65歳以上の高齢者が人口の約20%を占めることになり高齢者が元気です。いろいろなサークルで幅広い活躍をしています。生涯現役、生涯学習を目指す高齢者も少なくありません。まもなく団塊の世代も現役を退き退職生活を始めます。少子化が進むなか、社会を活性化するには高齢者ががんばるしかありません。日本の将来は若者だけでなく高齢者パワーに掛かっているといっても過言ではないでしょう。
 高齢者が元気に人生を楽しんでいる一つの例として私が加入している柏の高齢者サークル「あけぼの会」を紹介させていただきます。
 そして「あけぼの会」を主宰されておられる家田和利様と奥様の家田欣子様からの一文を今年発行したあけぼの会の「創立拾五周年記念文集」から引用させていただきました。
 「おくのほそ道紀行」は私の弟の紀行文です。弟は胃がんで胃の5分の4を切ったあと、数年がかりで東海道と中山道を歩きとおしました。現在は奥の細道に挑戦しています。

柏の高齢者サークル「あけぼの会」

1.ユニークなあけぼの会
 あけぼの会は今年で創立15周年を迎えました。1月24日には南柏の日本閣で創立15周年を祝う新年総会を開催しました。ソプラノ歌手の小川えみさんとピアノの黒須雅代さんをお招きし、心にしみる愛唱歌を聞きながら昼食を楽しみました。お土産の「創立十五周年記念文集」は会員および会友の皆さんからお寄せいただいた文章や日帰り旅行と1泊旅行の際の記念写真を載せたものです。記念文集は今回で4冊目となりました。
 あけぼの会は大変ユニークな会です。大変居心地の良い会です。なぜなら会の行事は会長の家田和利さんと奥様の家田欣子さんが、企画・準備・開催・清算など全てを担当され、会員はただ参加するだけでいいからです。今年から日帰りバス旅行だけは4つの班が分担することになりましたが、今までの15年間は全て会長ご夫妻が取り仕切られました。会員にとってこんなに楽なことはありません。
 会員数は約40名とそんなに多くありませんが、会のイベントには通常会員数を上回る参加者が集まります。会員が家族や友人を連れてくることが多いからです。昨年7月には朝日新聞系のタウン誌「定年時代」にあけぼの会の記事が紹介されたため、イベントの参加者が増えました。
 あけぼの会は家田夫妻を家長とする大ファミリーのような感じになっています。平均年齢は77歳くらい、会員はお互い気心の知れた方ばかりで、いつも和気あいあい、笑顔の絶えない集まりです。
 あけぼの会は平成2年9月柏公民館の高齢者教養講座「かたくり学級」がきっかけとなりました。講座終了後、OB会を作ろうと有志が集まり、翌平成3年1月に16名でスタートしたそうです。会の名前は「老いに負けずに、人生これから」の意味で「あけぼの会」と名づけられました。
 創立当時のメンバーは亡くなったり、体調不良で退会したりで、数名しか残っていませんが、その後入った方で大きく成長しました。最高齢は大正6年生まれ、最も若い方で昭和15年生まれとなっています。

2.15年間のあけぼの会の活動
 あけぼの会のイベントは原則月1回です。ここ数年は1月に新年総会、12月に忘年総会、7,8月はお休みで、残りの8ヶ月の間に、1泊旅行が1〜2回、日帰りバス旅行が3〜4回、映画会が3回、講演会が0〜1回となっています。
 1泊旅行は高齢者に無理のない日程で主に温泉に行くことにしています。日帰りバス旅行は柏市のバスを使えるため、昼食にお金をかけ美味しいものを食べます。また、できるだけ生産現場を訪ね、消費生活を豊かにするよう努めています。映画会は平成10年から「映画の出前」の河崎義祐監督にお出でいただき、映画と監督のトークを楽しんでいます。今年からは映画会が河崎監督からNPO法人シネマネットジャパンに移行されます。
 15年間のイベントを合計すると、合計155回になります。全て家田さんご夫妻が計画され、実施されました。
・ 設立総会、新年総会、忘年総会 − 31回
・ 1泊旅行 − 15回
・ 日帰り旅行 − 69回
・ 映画会(映画出前、16m映画会) − 22回
・ 講演会、演芸会 − 18回

 映画出前の18本のタイトルです。
・ 「カサブランカ」(平成10年2月)
・ 「禁じられた遊び」(平成11年2月)
・ 「晩秋」(同年11月)
・ 「ライムライト」(平成12年6月)
・ 「グレンミラー物語」(平成13年6月)
・ 「麦秋」(同年11月)
・ 「オーケストラの少女」(平成14年2月)
・ 「また逢う日まで」(同年6月)
・ 「舞踏会の手帳」(同年11月)
・ 「安城家の舞踏会」(平成15年2月)
・ 「ブラス」(同年6月)
・ 「にごりえ」(同年11月)
・ 「東京物語」(平成16年2月)
・ 「素晴らしき哉人生!」(同年6月)
・ 「阿弥陀堂だより」(同年11月)
・ 「白い巨塔」(平成17年2月)
・ 「日本の一番長い日」(同年6月)
・ 「旅情」(同年11月)

 あけぼの会のもう一つの特徴は家田さんから会員に対して毎月出される情報発信です。
・ あけぼの会ニュース(ニュースや時の話題などを高齢者向きにわかりやすく解説した記事)
・ 月例会の案内(上記イベントについて解説つきの案内)
・ 小泉内閣のメルマガ
・ 月例会報告(月例会欠席者宛)
 内容は懇切丁寧で「あけぼの会ニュース」を読めば新聞記事より世の中の動きが良く分かります。
 それ以外にも「予算決算報告」「会員名簿」「月例会行事(会のあゆみ)」「役員会議事録」「あけぼの会日誌」などをタイムリーに出されています。メールやインターネットはパソコンですが、家田さんの製造停止になったワープロにはあけぼの会のデータベースがぎっしり詰っていて、それを駆使して資料を作られています。
 また1泊旅行や日帰り旅行では会長自らカメラマンに変身、デジカメで集合写真やスナップ写真を撮り、参加メンバーに配布しています。

 家田会長は現在77歳、いつまでも会員が会長におんぶにだっこというわけにもいきません。私たち若手?が会長の負担を軽減するよう努力しなければならないと思っています。

特別寄稿
創立15周年に当たって

あけぼの会会長 家田 和利     

 「当会も創立10周年に相成る、早いものですね」と巻頭に書いたのは、前回の10周年記念文集(平成13年1月発行)である。が、もうそれから5年が経って、創立15周年を迎える事になった、驚きである。
 5周年記念文集(平成8年3月発行)に当会発祥の柏公民館でお世話になった柏市社会教育指導員の吉武順子先生のお祝辞に「継続は力なり」と言われ、「‥老いて学べば則ち死して朽ちず」と説かれました。
 これらのお言葉が我が「あけぼの会」のエネルギーの根源で、幾つになっても物事を前向きに捉え、何からでも学んでいく姿勢が大事だと肝に銘じて、ここ迄やって来ました。加齢と共に、古い会員は亡くなったり退会したり、或いは新しい会員が入会したりと変化はありますが、あけぼの会員の暖かさ、価値観、チームカラーは変わりません。
 平成9年10月、NHK首都圏ニュースで取り上げられた「映画の出前」活動の河崎義祐映画監督との出会い、翌10年2月の柏市教育福祉会館での「カサブランカ」鑑賞を皮切りに、この11月、18回目を迎えた「旅情」鑑賞と、すっかりご縁が深まりました。
 その河崎監督が前回の10周年記念文集に「終わりの始まり」の一文を寄せて戴き、始めるときは宜しいが、何事にも「終わり」がある事を忘れないように、とのアドバイスを受けて居ます。
 ここ数年、私は「当会の幕引き」を何時行うかを考えて来ました。 創立会員は極く少数となり、同じ精神で存続していけるかを深刻に考えて来ました。幸い、その後に入会した新しいお若い方々は、古い会員と融和し、価値観もそう変わらず、却って「元気」を戴いて居る位で、大変助かって居ます。
 今後20周年記念は出来るかどうか分かりませんが、暫くはこのペースで多少スロー気味に実行して行けると確信して居ます。
 7月に朝日新聞系タウン誌「定年時代」に「青春の無い世代に青春を贈る」の記事が載り、30名の皆さんからお問い合わせや参加希望があって、現実に9月例会に6名、10月一泊旅行に7名と、新しい参加者が現れ、又々、新しい局面が開けそうな情勢です。
 月例会も平成17年末には色々と変化を持ち乍ら155回を数え、時の話題や論評、政治に関心を持って戴く為の、あけぼの会ニュースも135号、号外33号(平成17年11月1日現在)、そして小泉内閣メールマガジンも208号(10月27日現在)を配布し、これからも続けます。
 今後共、「皆さんの、皆さんに依る、皆さんの為の」あけぼの会であり続けるよう、従来の精神を維持し、無理をしても無茶はせず、前進していく方針です。皆さんの一層のご協力をお願いする次第です。お元気に再会しましょう。

特別寄稿
出会いの旅
家田 欣子     

 今度はどこへ行こうか‥‥。この次は何をしようか‥‥。毎月々々の行事に何時も主人はこう言い乍ら、ここ迄やって参りました。
 初めの頃は、何も分からぬ侭に我が家から車に乗り、サービスエリア迄の時間と距離と交通費を書き記し、食事は別々の料理をとって少しでも安くて美味しいモノを‥‥と、それが15年も続いたとは感無量でございます。
 そして色々な方と出会いました。アルバムを開いてみて、亡くなられた方、遠くへ転居された方、ご病気で行らっしゃれない方、その他色々な方のお顔を拝見していますと、それがずうっとずっと昔の事のように思われて、今はどうして居らっしゃるかしらと、とても淋しい気持ちになって了います。
 始めてから暫くの間は、バス旅行の時など皆さんが帰られた後、今日も無事に事故もなく終える事が出来たと、ホッとするばかりで、旅を楽しむ迄には行きませんでした。又、個性豊かで思い込みの深い方など入会されますと人間関係で困る事もあり、入会には会員二人の紹介が必要という事にも致しました。
 主人は日本が何もない時代から世界を駆け回って仕事をしてまいりましたので、何時も現場主義、念には念を入れてやって参りました。それが、今では旅行業者顔負けの楽しい旅が出来るようになったのだと思って居ります。
 そして会員一人々々のお話を伺えば、小説の主人公になる程色々な思いで、人生を歩んで来られた事と思います。私達二人丈だったら、こんなにも色々な所に行く事は出来ませんでしたし、又、美味しいお食事もいただけませんでした。会員の皆さまあってのあけぼの会と、感謝するばかりです。
 そして又私にとっては、何時も急ぎ足で歩いて居る様な主人との出会いでしたが、少しはスローにして、80歳をゆっくり迎えて欲しいものと願うばかりです。人生の後半に、思ってもみなかった様な楽しい出会いの旅を与えて下さった会員の皆さまと主人に感謝いたして居ります。有難うございました。


特別寄稿
おくのほそ道紀行
新田慎二     

第二回 多賀城から登米まで(平成18年1月14〜15日)
(第一日目)
 多賀城跡は東北本線国府多賀城駅から15分ほどの所にあった。数日前だろうか降り積もった雪が溶けて、低い丘の上の政庁跡はところどころ地面が露出している。心配していた空は曇ってはいるが、雨の気配はなく無風で暖かい。建物があったところに礎石が長方形に組まれている。巨大な赤松が1本天を突いている。坂を下ったところに「壷の碑」があった。高さ約2メートルくらいか、大きな石が覆い堂の中に収まっている。芭蕉は「千歳の記念(かたみ) 」涙も落ちんばかりに感動している。この碑は偽物という説があるが、芭蕉が見たのはこの石であり、わたしたちは翁が見た石を見ればいいし、それに感動すればよいのだ。それにしてもスケールの大きな碑文であり、靺鞨国境との距離までが刻されており芭蕉が感動しないはずがない。
 近くに歌枕「末の松山」「沖の石」があり訪ねる。「契りきな…」の歌は百人一首でおなじみ、寺の裏手に大きな松が聳えている。沖の石は奇岩の重なりでそれほど大きくはない。まわりの池は凍り付いていた。それにしても歌枕とはなんだろう、誰がどうしてこのようなものを歌にしたのだろう、なにも陸奥までこなくても、近くにいっぱいあるのではないか。
 仙石線に乗って塩竃下車、塩竃神社に参る。だらだらの階段を上って行ったが、裏道だったようで、正面から登ると目もくらみそうな急な石段の参道であった。正月の注連縄を焼くどんど焼きの日で参拝客であふれている。屋根に積もった雪が溶けて雫に濡れる。
 塩釜港から遊覧船に乗り松島へ、芭蕉も船で行ったようで、当時から浅い海だったようだ。薄く褐色に濁った海は波がほとんどなく、いたるところに養殖の杭が立っている。海苔とワカメと牡蠣が養殖されていると船頭、島々が姿を現し、あるものは鎧、兜、あるものは仁王、布袋などと名前が付けられている。ほとんどが小さな無人島で、形のよい松が茂り、水鳥が羽を休めている。翁の文はここにいたって最高潮に達し、高揚した格調高い調子が続く。
 上がって瑞巌寺、ガイドに従い見学する。拝観料は700円と高く、ガイド料を入れて千円なり。見所は杉の大木、庫裏、本殿の造りで、戦国武将の作った仕掛けが素晴らしい。正宗はまさに戦国の英傑であり、もう少し早く生まれていたら、将軍になった人物だったかもしれないと言われる。ガイドの説明は簡にして要を得ていたが気になったのは助詞をカットして喋るこの国のなまりだった。「芭蕉(が)通ったのはこの道です」といった具合。今日の旅はここで終わり、電車で仙台に戻り、仙台のホテルに泊まる。夜になって雨、どんど祭の裸参りの若者達が、雨の中を声を立てないよう懐紙をくわえて粛々と行進している。

(第二日)
 6時半、有志の者たちで晩翠草堂を訪ねる。われわれの禅の師、赤根祥道先生が終戦前後、晩翠先生の面倒を見られたところである。「何を教わったかと言うより、食い物を持って行っては感謝されたことしか憶えていないよ」と先生は謙遜されるが、先生が晩翠から学んだのは人への優しさではなかったか。晩翠先生は嘘をついて金を借りに来る啄木にも優しかったようだ。晩翠草堂は青葉通りのけやき並木のなかにあった。広めの庭と平屋建ての木造家屋がひっそりと佇んでいた。祥道先生はわれわれが東海道を歩いている途中で亡くなられた。
 バスが迎えに来て石巻へ、駅前でバスを降り、準備体操、日和山へ登る。60メートルほどの小高い山で山頂に神社のほか芭蕉と曽良の像、芭蕉、山頭火の句碑や宮沢賢治の詩碑、斎藤茂吉の歌碑などがあり、旧北上川の河口の街を見下ろせる。鐘の音が聞こえ、人気のないひっそりとした街が眠っている。川の中洲に石の森章太郎記念館のドームが場違いに銀色に光っている。街なかを北上川に沿って遡り、家並みを抜け約10キロを歩く。風が強かったが、歩くスピードが速く身体は温まった。途中バスが待っていてバスにて登米へ、登米と書いて「とよま」と読んだり「とめ」といったりなかなか難しい。市の名前と町の名前のはたしてどちらがとめでどちらがとよまだったか?奥の細道には「戸伊摩(といま)と云所に一宿して、平泉に到る」とある。
 余談だが、細道には「あねはの松」という歌枕がこの地にあったようだと記すが、あねはとはこの地方の地名で、漢字では「姉歯」と書くようだ。いまお騒がせしている建築士もこの地の出身だそうである。
 まあそんなことには拘らず、登米は美しい明治村であった。名物は油麩で麩を油で揚げたものとか、油麩丼というのもまた名物だそうだと、この地の出身の仲間の解説があった。昼食後街を見物して回り、明治時代に建てられた校舎や民家など保存状態のよい建物を見て、土産物を求め、古川から新幹線で東京に戻った。

雪つもる登米の明治を歩きけり
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