今月のテーマは「やっ太とやっ登の夢」です。
 子供の頃、空を自由に飛びまわったり、スーパーマンになって人助けをしたり、スポーツで大活躍したりした夢を見た経験はありませんか。
 今月はまたやっ太とやっ登に登場してもらい、2人の夢を語ってもらいます。思い切り大きな夢です。
 ありえないお話です。お付き合いいただくのはまことに心苦しい次第です。途中でばかばかしくなったら捨ててください。

やっ太とやっ登の夢

四谷知男   

 やっ太は少年野球のクラブチームに入っています。小学生が加入できるクラブチームです。毎週日曜日にみんなで集まって練習しています。時々他のクラブチームと試合があります。やっ太は4年生になったばかり、まだ試合には出してもらえません。練習のときにチームの中で紅白試合をやることがありますが、そのときは途中から出ることがあります。ポジションは決まっていませんが、野球少年なら誰でも夢見るピッチャーが第1希望です。まだ投げさせてもらえませんが、やっ太は早く上手になって、対外試合に先発ピッチャーで登板したいと願っています。
 やっ登は小学校1年生になりました。幼稚園はママやパパに付き添われて通わなければならなかったのですが、小学校はおにいちゃんと2人での登下校になりました。急に大人になったような気分です。やっ登はかけっこが得意で、幼稚園の運動会で1等になりました。いつもママと一緒に犬の散歩に出掛け、広場で愛犬ポチとおっかけっこをしています。
 雨で野球の練習が中止になった日曜日、やっ太はやっ登と近くのお菓子屋“ドラえもんストア”にお菓子を買いに行きました。ドラえもんストアでは人気まんがのドラえもんにちなんだいろいろなお菓子を売っています。人気は「タイムマシンガム」「ドコでもドアせんべい」「タケコプターあめ」ですが、2人は「もしもボックスチョコ」を買いました。寝る前にこのチョコを食べて寝ると、夢の中で自分の望みがかなえられるというチョコレートです。
「おにいちゃん、今日はこのチョコを食べて寝ようよ」
「うん、ボクはレギュラーになる夢を見るぞ」
「ぼくは、学校の運動会でも1等になるぞ」

1.やっ太の夢は野球のヒーロー
(1)少年野球で先発ピッチャーに
 やっ太はレギュラーになるため猛練習を始めました。練習日だけでなく毎日練習です。放課後はおじいちゃんが練習相手、休みの日はパパをつかまえて放しません。
 4年生になった夏のある練習日、やっ太は監督から声を掛けられました。
「やっ太、キャッチボールでいい球投げているな。ちょっとピッチャーの練習をしてみろ」
 突然のことでやっ太はびっくりしました。そして監督の目の前で先輩のキャッチャーを相手に投球練習を始めました。ゆったりとしたきれいなフォームからスピード豊かな直球がキャッチャーミットに収まりました。信じられないといった感じでキャッチャーと監督は思わず顔を見合わせました。監督はキャッチャーの後ろのアンパイアの場所に立ち、やっ太の投球をじっと見ています。
「カーブは投げられるか」
「ハイ」
 やっ太のカーブは縦に割れる大きなカーブです。キャッチャーはそのカーブをとりきれず、思わず後ろにそらしてしまいました。
「よし、つぎの試合で投げてみろ」
 試合で投げられるのは普通6年生です。たまに素質のある5年生が投げますが、4年生で登板した生徒はいません。やっ太が初めてです。
 次の試合に2番手で登板したやっ太は3回を9人で抑え切りました。
 やっ太のチームはそれまでは勝率が5割をきっていました。ところがやっ太が投げた試合は連勝です。4年生の間は中継ぎか押さえで投げましたが、5年生からは先発ピッチャーとなりました。

(2)高校野球で甲子園5連覇
 やっ太は地元の中学から地元の高校に進みました。中学時代も野球を続け、高校に入ると迷わず野球部に入部しました。やっ太の入った高校は県立高校で、過去2回甲子園に出場したことがあります。しかし2回とも初戦敗退でした。
 やっ太は1年生の夏の大会から背番号は1、チームで1番手のピッチャーとなりました。夏の甲子園大会の県予選は優勝までに8試合を勝ち抜く必要があります。やっ太はすべての試合で先発し、大差のついた3つの試合を除きすべて完投しました。そしてノーシードながら見事県大会で優勝、甲子園に出場しました。
 甲子園では苦戦の連続でしたが6試合すべて完投し、決勝戦では延長18回1対0で大阪府代表校を下ろし優勝しました。1年生投手としてはPL学園の桑田投手が優勝しましたが、やっ太は桑田や江川や松坂の再来とマスコミでもてはやされました。
 でもこれはやっ太の甲子園伝説の始まりにすぎませんでした。2年生の春、夏、3年生の春、夏と甲子園に出場し、すべて優勝で飾りました。甲子園5連覇はやっ太の高校が初めてです。やっ太はそのすべての試合に先発し、ほとんどの試合を完投しました。

(3)プロ野球で賞を総なめ
 やっ太は高校生としてすべての球団からドラフト1位に指名されました。12球団の競り合いはプロ野球のドラフト制度が始まって以来初めてのことです。抽選の結果読売ジャイアンツが獲得しました。ジャイアンツは前年度史上2回目の最下位でした。やっ太を獲得し再起を図るきっかけにしようとしたのでした。
 やっ太は期待通りの活躍をしました。開幕から20連勝、シーズンを40勝1敗で終了しました。1961年西鉄の稲尾が記録した42勝に次ぐ記録です。ジャイアンツはリーグ優勝、日本シリーズにも勝って日本一の座を取り戻しました。
 やっ太はMVPの他に、新人王、最多勝利、最優秀防御率、最高勝率、三振王のタイトルを獲得しました。日本シリーズでは2試合を完封、シリーズMVPにも輝きました。
 MVPと新人王とシリーズMVPをとった新人はもちろん初めてでした。

(4)オールスターゲームで2つの大記録
 入団2年目のオールスター戦は最高得票で選ばれました。過去最多の投票数でした。
 そしてオールスター第1戦に先発投手で登板しました。そこで誰もやったことのない記録を作りました。
 1971年のオールスター戦で阪神から選ばれた江夏豊がセントラルリーグの投手として、パシフィックリーグの9人のバッターから9連続三振を記録しています。この記録に並ぶ投手はそれ以後出ませんでした。1984年のオールスター戦で巨人の江川が8人連続三振を記録しましたが9人目に打たれました。
 江夏の記録に並んだのがやっ太です。オールスターゲームは投手は最大3回までしか投げられません。9人連続ということは対戦相手のバッターすべてを三振に取ることです。やっ太はそれを全員3球三振に取ったのです。1球目、2球目はストレート、カーブ、シュート、スライダー、フォークなどの多彩な投球で、見送り、空振り、ファールでカウントを稼ぎましたが、3球目は全てストレートで勝負し全員空振りの三振に打ち取りました。投げた球数は27球でした。
 そして翌年のオールスターゲームではさらに素晴らしい記録を作りました。やはり最高得票で選ばれたやっ太は第1戦に先発しました。やっ太の記録は3回9人のバッターを1人1球ずつ、合計9球で打ち取ったのです。やっ太は1球目各バッターに打ちやすい球を投げました。バッターはホームランを狙ってその球を強振しました。打ったボールは快音を残して外野への大飛球や内野手を襲うライナーとなってあわやホームランかヒットかというあたりでした。しかし全て野手にファインプレーで取られました。打てそうに見えたボールはほんのちょっとバットの芯から外れる球だったのです。終わってみると投手と捕手を含む野手全員に1つずつボールが飛んでいっていました。キャッチャーフライも大きなあたりでしたが、上に向けて飛んで行ったのでした。

(5)メジャーリーグで伝説の人に
 やっ太は日本のプロ野球で300勝をあげたあと、FAの資格を得てアメリカメジャーリーグのロサンジェルス・ドジャースに入団しました。日本選手がメジャーリーグで活躍するお手本となった野茂が最初に入団したチームです。ドジャースはやっ太の活躍もあってナショナルリーグで優勝しワールドシリーズに出ることになりました。やっ太はシーズン25勝を挙げてMVPを獲得しました。
 ワールドシリーズでやっ太はピッチャーとしてだけでなくバッターとして目覚しい活躍をしました。ロサンジェルスで行われた第1戦に登板したやっ太は相手ヤンキースを完封するだけでなく、3打席連続ホームランを放ったのです。勢いに乗ったドジャースは3連勝しワールドチャンピオンに王手をかけました。そしてニューヨークで行われた第4戦、3対0とリードされていた9回表、2死満塁でやっ太がピンチヒッターで打席に立ちました。1回戦の3連続ホームランを買われてのことです。そして見事、代打、満塁、逆転ホームランを打ちました。その裏をゼロに押さえたドジャースはワールドシリーズ優勝を飾りました。シリーズMVPも獲得、全米の新聞はやっ太の活躍を褒め称えました。いきなり伝説の人になったのです。

2.やっ登の夢はオリンピックで金メダル
(1)小学校の運動会で常にトップ
 やっ登はママと愛犬ポチとの散歩を毎日続けました。そのおかげか1年生の秋の運動会でも1等になりました。やっ登は走るのが楽しくてなりません。学校への行き帰りも歩くのでなく走りたいのですが、集団登下校なので出来ません。学校から帰ったあと走るのもママや学校の先生から危ないから駄目といわれました。そこで学校にいる間に走ることにしました。
 朝早く登校し授業が始まる前に運動場を10周しました。お昼休みと下校前にも時間を見つけては運動しました。
 練習が実を結び、やっ登は6年生までの運動会や校内マラソンはいつも1等でした。
 また体力をつけるため、嫌いだった牛乳やチーズや卵も努力して食べられるようになりました。

(2)中学と高校では駅伝の全国大会で新記録
 やっ登は中学に入り本格的な練習を始めました。毎日近くの沼の周りを走りました。半周で10キロ、1周すると20キロあります。学校のある日は半周、休みの日は1周しました。
 その結果、1年生のときから選ばれて駅伝の県大会に出場しました。そしてやっ登の活躍でやっ登の中学は県大会で優勝しました。やっ登はアンカーを務め、20人を抜いてトップでテープを切りました。今までの記録を大幅に縮める新記録でした。
 そして1年生のときから全国都道府県対抗駅伝の選手に選ばれました。男子の全国都道府県対抗駅伝は毎年1月に広島で開催されます。全長48キロを7区間にわけ2区と6区は中学生が走ります。やっ登は2区を走り区間記録を更新してトップに立ちました。2年と3年も同じ区間を走り毎年区間記録を塗り替えました。
 やっ登もやっ太と同じ県立高校に入学しました。高校でも陸上部に入り駅伝選手として活躍しました。やっ登の活躍でやっ登の高校は県大会で優勝しました。都道府県対抗全国高校駅伝は毎年12月に京都で行われます。マラソンと同じ42.195kmを7区間にわけ1区が最長の10kmです。やっ登は1年生から3年生まで1区を走り毎年区間記録を更新しました。そして3年生のときは見事優勝しました。

(3)箱根駅伝で4年連続坂登りの新記録
 やっ登は地元の大学に入学し、迷わず陸上部に入部しました。大学生活の目的は箱根駅伝を走ることです。
 やっ登の大学は駅伝名門校ではありません。予選会を勝ち抜く必要があります。予選会は毎年10月東京都立川市の昭和記念公園で行われます。各大学の上位10人の選手の合計記録の良い大学から9校が選ばれます。やっ登の記録がものを言って何とか箱根駅伝に出られることになりました。
 箱根駅伝は往路108km、復路109.9kmのコースを2日に分けて走ります。そのうち5区は小田原−箱根間23.4kmの最長で標高差800メートル以上の山登りというもっともきつい区間です。この区間は平成18年からコースが2.5kmも延び最長区間になりました。やっ登は4年間5区を走り毎年区間記録を更新しました。やっ登の記録はそれまでの記録を5分も短縮する驚異的な記録でした。そして最後の年にはやっ登の大学が優勝を飾りました。他の選手もやっ太に感化されて成長したため優勝したのでした。

(4)卒業後マラソンに転向し5連覇
 大学卒業後やっ登は陸上部のある有名な会社に就職しました。そしてマラソンランナーとして華々しくデビューしました。初めて参加した東京国際マラソンで世界最高記録を作ったのです。そしてその後2年間に福岡国際マラソン、別府大分毎日マラソン、びわ湖毎日マラソン、ボストンマラソンに出場しすべて優勝しました。走るたびに新記録でした。
 やっ登が出る大会はペースメーカーとテレビ中継泣かせとなりました。ペースメーカーは3〜4人で30キロくらいまで選手を引っ張ります。記録を意識して一定のペースで時を刻みます。ところがやっ登はペースメーカーより前を走ってしまいます。やっ登の走るスピードにペースメーカーがついていけないのです。ペースメーカーは2位以下の選手の先頭で走るしかありませんでした。
 テレビ中継はやっ登でなく2位争いを映すようになりました。やっ登を映しても面白くないからです。スタートして30分もするとやっ登の後に選手の姿は映らないのです。

(5)オリンピックで5千メートル、1万メートル、マラソンに金メダル
 やっ登はマラソンと1万メートル、5千メートルのオリンピック選手に満場一致で選ばれました。外国からの一流の招待選手が参加したマラソンでの5連覇は、オリンピックの金メダルを約束したようなものでした。国民の期待は一身に集まりました。
 人間機関車といわれたチェコスロバキアのザトペックは、1948年のロンドン大会で1万メートル、1952年のヘルシンキ大会で5千メートル、1万メートル、マラソンに優勝しました。顔をしかめ苦しそうに力いっぱい走る姿は私たちの心を捉えました。(阪神の伝説のピッチャー村山実のザトペック投法は、ダイナミックなフォームで顔をしかめながら懸命に投げる姿がザトペックに似ていることから来ています)
 やっ登はそのザトペック以来の偉業を達成しました。マラソンではそれまでの世界記録を5分以上短縮する夢の記録、2時間ジャストの記録を出しました。1万メートル、5千メートルでも世界記録を大幅に破りました。世界中から集まった報道陣は其の偉業を世界中に報道しました。
 国民はやっ登は長距離だけでなく、ほかの種目の100m、200m、110mハードル、400m、400mハードル、800m、1500m、3000メートル障害のどれかに出ていたらもっと金メダルが取れたのではないかとうわさしました。

「おにいちゃん、いい夢見た?」やっ登が聞きます。
「最高の夢だった。やっ登はどうだった」やっ太が答えました。
「ボクも楽しい夢だった。また『もしもボックスチョコ』を食べて寝ようかな」
「駄目だよ。練習しかないよ。チョコはやめよう」
「そうだね。チョコはやめて走ることにする」
 2人は少しでも夢に近づくため、努力することを誓い合いました。

 読者の森正男さんより下記のご提案がありました。大変ありがたいお申し出です。新田宛メール、FAX,お便りなどいただければ光栄です。
 100号に掲載させていただきます。
一読者より提案します
 3月27日に届いた手賀沼通信が97号になりました。あと3ヶ月後には100号になります。毎月欠かさずに、よく続いたものだと感心しています。新田さんの才能、努力、根気には頭が下がります。
 そこで提案ですが100号発行に合わせて、皆様のお気持ちを紙面を借りて表現しませんか? ご意見でも、ご提案でも、ご感想でも、お祝いの一言でも、何でも結構だと思います。皆さん宜しくお願いします。

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