テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために     2000年4月20日発行      新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第25号)         〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:y-nitta@mvc.biglobe.ne.jp)                 新田良昭 
  http://www.mercury.ne.jp/koyukai
 

 今月のテーマは第20号に続いて「海外旅行」です。
 2月下旬にタイのバンコクに行ってきました。昨年訪れた中国やマレーシアと比べながら感想をまとめてみましょう。

 南仏・イタリア周遊記は森さんからいただいたものです。森さんからは3回目の寄稿です。おかげで1つのテーマにまとまりました。ただ原文は長文でしたので、かなりカットさせていただきました。申し訳なく思っております。


混沌と喧騒とそして微笑みの国

 2月22日から26日までタイのバンコクに旅行しました。近畿ツーリストのパック旅行「気軽に行けるタイランド」で、4泊5日(実質は3泊3日)、64,800円の格安料金です。今回はマレーシア旅行で知り合った牛久のウナギ屋のご主人の佐藤さんと一緒だったため一人部屋特別料金は不要でした。ただ、今回も初日はホテルへのチェックインが23日の夜中の1時、最終日は夜中2時のモーニングコール、3時15分ホテル出発という過酷なスケジュールでした。寝ると起きられなくなる恐れがあったため、佐藤さんと部屋でビールを飲みながら出発まで待ちました。けっして気軽には行ける旅ではありませんでした。

 メンバーは男性12名女性26名と相変わらず女性が多く、26名の中には12名の若い女性が卒業旅行で参加していました。
 タイはシンガポールやマレーシアに比べると、リー・クワン・ユーやマハティールのような強力なリーダーを持たなかったせいか、都市づくり、まちづくりに、はっきりした方向性は感じられません。混沌と猥雑さがあります。しかし一方では市場経済任せの自由と気楽さも感じられました。

1.タイ人気質「マイペンライ」

 「マイペンライ」とは、「気にしない」とか「大丈夫」とかを意味し、タイの国民性を表す言葉です。良い意味にとれば「おおらかさ」となりますが、悪くとれば「いいかげんさ」となります。
 バンコク空港についてすぐこの「マイペンライ」の洗礼を受けました。このパック旅行は期間が短く料金が安いうえタイという手軽な観光国のため、日本からの添乗員はついていません。現地のガイドが空港に出迎えてそのあとの面倒を見るようになっています。さまざまな旅行会社のツアーがかち合うため、空港の到着ロビーは旗を持った出迎えの現地ガイドでごった返していました。ところが我々のガイドは目立たないところでのんびりと出迎えていたのです。こちらから探さなくてはなりませんでした。
 このガイドはその後、色々なことで「マイペンライ」を感じさせてくれました。事務的なことや観光スポットでの決まりきったことは話すのですが、バスの中で通常ガイドが解説してくれるその国や都市の歴史、地理、政治、経済、文化、市民生活、観光地の説明などはほとんど省略してしまいました。質問にタイの国土は日本の3分の1と答えてくれましたが、本当は1.4倍もあるのです。不勉強、熱意のなさ、気配りのなさなどを痛感しました。バンコクのエメラルド寺院では、ガイドがちょっとした注意を怠ったため数人の人が迷子になり、その人達は十分な観光ができず出口で待たされてしまいました。「お客さんは初めての人が多いのだから一言注意しておこう」という配慮がなかったのです。
 中国やシンガポール・マレーシア旅行で会った4人の熱心な中国系のガイドとは大違いです。それでもなんとなく憎めないのはやっぱりマイペンライなのでしょう。
 また、空港からホテルまでは旅行会社のバスで移動しましたが、このバスが曲者でした。マイクが故障していたためガイドの声がよく聞き取れません。そしてホテルに到着する寸前になってバスの電気が切れてしまったのです。バスの中は真っ暗になり冷房は切れてしまい乗降口のドアは開きません。結局運転席をまたいで運転席側から手押し車をステップ替りに使って下車するという散々な目にあいました。翌日からは別のバスに取り替えましたが、先の思いやられるスタートでした。

 ただ良いところもあります。街中は雑然としていますが、なんとなくのんびりとした感じがあります。ホテルやお店や観光地で会った人々のにこやかな笑顔も印象的でした。中国で感じた他人を押しのけてでも生きていくという感じは受けませんでした。中国の売店では笑顔はありませんでしたが、タイにはありました。マイペンライの良い面なのでしょう。

2.バンコクの交通事情

 バンコクは世界に名だたる渋滞の街です。ラッシュアワーにまきこまれると大変です。夜中の12時頃タクシーに乗ったときも混んでいました。私達のツアーの空港の発着が深夜や早朝というとんでもない時間だったのは道路事情も考えているのかもしれません。
 交通機関は車が主役です。バンコクと市外を結ぶ列車はありますが本数は少ないようです。市内を走る電車はありません。モノレールはありますが(走っているところはお目にかかれませんでした)地下鉄は建設中です。チャオプラヤ川と運河に浮かぶ船も重要な交通手段のようですが利用できる場所は限られています。
 道路はバスとタクシーと自家用車とバイクとトゥクトゥクという軽三輪タクシーなどが競い合って走っています。道路が混雑するはずです。中国で大集団で走っていた自転車は市内では見られません。東京では健康のため少々の距離なら歩くという人もいますが、ここでは暑いため歩いている人も少ないのです。最高気温は2月でさえ35度、日本の真夏です。私も日中1時間ほど歩きましたが汗だくになりました。よっぽどの物好きかバス代のない人以外は歩かないのでしょう。
 道路は車本位に作られています。ホテルの前の大きな道路は交差点や横断歩道がなく1キロおきくらいに歩道橋があるだけです。向こう側にわたるのは大変な苦労を強いられます。歩道橋がないところでは命がけで横切るしかありません。

 歩道は障害物にあふれています。街路樹は歩道の端でなくど真ん中に植えられています。車道と歩道の交わるところも段差が削られることなくそのままです。歩道上は屋台や露天が占領しておりバイクが駐車しています。車道はびっしり車が駐車していて自転車を使えないわけがよく理解できました。
 バンコクの歩道上にはもう一つよそで見かけないものがいます。犬です。観光地でもよくみかけましたが、放し飼いの犬が横になって寝ているのです。暑さのせいなのかほとんど動きません。中国やシンガポール・マレーシアでは犬はほとんど見かけませんでしたし、今の日本では人と散歩している犬がほとんどのため、ちょっとめずらしい光景でした。

 バイクで気のついたことが2つあります。1台のバイクに3人とか4人乗っているのです。お父さんが運転し真中に子供を2人挟んで後ろにお母さんが乗っています。これぞマイペンライです。4月からチャイルドシートの装着が義務付けられる日本とは大違いです。もう一つはバイクのタクシーです。日本では駅の前に乗り捨て自転車が並んでいますが、タイでは自転車でなく料金を払ってバイクの後ろに乗せてもらいバス停まで来るのです。
 水上マーケットへ行く船に乗ったとき、川の中のごみを拾っている船に気がつきました。タイの遊覧船や水上タクシーは高速で飛ばします。ごみがスクリューに巻付いたら大事故になる恐れがあります。そのためスクリューにごみが巻付かないよう拾っているのです。香港の海でも海中のごみ処理が大きな問題になっていると聞きましたが、同じ悩みがあるのでしょう。
 バンコクでは地下鉄の工事や拡張工事などでいたるところで道路が掘り返されています。やかましさと埃っぽさとが街を覆っている感じです。タイは経済危機を脱しつつあり、活気が戻ってきたのかもしれません。

3.国民のよりどころ―仏教

 タイは国民の95%が仏教徒です。インドからスリランカをへて伝わった小乗仏教で、中国を経て日本に伝わった大乗仏教とは違い、厳しい戒律を守りつづけています。正午以後は食事をしない、女性に触ってはならないなど、227の戒律を守りながら修行するタイのお坊さんは、国民から特別な尊敬を受けています。
 我孫子在住でスリランカからの留学僧の話では、家族の中から僧侶を出すのは大変な名誉だそうです。お坊さんは食事やお金の寄進を受けて生活には困らないとのことです。また僧侶になったあと僧侶をやめて結婚するのは自由だけどそういう人は人間的に評価されないと言っていました。
 お寺は日本と違って金色に輝ききらびやかです。どこへ行っても一番目立つのはお寺です。マレーシアのイスラム教のモスクとの違いは、モスクが形のあるものの装飾を嫌い、幾何学的な紋様だけなのに対して、お寺は仏像を始めとして人や動物の像であふれています。
 街中には、いたるところにミニチュアのようなお寺があり、飾り付けがされていました。昔の日本でもお稲荷さんやミニ鳥居などを見かけましたが、同じ感じなのかもしれません。タイの人の仏教に対する信仰の深さが感じられました。

4. 観光資源となった「戦場にかけた橋」

 1957年に製作された「戦場にかける橋」という映画がありました。7部門でアカデミー賞を受けたデビッド・リーン監督の名作です。主題歌はクワイ河マーチでした。ウィリアム・ホールデン、アレック・ギネス、早川雪州が競演しました。タイとビルマの直通鉄道建設の最大の難所クワイ河にかかる木の橋を日本軍は連合軍の捕虜を使ってなんとか完成させたのですが、収容所から脱走したウィリアム・ホールデンふんする米海軍少佐に列車もろとも爆破されてしまうという結末でした。
 そのクワイ河にかかる橋が観光の目玉になっているのです。橋はバンコクからバスで約3時間のところのカンチャナブリという町にあります。鉄橋にかけかえられ橋の上を列車が走っています。観光ルートはバンコクからカンチャナブリまで行って、橋の上を徒歩で往復し、それから鉄橋を通ってクワイ河沿いに走るローカル列車に1時間半乗車、ワン・ポーまで行き、そこでタイ式の食事をしてバンコクに帰るというものです。私達がたどったカンチャナブリから先にバスでワン・ポーへ行き、帰りが列車というルートもあります。
 感心したのはこのような1日がかりのルートを考え、食堂などの受け入れ態勢を整備し、それを旅行会社とタイアップし、大量の観光客を送りこんでいることです。今回も欧米の観光客が日本人よりも大勢来ていました。単に橋を見るだけならわざわざバンコクから3時間もかけては来ないでしょう。いろいろ組合せて1日がかりの観光ルートとして開発したわけです。アイデアを考えたのは欧米人だそうです。

 カンチャナブリには連合軍の死者の墓地と日本軍の死者の慰霊塔がありました。連合軍の墓地はイギリスの援助を受けきれいに整備されていました。一人一人金属板で墓標が作られ、氏名や年齢や所属部隊の名が刻まれていました。日本人の慰霊塔は狭いエリアに大きな慰霊塔が建っているだけの殺風景なものでした。経済大国の日本としてはあまりに寂しい慰霊塔でした。政府の考え方の違いが見事に出ていました。


特別寄稿
南仏・イタリア周遊記

                          
                森 正男

 10月26日〜11月2日まで「魅惑の南仏・イタリア周遊8日間」私共夫婦で阪急交通のツアーに便乗して行って来ました。

準備

 デジタルカメラも持参する事にした。パソコンに取り込んでいろんな事をして見たい魂胆があった。

出発

 午前10時20分KLMオランダ航空機で出発した。乗り換えのオランダ・アムステルダム空港まで約12時間もの飛行機の旅であった。アムステルダム空港からニースに向かうまでの待ち時間が6時間もあったので、アムステルダム市街観光をすることにした。アムステルダム空港駅からセントラルステーションまで電車で15分オランダののどかな町並みを楽しんだ。セントラルステーションは東京駅によく似たレンガ作りの駅で、夕暮れ間近で人があふれる程の賑わいだった。アムステルダム発祥の地まで散策することにした。広い道路の真ん中に市電が走り、両側に商店や食べ物の店が軒を並べていて店の外までテーブルを出して、のんびりとコーヒーやケーキを食べながら談笑している様子は日本では余り見ない光景だった。

 船からの景観は高級住宅地が建ち並び隣との際目が無くピッタリとくっついた建築方法は独特なもので、500メートルも続いていた。真っ直ぐな川に同じかたちの橋が幾つも架けられていて、船からみると眼鏡の様に見える眼鏡橋、アンネの日記に出てくるアンネの隠れ家も船から眺めることが出来た。運河の端に点々と古い船が停泊していたが、何でもオランダのサラリーマンの定年後の最大の夢は中古の船を買って改造して運河に住み、気ままに海に出て遊んだりして暮らすことが夢だそうで、それにしては、余り綺麗な船は見当たらなかった。

2日目 ニース観光

 朝8時30分に観光バスで出発、有名なサレヤ遊歩道の花市へ、色彩鮮やかな花の店が軒を連ね、日本では見られない見事なものだった。花だけでなく、野菜、フルーツ、鮮魚の店が続き、活気に溢れている。みな量り売りなのも懐かしかった。色々なフルーツを砂糖で煮込んだお菓子の店にはミツバチが沢山たかって蜜を吸っていたが、店の人は一切関知せず、自然に任せている大らかさに、国民性を感じた。少し歩くとコートダジュール(天使の湾)に出た。地中海の真っ青な海がまぶしく目にしみた。高級ホテルが建ち並び、長さ7500メートルに及ぶ広く手入れの良い海辺は、まさに高級リゾート地の名に相応しい景観だった。

3日目 国境を越えてイタリアへ

 ホテルを朝8時に出発、フランス側マントン−イタリア側サンレモの国境を越えていよいよイタリアに入る。ジェノバの田園風景を眺めながら4時間程でピサへ、本物のピサの斜塔を目の前にして感動した。1173年に建築が開始され、3階(日本では4階)に達した時、その独特の傾斜を引き起こし、地盤の陥没によって工事は放棄されてしまい、1世紀後に修正工事が始まり、6階(日本では7階)まで建てられた。塔の頂上は鐘楼になっていて、7音階に調律された7ツの鐘が吊り下がっているそうですが、1990年6月をもって、斜塔の中での一般公開は中止されたそうです。その後色々な修復工事が施された。塔の周囲に枠をはめ、傾斜の反対側の基壇に、およそ600トンの鉛の延べ棒を置いたり、塔の地盤に電気浸透を施したが、余り効果がなかったそうで、現在は傾斜の反対側から太いワイヤー10本程で支えていましたが、完璧な方法は見つからない様です。

 ピサの斜塔のすぐ隣に大聖堂がある。1063年に天才的イタリア人ブスケットによって建築された。内部は天井がもの凄く高くてドーム風で至るところに大理石の彫刻が施され、900年も前にどうしてこの様な建造物が造られたのか驚嘆した。大聖堂の反対側には露天が立ち並び、観光客の呼び込みで賑っていた。

4日目 フィレンツェ市内観光

 観光バスでフィレンツェ市内を午前中観光した。イタリアの華、花の都フィレンツェはミケランジェロ、ダ・ヴィンチ・ラファエロら巨匠たちの絵画、彫刻、建築などの作品に表された街、フィレンツェの南の丘をくねくねと曲がりながら上がるとミケランジェロ広場へ、フィレンツェの市街が一望に見渡せて素晴らしい景観だった。世界的に有名な花の聖母寺サンタ・マリア・デル・フィオーレや、ジョットの鐘楼、ヴェッキオ橋等を見学して歩いた。歴史、・芸術・伝統、時代を越え、世紀を越えて次の世代に引き継ぎ、何十年、何百年も掛けて多くの遺産を築いて行くロマンとエネルギーにはただただ驚くばかりだった。

5日目 ローマへ

 観光バスでサンロードを南下、永遠の都ローマ向かう。
 ヴァチカン広場を見学、テレビでよく見るローマ法王の演説する演題や、広場に何万人もの椅子が整然と並べられている様子や、ボランティアが大勢かいがいしく働いている姿を見て感動した。ヴァチカン市国サン・ビエトロ大聖堂を見学した。

 お目当てのコインを投げ入れると再びローマに戻れるという伝説をもつトレビの泉に行ったが改修工事で、周囲を鉄骨で覆われ、泉にも水も無く景観を損なっていたのにはがっかりした。記念に幸せになれますようにと後ろ向きでコインを投げた。今イタリアでは、21世紀に向けて、至る所で遺跡の大改修工事が行われ、次の世代に引き継ぐ為に国を挙げて大わらわで、日本では、パソコン問題で大騒ぎをしているが、その比では無いように思えた。

6日目 ローマ自由行動

 ヴァチカン宮殿の前に行ってみたが、正装した守衛が厳しくチェックしていて入れなかった。お目当てのヴィァチカン美術館に行くことにした。開門前から長蛇の列が続き、500メートル位に並んでいる日本人らしき人に聞いてみると、2時間も待っているとのこと、2000メートルもの列では何時間待つか分からないので諦めた。

 ローマで最も活気あると言われているスペイン広場に着いた。広く世に知られているトリニタディモンティの階段には、色々な国の人種のカップルが座ってのんびりと語り合っている姿で広い階段が埋め尽くされていた。広場の中央にはバルカッチャの噴水が吹き出て、一層雰囲気を醸し出している様に思えた。持参のデジカメでシャッターを切った。帰りはホテルまでタクシーで帰った。流しのタクシーに乗ると、ぼられると聞いていたのでタクシー乗り場まで歩いた。

7日目 帰国の途に

 現地時間ローマ発午前10時15分のKLMオランダ航空機で空路、アムステルダムへ、乗り継いで、翌日、日本時間午前9時20分に無事に成田空港に到着した。

後記

=道路事情=

市街は割合に道幅が狭く両側に車がぎっしり止めているので、道路事情は余りよくなかった。駐車場も見かけなかった。大型車は少なく、路上駐車の車を出すときは、平坦な場所ではサイドブレーキを掛けてないで駐車しているので、最初に少し前進して、次にバックをして、間隔を取って発車すると添乗員が説明していたが、それは冗談にしても、日本以上に道路事情は悪かった。

=治安=

何処の店に行っても親切にジプシーに気を付ける様に注意された。鞄は肩に掛けないで、首から下げて手で抱えて持つように、財布を開ける時に注意する様に教えてくれた、フランスでもイタリアでも、それらしき人を時々見かけたが幸い事故に遭わなくて良かった。

=トイレ事情=

日本の様に駅や公園にトイレがないので困った。有料の公衆トイレか、喫茶店等に入らないと用がたせないので苦労しました。

=国民性=

たとえ話で、待ち合わせの約束をすると、ドイツ人は5分前には約束の場所に着き、フランス人は時間通りに、日本人は10分前に、イタリア人は遅れてくるか、忘れてしまって見えないと言っていましたが、それぞれの国の性格を表した話で面白く聞いた。

=ホテルで=

3カ所のホテルに2泊づつ泊まったが、ホテルの掃除や下働きの人はほとんど黒人女性が多く人種差別がまだ有る様に感じた。

=日本の良さ=

治安がよく、言葉が通じる。(当たり前だが)交通ルールが守られて安心して歩ける。戦争が無くて平和な国、四季の変化に恵まれている。海外に行って日本の良さを再確認出来た。                     

inserted by FC2 system