テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために      1999年12月20日発行      新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第21号)         〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:y-nitta@mvc.biglobe.ne.jp)                 新田良昭

  いよいよ1999年も今月でおしまいですね。
  今年は金融システムが大きく変わりました。今まで横並びの護送船団方式が幅を利かせていた業界にようやく本格的な競争の原理が入ってきました。また産業界全体にリストラの嵐が吹きあれ、思いがけない倒産や大型合併や外資との提携などがありました。政治だけは旧態依然としていますが、経済をとってみればまさに変革の時代です。
  そして来年は2000年代という新しいミレニアムを迎えます。1999年から2000年に切り替わるときに、ちょっと気がかりな2000年問題がありますが、おそらく過ぎてみれば騒ぎすぎたかなということになっているような気もします。
  ところで来年4月からは高齢化社会への対応のために介護保険が始まります。現場では何とかいいサービスをと頑張っていますが、自自公の横やりで先の見えない状況になっています。ただいずれにしても後退は出来ません。高齢者の豊かな生活のための手賀沼通信も、来年はもっと視野を広げて、いろいろの問題に取組んでみたいと考えています。

  今月は特にテーマを設けず、今まで投稿いただいた3通のエッセイの紹介で、今年の締めくくりとしたいと思います。  最初は手賀沼通信第17号にも投稿いただいた森さんのエッセイです。森さんはいろいろなボランティア活動をされていますが、その中で子供たちに奇術を教えた体験を書かれています。
  2つ目は第18号に載るはずだった原稿です。第18号では健康をテーマにまとめましたが、実はガンを克服した私の弟にも体験談を依頼していました。弟からは18号に間に合うよう送ってくれていたのですが、電子メールの原因不明の通信ミスで届きませんでした。18号を出した後その事実が分かったので再度送信してもらいました。ここにあらためてご紹介したいと思います。
  最後は手賀沼通信第20号の海外旅行の記事を見て、ご自分の体験を送ってくださった大倉さんの旅行記です。大倉さんとは日本アイ・ビー・エムで一緒に仕事をさせていただきましたが、今では私と同様定年後の生活を楽しまれています。

特別寄稿−1
感動をありがとう                                   森正男

 平成5年5月にマジックの会を結成しました。戦前からマジックを趣味にしていた石川喜一さんを指導者に招き、他の会員は全くの素人ばかりの会員10名が参加してスタートを切りました。毎月第1土曜日、第3土曜日の2回例会を行い練習に励んでいます。始めのうちは趣味の会として発足しましたが、発表の場を求めてボランティア活動を行う様になり、試行錯誤を繰り返しながらの6年間でしたが、最近では敬老会、病院の老人病棟、特養老人ホーム、親子会、障害者施設等を訪問して地域の皆さんとの交流が出来るようになりました。
 ボランティア活動をしていて一番の喜びは観客の反応があって会場が一つになって盛り上がる時です。そういう意味では、学校の親子会が最高です。昨年の12月柏市中新宿の親子会に招かれた時の様子が印象に残っています。
 会場の光が丘小体育館に入ると可愛い子供達の元気な声に圧倒されました。マジックの前半は子供達も参加してもらい、楽しい雰囲気を醸しだし会場が一つになって盛り上がりました。後半は親子会の希望を取り入れて、種明かしの時間にしました。参加者180名を5ツのグループに分けて私達が各グループに入って教えることにしました。
         2個のスポンジボールを左右の手に1個づつ入れたつもりが手を開いてみると右手に2個入ってました。
         色の違う2個の輪ゴムを親指を除いた4本の指の各々2本の指に掛けアッと言う間に入れ替わりました。
  子供達が瞳を輝かせて一生懸命練習して、次々と出来るようになり、出来た、出来たとあちこちで声が上がり、元気な子供達に再度圧倒されたところで時間になり、最後に子供達の代表からお礼の言葉をいただき、一同感激のうちに終了しました。
 年が明けて新年早々に柏市中新宿の親子会から分厚い封筒が送られて来ました。写真でも送ってくれたのかと開封して見るとビックリしました。親子会の父兄の役員の方から、その後の子供達が家庭や友人達と、種明かしで習った成果を披露して楽しんでいるとの礼状と共に、子供達からのメッセージがぎっしり詰まっていました。小さな色紙が97枚も出てきたのです。それぞれクリスマス会の感想を一言づつしたためてあり、その時の場面を彷彿される思いでした。97名もの子供達が心を込めて書いてくれたことにすっかり感動してしまい、97名全員に返事を出しました。自分達のささやかな行動がこんなに喜ばれて、お互いに心のキャッチボールが出来たことに感謝します。


特別寄稿−2
ガンを克服して                            新田慎二                                                
 会社の健康診断で胃がんが見つかり、5/6を切除してもう4年になる。5年間はまだ経過観察中ということで、まだ開放されたわけではないが、ほとんど以前と変わらぬ生活するにいたっている。胃がほとんどなくなったため、食事量は減ったが、山歩きは以前と変わらぬし、酒も同様に飲んでいる。本人はそう思っても、会う人は「お体は大丈夫ですか?」などと言うので、抵抗感を感じているこの頃である。
 4年もたったので、当時の記憶は薄くなってしまったが、良い機会であり当時のことを思い出しながら書いてみたい。

1 ガンの告知は立ち話

 バリウムのあとの胃カメラの結果は異型細胞が見つかったということであった。医師の判断は「疑わしきは切りましょう」ということであり、言われるまま入院してしまった。病院は信濃町にある大学の付属病院であった。入院はしてもなんとなく手術はしたくなかった。そのころ同じ病院の先生で「ガン検診などはムダである」といってベストセラーになった本が病院の売店にあったりして、ガン細胞がないならば手術しないと言う気持ちが強くなっていたが、そのむなしい期待は若いドクターの一言で打ち消されてしまった。「ガン細胞が見つかりました。切りましょう」と廊下を歩きながらいう。そのペースにのって手術することになってしまった。

2 手術は簡単だったが

 手術の前に家族が集まった。息子たちと一杯やりながら、自覚症状のない病気で手術を受けることにすっきりしないものを感じていた。
 手術台に乗り、医師のいうままに数を数えているうち訳がわからなくなり、気がつけば集中治療室だった。病室にかえってその日から歩かされ、術後は順調そのものであり、2週間で退院ですかね、と言う段階で腸閉塞を起こしてしまった。下痢が続くので下痢止めの薬をもらったところ、その日からぱったりと便通がなくなり、腸はまったく動かなくなってしまった。それからが厳しかった。鼻からかなり大きなホースを突っ込まれ、1週間入れっぱなしとなり、薬剤の投入と排泄物の回収を行うこととなってしまった。あまりにもきついので再手術をお願いし、医師もこれでだめなら手術しましょうという途端、腸は開通した。うれしくて涙が出た。

3 ガンをどううけとめるか

 ガンです と言われたとき「ああやっぱりそうか」と妙な納得感があったのも事実だ。母方の祖父が胃がんで亡くなっており、三大成人病のうち自分は何になるのだろう?と考えたことがあったが、その他のデータもあわせて「ガンになる」という感覚を持っていた。生命保険も満期となり、ガン保険を躊躇せずに選んだのもこの感覚によるものだった。どうせ何かの病気になるのなら、チェックをしながらきめ撃ちするのも方法だと思う。
 幸い80才までまだ20年近くある。意思と身体が同じレベルで動く時間が残されている。やりたいと思ったことはとにかくやってみる、との価値観を大切にしていきたいと思っている。


特別寄稿−3
ボストン・メープル街道・ナイアガラ旅行記                                               大倉明治

  「『晩秋のニューイングランドボストンとナイアガラの滝6日間  ご案内状』過日、関係者立ち会いのもと抽選の結果、あなた様におかれましては、標記旅行への参加資格を獲得されましたので、ご案内状をここに送付させていただきます。」

   9月に入って間もなく、こんな手紙が舞い込んできた。旅行会社からである。8月半ばに横浜ベイサイドマリーナのアウトレットショップに買い物に出掛けたとき、入口にこの旅の応募用紙が置いてあり、それに記入して、家族の名前で3枚出していたが、その1枚が当たったのであった。
  このツアー案内に、もう1枚別のツアーが同封されている。見ると、1日多いがカナダのメープル街道行きが加わっている。6日間ツアーは何回かの食事が自前だったり、名所の観光は自分で手配、・・・となっており、乗り物の手配などが面倒なこと、加算費用もかかる、など考慮した結果、7日コースの方が魅力的に思え、こちらに決めた。
  日程は、10月8日午後5時半に成田を出発、ボストン着は同日午後5時半、ボストンで2泊した後モントリオールで2泊(ケベックとの往復あり)。そしてバッファローからナイアガラフォールに行きそこで1泊。13日朝バッファロー発で14日午後3時半成田着というものであった。
  メインのプログラムは、ボストンは美術館とシーフードレストラン、モントリオールはナイトクルーズ・ディナーとメープル街道、そして、最後にナイアガラの滝である。北米・カナダは紅葉が始まっており、魅力的な内容の組み合わせであった。
  
  「そんなもの持っていくのはおよしなさいよ」と、家内が言う。私が旅行に持っていく釣り具を揃えていた時のことである。今まで私は、国内であろうが海外であろうが必ず携帯用の釣り具一式を持参している。何十回のうち2回しか使ったことはない。そして釣果はゼロ。しかし決して諦めないのが究極の釣り師(自称)である。いつどんなチャンスがあるかもしれない。今回のような観光旅行の準備は、これまでの仕事の出張とは違い、何となく心が弾む。今回の旅行用に、ウィンドブレーカー兼用ジャケットを買った。軽くて折りたためば小さくなり、実際に旅では大変重宝した。パスポートやデジタルカメラ、ちょっとした着替えが入れられるショルダーバッグも買った。私が自分で用意したものは、釣り具の他に、水着、ゴーグルなどの水泳用具一式、和英・英和両用の電子辞書、「おくのほそ道」参考書であった。着替えなどは一切家内が用意してくれた。書類を入れることはなかったので、海外旅行にいつも使用していたスーツケースはまだ随分隙間があった。家内は家内で着々と準備を進めていた。男よりいろいろ持参するものが多いようだ。家内のスーツケースは、それほど小さくはないがぎっしりと詰まっていて重たかった。中身は分からない。


   ツアーのメンバーは総勢23名、大半が熟年の夫婦連れである。しかもほとんどがすでに何度も海外旅行を経験ずみとのことであった。予定の時刻どおりに成田を出発した。
   ボストンはアメリカ建国の舞台となった所で、特にビーコン・ヒルは当時の面影をそのまま残す風情ある街である。チャールズ川をはさんで対岸には、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などの学園都市ケンブリッジがある。あちらこちらに大勢のアメリカ人観光客が見られた。
   クィンシーマーケットに寄ったあと、本命のボストン美術館に行く。この美術館はルノワール、マネなど印象派の作品、エジプトのミイラ、浮世絵を始めとする日本の美術品など幅広いコレクションで有名な大美術館で、毎日大勢の人が見に来ている。1階と中庭園、2階があり、アジア美術、エジプト美術およびギリシャ・ローマ美術、ヨーロッパ絵画および装飾美術、アメリカ絵画および装飾美術に分かれて展示されている。自由時間の2時間ではとても見きれない。あと1時間というところで、大急ぎ印象派の部屋を探し、やっとたどり着いた。マネ、モネ、ルノワール、スーラなど有名な絵を実物で見ることができたのには感激した。意外だったのは、特別な場所を除いては館内が撮影自由であったことである。フラッシュを焚く必要がないほど室内は明るい。
   夕方、ボストンで一番高いジョンハン・コック・ビルの最上62階にある360度の大パノラマの眺望室から、ボストン市街を見た。夕闇が迫りくるなか、チャールズ川に浮かぶヨットの白帆、深い木立に囲まれた家々、そんな景色はなかなか風情があった。<今、アメリカに来ているのだ>と、実感した。

ボストンからはシカゴ経由でモントリオールへ行った。モントリオール空港では、迎えに向かっていたバスが故障し、替わりのバス到着するまで暫く待機。やっと来たバスで早速市内観光をする。この日10月10日(日)、こちらはThanks Giving Day であり、3連休の中日のため人出がかなり多い。高台にある雄大なサン・ジョセフ礼拝堂、モントリオールで一番高い山モンロワイヤル公園、セリーヌ・ディオンが結婚式を挙げたという、美しいステンドガラス、荘厳な雰囲気のノートルダム大聖堂を見物して回った。
   夜は、セントローレンス川のナイトクルーズでシャンソンを聴きながら、ディナー。モントリオール博の時のパビリオンや、観覧車、ジェットコースター、灯かりがついた民家、遠くに見える高いビル、ライトアップされた橋などが両岸に次々と現れてくる。折から降ってきた雨も風情を加えていた。
   翌朝は、楽しみにしていたローレンシャン高原の紅葉見物である。ケベックまでのバスドライブで約3時間、その間に繰り広げられたメープルの紅葉は圧巻であった。道の両側をメープルの木立が延々と続き、ところどころにあるハゼの木の赤が興を添える。朝には立ち込めていた霧がいつしか晴れ、昼の太陽の明るい陽射しのもとで紅葉も色が変化する。デジタルカメラでの撮影を忘れるほど夢中になって外を眺めたことであった。

ケベックはセントローレンス川に面し、城壁に囲まれた旧市街がとてもロマンチックな町である。戦場公園と要塞跡を見物して、シャトー・フロントナックというお城のホテルで昼食となった。そこから見えるセントローレンス川の風景がきれいである。また、青空のもと、街のあちこちで見られた紅葉が美しかった。街の雰囲気や美観を保つために、政府はいろいろ施策を講じている。古くからの建物が多く見かけられたが、今までの家を建て替える場合、必ず土台の石は残すことになっているそうだ。大抵の家には芝生の庭がある。この庭の芝刈りを忘れようものならすぐに作業員が来て芝を刈ってしまう。そして、その家に高い料金が請求されるとのことである。

ケベックからは鉄道でモントリオールに戻り、翌朝空路でバッファローへ。バッファローからバスで再度カナだ入国し、レインボーブリッジを通ってナイアガラ市に到着。世界一有名なナイアガラ滝は、上品なアメリカ滝、豪快なカナダ滝の2つがある。膨大な水量がゴーゴーとうなり声を上げている。ナイアガラ観光船「霧の乙女号」にのってアメリカ滝の前を通過した時には、きれいな虹がかかっていた。「霧の乙女号」でカナダ滝のすぐ下まで近づくことができた。すごい水滴が降ってくるので、写真を撮るのもままならなかった。
   近くの公園でもあちらこちらに紅葉が見られ、壮大な滝に加えてきれいな景色も楽しめた。
   夜はスカイロン・タワーでディナーであった。レストランの床が緩やかに回転し、360度の夜景が楽しめるようになっている。夜に見た滝は、ライトアップがされていて壮観であった。ついビールのお替わりを重ねてしまった。泊まっているホテルのすぐ隣りがカジノだという。ディナーのあとに寄ってみたかったが、これまで寝不足だったせいか眠くてたまらず、寝てしまった。翌朝、カジノに行った人に聞いたら、スロットマシンで儲けたという。惜しいことをした。

 「皆様、大変お疲れ様でした。無事旅程を済ませてまいりました。皆様のご協力のお陰と感謝申し上げます。ただ、旅はこれで終わりという訳ではありません。どうかご自宅に到着されるまでは充分お気をつけてお帰りくださいませ。」
   ツアー行程の最終日10月13日、ナイアガラからバッファロー空港に向かうバスの中で、添乗員石川さんよりあいさつがあった。安堵と心残りの気持ちを交錯させながら、バッファロー空港に向かった。
   振り返って見れば、いろんな意味で楽しくリラックスできる旅であった。会社の出張と違って仕事のことを考える必要はない。旅行社の添乗員がいるので、乗り物や宿の心配も不要。団体は知らない人同士なのであまり干渉することも、されることもなくマイペースで過ごせる・・・などでストレスから開放されたノンビリ旅になった。添乗員の石川さんはとても気配りのある方で、よく面倒をみてくれた。帰国が1日遅れる旨、旅行社からすぐに家に連絡もされていた。今回家内が一緒で、荷物の準備や途中での整理、パッキングなどを手伝ってくれたので大いに助かった。
   遠距離の移動は飛行機で9便、カナダで1回だけ電車利用、空港とホテルの間や市内観光などはすべてチャーターバスで移動。これは大変楽であった。ホテルを5時半に出発すること2回、市内観光などでせわしない移動もあったが、限られた日程で盛り沢山のメニューでは仕方ないだろう。アメリカはハブ方式の航空路線なので、どこへも直行便で行ける訳ではない。飛行機に乗る回数が多く、機内や空港で過ごす時間が結構多かった。ボストンからモントリオールはシカゴ経由、モントリオールからバッファローはニューヨーク経由、バッファローからはシカゴ経由で成田へ、という具合である。
   アメリカでは移動の度に、時差による時計の時刻合わせが必要になった。せまい日本では考えられないことである。時差の影響はそれほどなかった。空路での移動は全て2時間以上と長時間であったが、恩師を入れて学生時代からの仲間と取り組み中の「おくのほそ道」の俳句英訳作業をしたので退屈することはなく、むしろ有意義に過ごせた。ただし、持参した辞書の限界もあって、出来栄えは今一つであったが。
   食べ物は家内も私も順応性があり、全く苦にならなかった。その中でボストンの豪華ななロブスター料理、モントリオールでの雰囲気あるナイトクルーズでのディナー、ケベックでのお城レストランでの洒落た昼食、ナイアガラでのスカイロンタワーでのファンタジックなディナーは強く印象に残った。
   生活面で戸惑ったのは、アメリカは日本と一緒だが、カナダでは水道の蛇口のひねり方が違っていた。両手とも、手前内側にひねると水が出て、外にひねると止まる。これはフランス式なのだろうか。
   期間中、新聞やテレビは殆ど見なかった。たまたま点けたテレビのニュースで、大リーグ・プレーオフでレッドソックスがインディアンスに勝ったとか、ジョンべネ事件が不起訴になったのを知ったくらいであった。暫く世の中の動きから隔離された状態にあったのだが、これはリラックスになったかも知れない。
   気がかりだったのは、度重なるご馳走と運動不足による体重増加だった。帰国後自宅ですぐ測ったら出発前に比べて1.5kg増であった。ホテルの室内プールで4回ほど泳いだが、体重増加抑制の効果はなかったようである。プールで泳いでいた時に外人から、「Do you swim compatibly?」 と聞かれた。バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールと泳いだあとのことである。「swim compatibly」 で、「個人メドレーで泳ぐ」という意味らしい。1つ英語の勉強になった。なお、持参した釣り具は全く使用する機会がなかった。

成田に到着後は、入国手続き、荷物の受け取り、税関などほとんど待ち時間がなく、順調に進み、考えていたよりずっと早く帰路に就くことができた。上野に向かうスカイライナーの中から「一生会」会場に、参加できる旨連絡し、10分遅れで出席できた。
   最後に、この旅に関して妻の民子、そして石川さんに感謝、感謝・・・。     

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