テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために     2000年1月1日発行      新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第22号)         〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:y-nitta@mvc.biglobe.ne.jp)                 新田良昭
 

  あけましておめでとうございます

  新しいミレニアムを迎えました。大晦日から元旦にかけて世界各地でミレニアムの替わり目を祝うイベントがテレビで大々的に報道されましたね。2000年問題も今のところはほとんど事件にはならずにすんだようでまずは一安心です。これも2000年問題にたずさわった方々の並々ならぬ努力の結果でしょう。年末年始は泊りがけだったり自宅待機の方が多かったようですね。ありがとうございました。お疲れ様でした。私もマスコミに躍らされていらないものまで買ってしまいましたが、何よりも事故のなかったことが一番です。そして多少でも余分な消費をしたことが日本経済の活性化につながったのではないかと前向きに考えましょう。

 そして来年は21世紀。この歴史的な瞬間を記憶に留めることが出来る私たちは本当に幸運だと思います。
  小学生の頃、戦争が終わり、初めて20世紀という言葉を聞いたとき、「21世紀になる時は63歳、それまで生きていられるかな」などと考えていました。今では60歳台は元気はつらつですが、今から50数年前は、まして小学生だった私には、21世紀という時代は夢のような時代で、60歳を超える長生きをして迎えられるとは考えられなかったのだと思います。

  ところでごく最近になって、「ミレニアム」が「世紀」をこえて騒がれるようになりました。これは1000年に1度しかなく、しかも1年早く変わるのですから当然です。これからの千年が、地球環境や人類にどんな変化をもたらすか大いに興味があるところですが、21世紀前半に地球上からいなくなることが確実な私たちには、こればかりは知るよしもありません。悪いほうへ向かわないで、さらなる発展を祈るばかりです。
  20世紀最後の年の最初の手賀沼通信は、「20世紀」をテーマにします。本当は今年の12月にまとめればきりがいいのですが、20世紀についての雑誌「日録20世紀」が完結しました。自分史に近くなって申し訳ありませんが、その雑誌の記事からいくつかの年代を取り上げて「20世紀」を眺めてみたいと思います。


20世紀をふりかえって

1.「日録20世紀」120冊を読む

  昨年10月26日(火)発売の「日録20世紀スペシャル20」で、120冊に及ぶ「日録20世紀」がひとまず完結しました。この雑誌は講談社から20世紀の1年1年を1冊にまとめ、原則週1回火曜日に発行されたもので、20世紀の100冊と、それに加えてスペシャル版としてテーマを決めて100年間の歴史をまとめた20冊からなっています。スペシャル版は例えば、「20世紀ヒット曲物語」とか、「20世紀ライバル物語」などです。1冊560円で40数ページの薄い雑誌ですが、120冊となると本棚の1段近くを占めています。

  創刊号は平成9年2月4日発売の1959年(昭和34年)号で、天皇陛下が皇太子時代に正田美智子さまと結婚された年のものです。表紙の写真は美智子さまです。最初の何冊かは、大きなニュースのあった年のものが出版され、その後は10年単位にまとまって順番に出されました。100冊といっても、昨年と今年のものはまだ記事に出来なかったため、代わりに1900年の1冊と明治時代の1冊が入っています。未出版の2年分はいずれ出てくるのでしょう。後追いで朝日新聞社からも、「週間20世紀」が出版されていますが、二番煎じの感じは否めないようです。
  内容は写真が主です。その年の大きなニュースがいくつか写真入で特集として取り上げられています。日毎に出来事が記載され、大きな事件は写真と解説が出ています。その年のベストセラーやヒットした映画、その年売れたものなどは毎号決まったページが当てられています。私の記憶にあるのは、小学校に入った昭和18年くらいからですが、断片的に覚えている50数年とそれ以前の数年の自分の生きてきた60年ばかりの道のりを振り返り、とても懐かしく読むことが出来ました。おそらく一度に買ったとすれば、「つんどく」になったと思いますが、週1回の発行が読み終わるタイミングとあっていて、創刊号から完結まで約2年半、いつも次号が待ち遠しい感じでした。
  ただ、個人的な好みからすれば、その年のプロ野球と高校野球の優勝チームや大相撲の優勝力士や4年に1回のオリンピックのメダリストなどが載っていないのは、記録紙として物足りなく、大変残念に思っています。

  それでは、勝手ながら下記の自分に関係ある年と歴史的に大きな意味のある年を選んで、20世紀を回想してみたいと思います。

・1937年(私の生まれた年)

・1945年(太平洋戦争終戦の年)

・1960年(私が大学を出て社会人になった年)

・1973年(第1次オイルショックの年)

・1989ねん(昭和から平成へ変わった年)

2.日中全面戦争勃発 太平洋戦争への足音

  私が生まれたのは昭和12年(1937年)1月29日です。生まれた場所は愛媛県松山市、そして生後まもなく松山の西約10キロの郡中町へ引っ越しました。その前年には二・二六事件が日本国中を震撼させました。戦争への足音が聞こえ始めていたのです。

 そして「日録20世紀」の記事を借りると、昭和12年7月7日には、三発の銃弾が8年に及ぶ日中全面戦争を引き起こしました。「盧溝橋事件」です。マルコ・ポーロが「無比の美しさ」とたたえた盧溝橋は北京の西南約6キロ、永定河に架かる古い橋でした。その橋の袂で日本軍にいきなり三発の銃弾が浴びせられました。中国が発砲したのか、日本陸軍が戦争を起こすためわざと発砲したのか、きっかけとなった銃弾は誰が撃ったか「なぞ」とされていますが、昭和7年に満州を建国した日本は、建国後も侵略の手を緩めず、それに反発する中国との間で戦争の火種は燻っていたのです。事件から3週間後の7月28日、「支那駐屯軍」は総攻撃を開始、日本は中国との全面戦争の泥沼に足を踏み出しました。
 私の父方のいとこはこの日中戦争でなくなっています。初期の戦死はめずらしかったらしく、将校でもないのに代々の墓のそばに立派な墓標が立ち、戦死したときの状況がその石面にこまごまと刻まれています。数年後に勃発する太平洋戦争の時代と違って、まだ町をあげて戦死者を手厚く葬る余裕があったのではないかと思います。
 昭和12年11月には、超弩級戦艦「大和」の建造が秘密裏に始まっています。竣工は太平洋戦争の始まる16年12月。その後連合艦隊の旗艦として不沈戦艦といわれましたが、昭和20年沖縄戦に出撃する途上、米軍機の猛爆と魚雷を受けて鹿児島の西南300キロの地点で撃沈されました。

 日録20世紀を見ると、昭和12年の日本国内は巨人の沢村投手の活躍、ヘレン・ケラーの初来日、双葉山の横綱昇進、サントリー角瓶の発売などの明るいニュースもでていますが、徴兵検査合格基準の引き下げ、ラジオ体操への国民総動員、学校での軍事教練の強化、日独伊3国急接近、南京大虐殺など、太平洋戦争への足音が聞こえるような年になっています。
 もちろん私は何も分かりませんでした。戦争の記憶が残っているのは、小学校に上がってからのことです。しかし太平洋戦争開戦の昭和16年12月8日、私は4歳で幼稚園に通っていましたが、誰かが「戦争が始まったよ」と言っていたのをおぼろげに覚えています。子供心にもよっぽど大きな出来事だったのではないでしょうか。

3.太平洋戦争終戦

 「日録20世紀」の昭和20年(1945年)号の表紙は連合軍司令長官マッカーサー元帥がコーンパイプをくわえて厚木飛行場に下り立ったおなじみの写真です。

 いま、大変革の時代といわれていますが、私の経験では、この昭和20年ほど世の中が変わったことはありません。3月10日の東京大空襲では約10万人の都民が亡くなりました。6月23日には沖縄守備隊が降伏、7月26日米英中がポツダム宣言を発表、8月6日広島に原爆投下で死者14万人、8月9日に長崎に原爆投下、そして8月15日には天皇陛下の玉音放送でポツダム宣言受諾が国民に伝えられ、ついに戦争が終了しました。
 しかしその後も大変でした。8月18日に満州国が消滅、「大地の子」の悲劇が待っていました。ソ連は約57万人の日本人をシベリアに抑留しました。国内では、数千万の人が住む家を失い、必死で食べ物を求めていました。ただ明るい話題としてはもう灯火管制はないということと、戦地へ行っていた父や夫や兄が帰ってくるということでした。
 教育の現場もめちゃめちゃでした。私は小学校3年生で幸い空襲のなかった田舎に住んででいたため住む家はあり学校にも通えましたが、大都市の場合は学童疎開で地方に避難、空襲に遭った都市では学校も焼けてしまい、勉強どころではありませんでした。さらに驚いたのは8月15日を期して価値観がまったく逆になったことです。新聞やラジオで、昨日まで「鬼畜米英」といって憎んでいた相手が、今度は「アメリカサマサマ」です。メイドインUSAは庶民の憧れの的でした。物資不足で本や鉛筆やノートがない上、余りに価値観が変わったため先生は何を教えてよいか分からず、毎日学校には通っていましたが、私も何を勉強したかよく覚えていません。記憶に残っているのは勉強の内容ではなく、消しゴムがなかったのでイカの甲羅を干して消しゴム代わりにしたり、1時間目は国語にしようとか2時間目は体育にしようなどと、生徒が毎日の時間表をみんなの意見で決めていたりしたことです。

 進駐軍について鮮明に覚えているのは、瀬戸内海に面した人口数千人のわが町に3日間軍艦に乗って米兵がやってきたことです。はっきりした目的はわかりませんが、多分空襲で焼けていない町に水兵を上陸させて気ばらしをさせようとしたのでしょう。1日目は町民は恐ろしさに玄関の戸を締め切って家の中にじっとしていましたが、米兵が乱暴しないと分かったため、2日目からどの家も戸を開けました。私の家は竹製品や木製品の日用雑貨を扱う荒物屋でした。今でこそ竹製品や木製品は民芸品として高価ですが、当時は安価な日用品でした。ビンやカンは戦争のため姿を消しており、ビニールやプラスティックはまだ世の中に登場していませんでした。母が持ち前の社交性を発揮し、身振り手振りで米兵の持っているチョコレートや石鹸やたばこなどと店の商品を物々交換をしていたのを覚えています。そして日本ではとても手に入らなかったその時のチョコレートや石鹸の香りは未だに忘れることが出来ません。

4.安保闘争と日本経済高度成長のはじまり

 私が大学を卒業し社会人になった昭和35年(1960年)は、2つの大きな事件で記憶に残る年ではないかと思います。ひとつは安保闘争で日本全体が騒然となったこと、ひとつは所得倍増論をきっかけに日本経済が高度成長に踏み出したということです。

 「日録20世紀」の記事でこの2つの出来事を追ってみましょう。
 この年の1月、日米安保改正条約が調印され国会の批准を待っていました。3月には批准を阻止するため安保改定阻止国民会議が結成され、反対運動は日に日に高まりました。6月4日の反対運動には全国で560万人が参加、6月15日には東大生だった樺美智子さんが警官隊とのもみ合いで死亡し、18日には国会周辺で33万人がデモをしたとあります。私は入社草々だったため参加する余裕はありませんでしたが、大学生だった弟は参加したようです。しかし6月19日には新安保条約は自然承認となり、23日には結果的に役目を終えた岸首相が退陣しています。
 戦時中にも活躍し戦争の暗い影をぬぐい得なかった陰気な岸首相に代わり後を引き継いだのはネアカの池田勇人首相でした。池田首相は7月19日の記者会見で、10年間で所得を2倍にするという「所得倍増論」を打ち出しました。当時の一人あたりの国民所得は年間13万8000円、アメリカの8分の1、西ドイツの3分の1でした。私の初任給は月額1万4000円だったのを覚えています。
 所得倍増論は重化学工業化と公共投資を中心に国民総生産を拡大させ、10年後に国民所得が2倍になるというもので、当初3年間の経済成長率を9パーセントに設定しました。しかし日本経済は予想以上に拡大し、所得倍増計画は5年で達成され、月給は7年で2倍になりました。そして日本経済は高度成長に向かって突き進むことになったのです。もっとも「公害」と言うひずみも出てくることにもなります。

 この年の明るい話題としては、浩宮親王ご誕生、石原裕次郎の結婚、三原魔術で大洋初優勝、ケネディ大統領誕生、暗いニュースとしては、浅沼稲次郎社会党委員長暗殺、チリ地震津波などがありました。

5.第一次オイルショック

 昭和48年(1973年)10月6日イスラエル軍とエジプト・シリア軍はスエズ運河東岸とゴラン高原で戦争を始めました。この第4次中東戦争の勃発はOAPEC(アラブ石油輸出国機構)加盟10カ国の石油生産削減を決定させ、石油製品の値上げと深刻なモノ不足パニックを生むことになりました。
 「日録20世紀」によると、千里ニュータウンではスーパーに主婦200人が押しかけ、トイレットペーパーの1週間分の在庫がわずか1時間で売り切れたとあります。藤沢市のスーパーでは砂糖の安売りの600袋が押し寄せた400人以上の主婦のため、15分足らずで売り切れたそうです。

 物価も上がりました。1リットル60円位だったガソリンは11月には80円以上になりました。160円位だったトイレットペーパーは一時360円にもなったそうです。私もこの年の夏にマンションを図面だけで(当時はマンションは即日完売、抽選で入居者が選ばれるという状態でした)約1200万円で購入しましたが、建築資材が高騰し10ヶ月後に完成したときは同じタイプが1400万円以上になっていました。建築中に業者が手を抜いたのではないかと、ひやひやしながら住んでいたのを覚えています。

 日本経済の高度成長もこの時をもってほぼ終息し、経済政策も省資源へと大転換を迫られることになります。
 それにしても後で分かったことですが、モノ不足パニックは、本当にモノが不足していたのではなく、マスコミの推測記事と消費者の不安心理が作り上げたものでした。不足していたのはモノではなく、正確な情報だったのです。
 このパニックはその貴重な経験を活かされることなく、平成6年(1994年)に米不足パニックが再度発生しています。
 どちらのパニック時も買占めに走ったのは戦時のモノ不足を経験しなかった若い消費者が多かったようです。戦時は新聞紙をトイレットペーパー替わりに使っていましたし(もっとも今の水洗では詰まってしまいますが)、米などはめったに口に出来ず、イモや麦や雑穀を食べていました。平成6年のパニック時には米がなければうどんやパンを食べればいいと思ったものです。
 やっぱりいろいろ経験すると違うと思うのですが、オイルショックの経験が活かせなかったのは、今の若い人は学習効果を失ってしまったのでしょうか。

6.昭和から平成へ

 昭和64年から平成元年へと年号の変わった1989年はいろいろな意味で大変革の年だったと思います。
 1月7日、昭和天皇の崩御により足掛け64年間続いてきた昭和が終わりを告げました。昭和の時代は1926年12月から1989年1月までで20世紀の中心を占めています。天皇の御世としては歴史上最長の記録であり、明治時代とともに日本国家の発展の上でも大変意義ある時代であったと思います。昭和時代、日本は戦争の時代から平和の時代へ、軍事国家から民主主義国家へ変わりました。そして日本経済は未曾有の成長を遂げました。
 ところが平成の年号になると日本経済のバブルがはじけました。そして平成も12年を迎えるというのにまだバブルの負の遺産を背負っています。

 また世界に目を向けると、この年の11月ベルリンの壁が取り壊され、東西の冷戦が終結しました。中国だけは6月の天安門事件を武力で制圧しましたが、ソ連は崩壊、東ヨーロッパにも変革の嵐が吹いたのです。戦後45年にわたって世界を支配してきた2極対立の体制は終わり、世界は地域紛争の時代に入ったのです。
 そしてその後の10年間の動きはまだ記憶に新しいことと思います。

 今年はいよいよ2000年、新しいミレニアムであり、20世紀最後の年です。
 私達のまわりにはいろいろ解決しなければならない難しい問題はありますが、常に希望を失わず、明るく楽しく前向きに過ごしたいものです。
 あと20年もすれば4人に1人は65歳以上の高齢者です。これからは高齢者が社会を担っていく時代と言ってもいいでしょう。これからの高齢者はいまの大半の老人のように病院や診療所に行くことを生きがいや趣味にするのではなく、ボランティア活動とか他の人のためになることに時間をかけることが必要でしょう。

 手賀沼通信も出来るだけ明るい話題を提供してゆきたいと思っています。ぜひご投稿ください。皆様方のすばらしい原稿をお待ちしております。


パソコン故障顛末記−その2

 昨年8月の手賀沼通信第17号で家内のノートパソコンが壊れた顛末を書きましたが、10月には同じパソコンの同じ部品のハードディスクが故障し、またまた日立電子サービスへ持参してディスクを交換しました。1年以内に2度も壊れるとはもともと不良品なのか、よっぽど外れたのか、ちょっと腹に据えかねたところはありましたが災難とあきらめていました。

 ところが昨年11月には私のパソコンが動かなくなってしまいました。これは3年前に買ったIBMのデスクトップパソコンのアプティバです。こちらのほうは災難とあきらめるわけにはいきません。
 電話で以前の職場の専門家のアドバイスをもらい、いろいろいじくっているうちに、データではなくウィンドウズのプログラムが入っているハードディスクが壊れているのが分かりました。ハードディスクをフォーマットしてウィンドウズを入れなおせばまた立ちあがる可能性はあります。しかしフォーマットすればデータはなくなってしまいます。一応11月始めにデータのバックアップをとっていたのでその時点のデータは入れなおせますが、それ以後作成したデータ、途中まで書いた1月号の手賀沼通信、手賀沼通信や年賀状のなどの住所録等、復元するには泣きたくなるような作業が予想されました。電子メールはすべて消えてしまいました。
 とりあえず古いパソコンはそのままにし、いま話題の98000円のアプティバを購入、新しいパソコンで作業を続けることに決めました。
 IBM社員の義理の息子に相談したところ、ウィンドウズがDOSモードで立ちあがることが分かり、DOSのコマンドを駆使して古いパソコンからデータを取り出してくれました。データが復元できて生き返った思いでした。

 今回の故障でつくづく感じたことはこまめにバックアップを取っておくことが大切だということです。特にパソコンで仕事をしている人にとっては、データがなくなることは仕事の中断を意味します。復元には大変な時間と手間と費用がかかります。パソコンで海外と重要なデータをやり取りしている友人は私の顛末を見て早速MOを購入しました。
 その後もこまごましたトラブルが続いています。ウィンドウズ95から98になったため、パソコンからFAXが送れなくなったり、オフィス97のCDが読めなくなって、クリップアートが取り出せなくなったりしています。したがって今月号のカットはややピンぼけになってしまいました。                                                                                                   

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