました。
3.第7回コルチナ・ダンペッツオ大会(1956年)
この大会で猪谷千春が国民の期待に応えて、男子スキー回転で見事銀メダルを獲得しました。冬季大会でのメダル獲得者は16年後の札幌大会まで出なかったことを考えると、大変すばらしい成績でした。その上、アルペンスキーでは猪谷千春以外はいまだにメダルを取っていません。いかに彼が出色の選手だったかが分かります。
はっきり覚えていることは、ドイツのトニー・ザイラーが大回転、回転、滑降のアルペン3種目の金メダルを独占したことです。ザイラーはその後ハリウッド映画に出ました。日比谷の封切館で主演作品「黒い稲妻」を見たのも覚えています。ザイラーはそれ以外に6本の映画に出演しました。
この大会からスキーのジャンプ姿勢に、現在のように両手を体の側につけて飛ぶスタイルが登場しました。それまでは水泳の飛び込みのように、両手を頭上に伸ばして飛ぶスタイルでした。
4.第8回スコーバレー大会(1960年)
参加日本選手は前回大会の10名から4倍以上の41名に増えました。そしてこの大会から初めて主将と旗手が登場しました。
主将は猪谷千春、旗手はフィギュアスケートの上野純子でした。
入賞者は女子スピードスケートの高見沢初枝が3000mで4位、500mと1000mで5位に入っただけでした。主将の猪谷は最盛期をすぎており、アルペン3種目に出ましたが、入賞はかないませんでした。
戦後のオリンピック開催地(冬季大会) |
回 | 年 | 開催地 |
参加国・地域 | 参加選手数 | 日本選手数 |
競技種目数 | 日本のメダル数 |
開催国 | 都市 |
金 | 銀 | 銅 |
6 | 1952 | ノルウェー | オスロ |
30 | 694 | 13 | 22 |
0 | 0 | 0 |
7 | 1956 | イタリア | コルチナ・ダンベッツオ |
32 | 820 | 10 | 24 |
0 | 1 | 0 |
8 | 1960 | アメリカ | スコーバレー |
30 | 665 | 41 | 27 |
0 | 0 | 0 |
9 | 1964 | オーストリア | インスブルック |
36 | 1091 | 48 | 34 |
0 | 0 | 0 |
10 | 1968 | フランス | グルノーブル |
37 | 1158 | 62 | 35 |
0 | 0 | 0 |
11 | 1972 | 日本 | 札幌 |
35 | 1006 | 90 | 35 |
1 | 1 | 1 |
12 | 1976 | オーストリア | インスブルック |
37 | 1123 | 57 | 37 |
0 | 0 | 0 |
13 | 1980 | アメリカ | レークプラシッド |
37 | 1072 | 50 | 38 |
0 | 1 | 0 |
14 | 1984 | ユーゴ | サラエボ |
49 | 1274 | 39 | 39 |
0 | 1 | 0 |
15 | 1988 | カナダ | カルガリー |
57 | 1423 | 48 | 46 |
0 | 0 | 1 |
16 | 1992 | フランス | アルベールビル |
64 | 1801 | 63 | 57 |
1 | 2 | 4 |
17 | 1994 | ノルウェー | リレハンメル |
67 | 1739 | 65 | 61 |
1 | 2 | 2 |
18 | 1998 | 日本 | 長野 |
72 | 2302 | 110 | 68 |
5 | 1 | 4 |
19 | 2002 | アメリカ | ソルトレークシティ |
77 | 2399 | 109 | 78 |
0 | 1 | 1 |
20 | 2006 | イタリア | トリノ |
| | | 84 |
| | |
5.第9回インスブルック大会(1964年)
日本選手の成績はこの大会でも芳しくありませんでした。入賞者は男子スピードスケート500mで鈴木恵一が5位、女子フィギュアスケートで福原美和が5位、女子スピードスケート3000mで長久保初枝が6位でした。
この大会は雪不足が深刻で、オーストリアの軍隊が4万立方メートルの雪をアルペンスロープに運びました。聖火が初めて戸外のメイン会場に灯されました。また、アルペンスキーの記録計時に100分の1秒が導入されました。
6.第10回グルノーブル大会(1968年)
グルノーブル大会には、日本は62名の選手を送り込みながら、メダルはもちろん入賞者さえ1人もいないまことに不名誉な結果でした。同年夏のメキシコオリンピック大会で11個の金メダルを含む25個のメダルを獲得し、史上3位となる成績を挙げたのと比較すると大違いです。
大活躍したのはアルペンスキーの3種目を制した、地元フランスのジャン・クロード・キリーでした。私の記憶している限りでは、アルペン3種目で金メダルを獲得したのは、第7回大会のトニー・ザイラーとこの大会のジャン・クロード・キリーの2人だけではないかと思います。最近では、種目ごとにその種目を得意とするスペシャリストが出てきていますし、カルガリー大会以後アルペンスキーはスーパー大回転と複合の2種目が追加されて5種目になりました。おそらく5種目すべてで金メダルを取る選手は出てこないのではないかと思います。
なおこの大会からテレビ中継はカラーとなりました。
7.第11回札幌大会(1972年)
札幌大会は冬季オリンピックがヨーロッパおよびUSA以外で開催された最初の大会でした。日本に1964年の東京大会以来8年ぶりにオリンピックが戻ってきました。
日本は過去最大の90名の選手団を送り込みました。そしてスキージャンプ70メートル級(現在のノーマルヒル)で笠谷幸生、金野昭次、青地清二が、金銀銅のメダルを独占しました。マスコミは「日の丸飛行隊」としてその快挙を大々的に報道しました。
それまで日本人にほとんど知られていなかったリュージュに入賞者が出ました。男子2人乗りで4位、女子1人乗りで5位に入りました。また後の大会で日本が大活躍するスキーノルディック複合で勝呂裕司が5位となりました。
札幌大会はそれまであまり人気がなかったウィンタースポーツ観戦の面白さを気づかせてくれる大会となりました。
8.第12回インスブルック大会(1976年)
この大会も日本は57名の選手を派遣しましたが、グルノーブル大会同様メダルも入賞もない寂しい大会でした。
この大会は当初アメリカのデンバーで開催される予定でしたが、コロラド州とデンバーの市民から「自然環境を破壊し、巨額の経費支出が予想される五輪の開催に反対」という声が挙がり、72年には大会の諸準備のために州が補助金を出すことを禁止する法案が成立、中止となりました。そこに急遽12年前に開催したばかりのオーストリアのインスブルックが助け舟を申し出て、インスブルック大会となりました。
9.第13回レークプラシッド大会(1980年)
日本選手はスキージャンプ70m級で八木弘和が銀メダルを獲得、秋本正博が4位となりました。女子スピードスケート500mでは長屋真紀子が6位、女子フィギュアスケートで渡辺絵美が6位でした。
この大会ではスケートで歴史に残る驚きが2つありました。1つはアメリカのエリック・ハイデンが男子スピードスケート5種目(500、1000、1500、5000、10000m)全てで、金メダルを取ったことです。1つの大会で個人種目5つの金メダルを独占したのは、ハイデンが初めてでした。
2つ目は、現在女子フィギュアスケートで誰もが試みているビールマンスピンが華々しく登場したことです。ビールマンスピンの生みの親、スイスのデニス・ビールマンはこの大会でビールマンスピンを披露、フリーではトップになったものの規定演技の点数が足りず4位でした。しかし世界選手権大会やヨーロッパ選手権大会では5回の優勝を飾っています。
なおこの大会で初めて人工雪がお目見えしました。
10.第14回サラエボ大会(1984年)
冬季大会が社会主義国で開催されたのはサラエボが初めてでしかもこれ限りです。サラエボは数年後には悲劇的な民族紛争の主戦場となりましたが、この大会では無類のホスピタリティを発揮し参加者から高い評価を受けました。数年後に悲劇が襲うとは誰も予想だにしませんでした。
日本選手は男子スピードスケート500mで北沢欣浩が銀メダルを獲得、スピードスケートでは初のメダルでした。それ以外に入賞者はいませんでした。
11.第15回カルガリー大会(1988年)
この大会で冬季大会の規模が大きくなりました。日数が12日間から3回の週末を含む16日間に延長、競技種目数が39種目から46種目に拡大しました。なお種目数の拡大はこの大会以後も続いています。アルペンスキーは5種目になり、スキージャンプやスキーノルディック複合に団体競技が追加されました。入賞は従来の6位までから8位までとなりました。
日本選手は男子スピードスケート500mで黒岩彰が銅メダルを獲得しました。橋本聖子は女子スピードスケート5種目(500m、1000m、1500m、3000m、5000m)全てに入賞(5位X2、6位X2、7位X1)しました。女子フィギュアスケートでは伊藤みどりが5位入賞、青柳徹が男子スピードスケート1500mで5位に入りました。
イタリアのアルペンスキーのアルベルト・トンバがこの大会から長野大会まで活躍しました。この大会では回転と大回転が金、次のアルベールビルでは金と銀、リレハンメルでは銀と、合計5つのメダルを取っています。3大会連続でメダルを取ったアルペンスキーヤーは他にはいません。
12.第16回アルベールビル大会(1992年)
この大会から日本人選手の活躍が目立つようになりました。スキーノルディック複合団体で三ヶ田、河野、荻原の日本チームが見事金メダルを獲得したのは記憶に新しいところです。それまであまり放送されたことのなかったこの競技の面白さを改めて知りました。銀メダルは男子スピードスケート500mの黒岩敏幸、女子フィギュアスケートの伊藤みどり、銅メダルは女子スピードスケート1500mの橋本聖子、男子スピードスケート500mの井上純一、同1000mの宮部行範、男子ショートトラック5000mリレーでした。入賞は4位に2チームと1名、5位に3名、7位に3名でした。
スケートのショートトラックとスキーのモーグルが正式種目となりました。
13.第17回リレハンメル大会(1994年)
この大会はアルベールビル大会から2年後に開催されました。前回までは夏季オリンピックと同じ年に行われていました。それを2年ごとにオリンピックを開催するように変えたのです。そのほうがオリンピックを開催するほうも参加するほうも何かと都合がいいのだと思います。我々にとっても4年に一回オリンピックがあるより、2年に1回のほうが楽しみが増えます。
日本選手も大活躍でした。前回に引き続いてスキーノルディック複合団体で阿部、河野、荻原の日本チームが金メダルでした。銀メダルはスキーノルディック複合の河野孝典、スキージャンプラージヒル団体(原田、葛西、岡部、西方)でした。銅メダルはスピードスケート男子500mの堀井学、同女子5000mの山本宏美でした。
入賞は4位に3名、5位に3名と1チーム、6位に4名、7位に1名、8位に4名でした。
金メダル確実と見られていたスキージャンプラージヒル団体戦で、最後のジャンパー原田雅彦の失敗ジャンプは今でも語り草となっています。
14.第18回長野大会(1998年)
第11回札幌大会後26年目に再び冬季オリンピックが日本に戻ってきました。競技種目は35から68と大幅に増えましたが、参加選手数は90人から110人とそんなに増えてはいません。それだけ選手の選考基準が厳しくなったのでしょう。獲得メダル数は3から10と3倍増、入賞者は3から17と5倍以上に増えました。
金メダルは前回大会の雪辱を果たしたスキージャンプラージヒル団体(岡部、斉藤、原田、船木)、今度は原田が大ジャンプを見せました。その他スキージャンプラージヒルの船木和喜、女子モーグルフリースタイルの里谷多英、スピードスケート男子500mの清水宏保、ショートトラック男子500mの西方岳文でした。銀メダルはスキージャンプノーマルヒルの船木和喜、ラージヒルに続いてのメダル獲得でした。
銅メダルはスキージャンプラージヒルの原田雅彦、スピードスケート男子1000mの清水宏保、同女子500mの岡崎朋美、ショートトラック男子500mの植松仁でした。
入賞者は、4位が1名と1チーム、5位が4名と4チーム、6位が4名と1チーム、7位が1名、8位が2名でした。
長野大会は以前勤めていた日本IBMが大会運営や報道のシステム開発と運用を引き受けました。当時私は日本IBMを早期退職して他社に勤めていましたが、システムの出来具合には大変興味を持って見ていました。その2年前の夏季アトランタ大会でアメリカのIBMが作ったシステムがいろいろなトラブルを起こして不評だったからです。日本IBMは総力を挙げて取組みました。それまでのシステム作りと大きく違っていたのはインターネットを徹底的に利用したシステムにしたことです。誰でもインターネットから長野オリンピックのホームページにアクセスして試合や選手や結果を知ることができるようになっていました。
システムは問題なく稼動し、大会を盛り上げる一役を買ったようです。
15.第19回ソルトレークシティ大会(2002年)
日本で開催した後の冬季大会はエネルギーを使い果たしたのか、あまりメダルと縁がないようです。
ソルトレークシティ大会のメダルは、男子スピードスケート500m清水宏保の銀メダルと女子モーグルフリースタイルの里谷多英の銅メダルだけでした。
ただ入賞者は過去最大の25でした。4位は2名と1チーム、5位は3名と2チーム、6位は5名、7位も5名、8位は5名と2チームでした。
中国とオーストラリアが冬季大会で初めてメダルを獲得しました。
トリノ大会での日本選手の活躍が待ち遠しい限りです。