テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために                       1999年5月20日発行
手 賀 沼 通 信 (第14号)    〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:y-nitta@mvc.biglobe.ne.jp)             新田良昭

  今月のテーマは、「町づくり」「村おこし」といったことです。
  退職して家にいることが多くなると、自分の回りのことについ目がいくようになってきます。特に地域との関わりを深めたいと思っている人には、いま自分が住んでいる町は、「住みやすい町なのか」とか、「町のあり方はこれでいいのだろうか」などということが気になります。
  最近山梨県豊富村と我がふるさと伊予市への旅行をして気のついたことと、あるフォーラムに出席して感じたことから「町づくり」について考えてみたいと思います。


「町づくり」について考える

1.「住みやすさ」を求める私たち

  評判が悪かったため廃止されましたが、数年前までどこかの省庁からお役人の選んだ「住みやすい都道府県のランキング」が発表されていました。発表された最後の年は、たしか北陸地方の各県が上位にランクされ、埼玉県が最下位、千葉県が下から2番目だったように記憶しています。埼玉県知事が「おかしい」と抗議したようでしたが、私もその時やや感覚的でしたが、イメージとして冬の間雪や雨が降り続くなんとなく暗い感じの北陸地方が、なぜ好天に恵まれる関東地方より住みやすいのだろうかと単純に考えたものでした。その時の解説では、いろいろな要素を数値化するとそうなるのだとのことでした。
  「住みやすさ」は気象、環境、景観、教育の場、雇用の機会、交通の便、安全性などその土地の条件だけでなく、そこに住む人の家族構成、年齢、健康状態、生活パターンなどによって判断の基準が変わってきます。また、各人の好みや価値観などによっても左右されます。それを数値に変換して県の順位を決めることが無理だったのではないでしょうか。地域とか市町村とかわが町といった単位で考えることなのでしょう。
  住みやすさを考える時大切なのは、道路とか設備とかいったいわゆるハードウェアだけでなく、制度とか仕組みとかいったソフトウェアも忘れてはなりません。特にこれからは介護保険に対応する介護サービスや福祉サービスが脚光を浴びてきます。なお介護サービスは原則として市町村単位で行われます。
  また、そこに住む人の心の温かさや雰囲気なども重要なポイントでしょう。

  住みやすさとは利便性と自然との調和だという人もいます。21世紀は住みやすさを求めて、住処を変える人が増えるのではないかと感じています。

2.変わりゆくわがふるさと

  4月の中旬、父の7回忌のため4年ぶりに里帰りをしました。私のふるさとは四国愛媛県の伊予市、県庁所在地の松山市から西へ10キロほどの人口3万人あまりの海と山に挟まれた小さな町です。花かつをの「ヤマキ」と「マルトモ」の本社や工場がありますが、漁業と農業と商人とサラリ−マンで構成される典型的な地方都市です。
  しばらくぶりに見たふるさとは、大きく変わりつつありました。小さな漁船が波打ち際に引き上げられていた砂浜は埋め立てられて、港湾と広大な埋め立て地に変わっていました。五色浜という美しい名前の自然の海水浴場は人工海浜ときれいな施設を備えた人工の海水浴場へ変身していました。山のふもとに四国を縦貫する松山自動車道のインターチェンジができ、田んぼの中にあった国道の両側には新しい建物が並んでいました。私の実家は伊予市の旧市街地の中心にあり、伊予鉄の駅も近く以前は商店が軒を連ねていましたが、道が狭いのと駐車場がないため買い物客が減って、今では店をたたむ商店が増え、しもた屋と皮肉にも駐車場が目に付く町並みになってしまいました。
  多くの地方都市で同じ様な現象が見られることと思いますが、巨額の公共投資に支えられた開発は、容赦なく町の形を変えてゆきます。道路が整備されて車なしでは考えられない生活は、物の流れ、人の流れを大きく変え、新しい町の姿を生み出します。
  たしかに便利にはなりましたが、子供の頃に日の暮れるまで遊んだあの美しい砂浜や小川やレンゲ畑などは、はるか昔の思い出だけになってしまいました。おそらく以前の夏祭や秋祭りのあの賑わいもどこかへ行ってしまっていることと思います。

  久しぶりにふるさとを訪れた感想は、懐かしさと共に寂しさでした。昔のあの海や山や野原のキラキラした輝きが、道路や建造物で無情にも消し去られたという感じでした。人は勝手なもので、ふるさとにはそこに住んでいない無責任さから、住みやすさより自然の美しさを求めるのかも知れません。

3.「21世紀のふるさとづくり‘99」に出席して

  4月14日九段会館で開催された全国55新聞社の主催する「21世紀のふるさとづくり99」に出席しました。「地域の自立と共生を目指して」をテーマに、講演会やパネルディスカッションなどに加えてふるさとイベント大賞の表彰式とふるさとづくりに成功した2つのケースの紹介がありました。
  全国から応募があった163のイベントのなかから7つのイベントが受賞していました。大賞を受賞した、しまなみ海道の島の1つ因島の「因島水軍祭り」もすばらしいと感じましたが、特に面白いと思ったのは、スポーツ文化部門賞の「とうもろこし3万坪迷路」です。これは北海道の本別町という人口1万人の町が、トウモロコシ畑3万坪に総延長8キロメートルの迷路を作って、8月に開催する町をあげてのイベントです。地域の特性を生かした北海道ならではのスケールの大きいイベントで、参加者は全国から大人も子供も集まるとのことでした。
  また、ふるさとづくりに成功した2つの話も大変興味深いものでした。最初のケースは徳島県上勝町という山深い人口2300人ほどの小さな町で、人づくりと産業振興を成し遂げた例でした。キャッチフレーズは「いっきゅうと彩の里・かみかつ」です。「いっきゅう」とは町民が一休さんのように、問題(Question)を考え、知恵を使って町づくりを推進することだそうです。「彩の里」とは明るい夢に彩られた町づくりを意味しています。町長さんが強力なリーダーシップを発揮されました。「1Q塾」「1Q運動会」で意識改革を図ると共に、頭脳と体力による町作り運動を実施しました。また、町が主体となって町づくりと産業振興のための4つの会社を作りました。「いろどり」事業では、山に生えている木の葉っぱや花や草木から食膳の飾りに使う作品を作り、商品に仕立てました。全国の町村から多くの人が視察に来ているとのことでした。
  2つ目のケースは沖縄の宮古島での、トライアスロンによる島の活性化の話でした。昭和60年に第1回の全日本トライアスロン宮古島大会を開いてからの島の発展ぶりがよく理解できました。

  これらの「町づくり」の成功に共通することは、明確なビジョンとリーダーの強力なリーダーシップと住民あげての協力があってうまくいったということです。

4.我孫子市の未来を考える

  さて手賀沼通信のふるさと「我孫子市」の未来はどうなっているのでしょうか。
  ここにきて、駅前の整備事業が実施されつつあります。私が我孫子に越してきた25年くらい前から、駅前をきれいにする話がありましたが、実現するのは四半世紀をすぎてやっとです。遅れた理由は分かりませんが、行政の力も住民の協力も足りなかったのではないかと感じています。
  もう1つの懸案は、湖沼の汚染率日本ワースト1の記録を更新しつつある手賀沼をきれいにし、なくなりつつある自然を保護することです。
  手賀沼の水質浄化に役立つ北千葉導水事業、水質浄化のための各種の実験や植生浄化施設の整備、手賀沼の景観を守るための「手賀沼沿い斜面林保全条例」の制定などが行われていますが、全体として我孫子がどうなるのかはなかなか見えてきません。首都圏に組み込まれて勤め人のベッドタウン化している都市では、地方都市と比べると特色のある町づくりは難しいのかもしれませんが、市民の願いは住みやすさと自然の美しさを兼ね備えた町にすることでしょう。私の個人的な好みから言えば、多少不便でも静かできれいな町のほうがいいと思います。そして住民が一体となるようなイベントを見つけたいものです。

  いずれにしても、明確な町づくりのビジョンとリーダーシップと住民の協力は不可欠です。そのための協力は惜しまないつもりでいます。


山梨県豊富村での農村との交流会

  43日と4日の両日、山梨県豊富村を訪れ村の方々との交流会を楽しみました。私が加入している東京都中高年勤労者福祉推進員協議会(東京都中推協)のなかでリクリエーションを担当するサークルの余暇研究会が企画した「自然と親しむ農村体験ふれあい交流会」でのことです。私たち一行は東京都中推協の会員19名、内3名が女性で、全員中高齢者です。

  豊富村は甲府盆地の南に位置し、甲府駅からバスで約30分の丘陵地帯にある広々とした明るい農村です。甲府盆地と南アルプスを一望することができます。以前は日本でも有数の養蚕地でしたが、今は桃とすももの栽培に変わりました。しかし村の別名を「シルクの里」と名づけて昔の面影を残しています。私たちが訪ねたときは桃とすももと桜の花が満開でした。
  甲府の駅から豊富村まで役場のマイクロバスでお送りいただきました。道の両側に咲いているピンクの桃の花と白いすももの花に見とれているうちに、シルクの里公園にある「シルク工芸館ふれあい館 シルクふれんどりぃ」につきました。「シルクフレンドリぃ」は瀟洒な2階建ての建物です。最近では、農村や山村に近代的な公共の建物が建てられることが不思議ではなくなりましたが、ここもその1つかもしれません。1階にはホールや特産品の展示室の外に、陶芸工房、繭工房、紬工房、それに食堂をかねた調理研修室などがあり、2階は温泉と宿泊室になっています。隣には同じ様に立派な建物の郷土資料館がありました。
  食堂で企画課長ほか村役場の方々のあたたかい歓迎のセレモニーがありました。村役場の企画課総出という感じです。交流会はパック旅行などと違って、観光ではなく地元の方とのコミュニケーションを1つの大きな目的としています。万全の態勢で受け入れてくださっているのが感じられました。
  一休みしたあと陶芸づくりに挑戦です。19人が4つのテーブルに分かれ、各テーブルには村の陶芸倶楽部のご婦人方が先生としてついています。1人約1キロの粘土と細工用の道具がテーブルの上に置かれていました。時間がないためほとんどの人が鉢のようなものを作ったようです。出来上がった作品は素焼きのうえ、それぞれ希望の色付けをされて本焼きをして約2ヶ月後に送られてくるとのことでした。その後は温泉に入りました。温泉はちょっと離れたところから出ている鉱泉を沸かしたもので、浴室からはみごとな田園風景の広がりを眺めることができます。この温泉は村の人や近郷からの観光客も気軽に利用しているようでした。

  夜は村の人たちとの懇親会です。地元の料理上手な主婦の方々の集まりの味倶楽部の手づくりの料理で、新鮮な野菜と山菜の天ぷらや煮物、手製のこんにゃくやよもぎもちなど、山里の香り豊かなものでした。ビールや日本酒のほかに豊富村特産のトウモロコシから作ったワインや焼酎など、都会では味わえない飲み物も楽しむことができました。そして夜遅くまで村役場の職員、味倶楽部のメンバー、村の旧家の長老など豊富村の方々といつまでも話が尽きませんでした。長老のマッチ棒と指の爪によるパーカッション演奏まで飛び出しました。

  翌日は朝630分から、シルクの里公園で太極拳、講師は中推協の仲間二人ととよとみ太極拳倶楽部の女性リーダーです。とよとみ太極拳倶楽部のメンバーの方も大勢参加しました。朝のさわやかな冷気が二日酔いをいっぺんに醒ましてくれました。
  朝食前のわずかな時間を利用して一人で村の名所の千本桜まで散歩しました。雪をいただいた南アルプスと八ヶ岳がはるかむこうに顔を覗かせています。散歩道は誰も歩いていません。車にも会いません。一組の老夫婦があざやかなピンク色を見せている桃の花を摘果しているのを見かけただけでした。
  朝食後は郷土資料館の訪問です。広々とした建物で、昔の農家で使っていた農具や養蚕の道具など興味深い展示品を見ることができました。2階にはハイビジョンシアターがあり、豊富村のPRビデオと蚕の一生のビデオを楽しみました。500軒の養蚕農家は今では50軒くらいしか残っていないそうですが、桃とすももの里への見事な変貌ぶりと過去の遺産と伝統を大切にして貴重な繭をを工芸品に活かしている様子がよく理解できました。
  そのあと、マイクロバスでほうれん草とふき採りに案内していただきました。昨夜の懇親会の席で急遽決まったことです。ほうれん草畑で「いくら採ってもいいですよ」といわれたためみんな大張り切りで収穫して、2袋ずつ両手いっぱいのほうれん草のおみやげとなりました。帰ってから茹でるととても柔らかく、おひたしやごまあえ、卵とじで3日がかりで美味しくいただきました。娘や友人にもおすそわけができました。ふきはまだちょっと時期が早ったようですが、天ぷらには小さいのほうが美味しいとのこと、ふきのとうも食べごろのサイズでした。

  お昼はシルクの里公園に戻り、満開の桜の下で心づくしのバーベキュー、今回のハイライトです。山梨県の特産の「ほうとう」打ちの名人も登場し、手打ちのほうとうや、焼き肉、採ってきたばかりのふきやつくしやたらの芽や山うどの天ぷらなど豪華な料理で、シルクの里のお花見をこころゆくまで楽しみました。
  帰りは「道の駅とよとみ」でお土産を購入し、甲府駅まで企画課長の運転するマイクロバスで送っていただき、楽しい思い出を胸に帰途につきました。

  交流会とはいうものの、一方的に豊富村の皆さんにお世話になりっぱなしの2日間でした。私たち都会の住人にとっては、豊かな自然に恵まれた生活は、うらやましい限りですが、ここでも農業の後継者不足は深刻で、若者は東京など都会に出ていってしまうとのことです。村の公共の建物を近代的にし、村の生活を豊かにすることは、若者のUターンをねらうためでもあるのかもしれません。
  帰って来てなぜこのように歓待していただいたのだろうかと考えました。逆の立場になって私たちが農村の方々を受け入れることを考える場合、おもてなしできるものがあるでしょうか。
  これは中推協の世話役の方の広いネットワークのおかげもありますが、元はといえば豊富村の「町づくり」「村おこし」の思想から生まれたのではないかと思いあたった次第です。


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