テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために     2000年11月20日発行      新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第32号)         〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:y-nitta@fra.allnet.ne.jp)                 新田良昭 
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 今月は韓国旅行記と3人の方からの寄稿やコメントをお送りします。
 定年後水泳を楽しんでいる大倉明治さんからは、洒脱な水泳奮闘記のエッセイをいただきました。お送りいただいた3つのエッセイすべてを載せられないのが残念です。
 定年後世界を旅している鈴木康夫さんからは、めずらしい中国の新疆ウイグル地方への旅行記をいただきました。

 定年後旅行やグルメに人生を謳歌している大門さんからは,手賀沼通信第31号での「社会保障構造の在り方を考える有識者会議」の「有識者の顔が見たい」という私の嘆きにコメントを寄せてくださいました。余談ですが、案の定この会議の最終報告が10月24日に出されましたが、内容は厚生省と大蔵省の意向に沿ったものとなったようです。日経新聞には「将来の不安解消に向け力不足の内容となった」との解説が出ていました。
 有難うございました。

 お三方とも以前からの手賀沼通信の読者です。10月16日から3月末まで週4日の仕事に取り組むことになり、文章を書く時間の減った私にとっては,いただいた寄稿文は大変貴重でありがたいものです。


29年ぶりの韓国旅行

 昨年から始めた、中国,シンガポール・マレーシア、タイに続くアジア旅行の4回目として、10月10日から13日まで3泊4日で韓国に行ってきました。近畿日本ツーリストの59,800円の「韓国周遊大満足の4日間」のパックツアーで、同行者はシンガポール・マレーシア旅行で知り合った牛久のウナギ料理店のご主人佐藤さんです。お互いビールが何よりも好き、大変気の合う旅の友人です。1人だと一人部屋使用料金を追加で取られますが、2人だとその分をビール代に当てておつりがきます。
 総勢16名,うち12名はご夫婦で全員高齢者でした。
 食事の質があまり良くなかったこと,例によって観光よりも買い物重視のスケジュールで、「大満足」には程遠いツアーでしたが、この値段ではこんなものと割り切ればたっぷり飲めて気楽な旅でした。

1.日本にない緊張感にあふれていた朴正煕政権下の韓国

 私にとって今度の韓国旅行は3度目です。初めて韓国に行ったのは,今から31年前、1969年のことです。32歳の時でした。韓国IBMが三星グループの1つ、東邦生命にコンピュータのセリングをしていたのですが、そのサポートの要請が日本IBMに来ました。たまたま暇だった私に白羽の矢が立ち、ソウルに15日間くらい滞在した記憶があります。
 2度目はその2年後、東邦生命にシステム/360の導入が決まり,またまた日本IBMにシステム設計のサポートの要請が来たのです。そのときはたしか25日くらいソウルで過ごしました。
 何しろ30年くらい前のこと、定かでないところがありますが思い出しながら記憶をたどってみましょう。

 当時海外に行くのは簡単なことではありませんでした。パスポートは海外へ行く1回ごとに取る必要があります。当然ビザも必要です。日本はドル不足でしたので,その旅行や出張がどうしても必要だということを関係省庁に申し出る必要があります。それが妥当な場合、初めて1人1000ドルの外貨の持ち出しが認められたのです。1ドル360円の時代でした。私の場合は韓国IBMからのサポート要請と航空券や滞在費は韓国IBMが持つというTELEXがあったため比較的簡単にOKとなりました。
 当時の韓国は朴正煕が大統領でした。朴正煕は1963年にクーデターで政権につき、1979年に暗殺されていますのでちょうどその真ん中頃の絶頂期でした。日本では佐藤首相の頃です。
 海外出張が珍しい時代で家内と会社の同僚がわざわざ羽田まで見送りに来てくれました。飛行機はたしか100人くらいしか乗れない初期のボーイング737でした。
 金浦空港について驚いたのは入国時にスーツケースの中を開けられ厳しくチェックされたことです。日本から持っていった週刊誌は係員がページをめくって政治や文化などで韓国の主義に合わないと判断された部分は容赦なく破られました。

 当時韓国は北朝鮮と板門店を挟んで絶え間ない緊張に包まれていました。夜12時から朝4時までは外出禁止です。その時間に歩いていると警察に連行されます。酒場で飲んでいても11時半頃には通りに出てタクシーを掴まえる必要があります。バーの女の子も一緒です。帰る方向が同じだと相乗りもOKです。日本のバブル期も赤坂や新宿でタクシーを捕まえるのは大変でしたがソウルの場合は文字通り必死の奪い合いとなっていました。 
 写真を撮れるところは限られていて,政府の建物や公共機関や軍事施設は撮影禁止です。大統領府の青瓦台の方向はたとえ青瓦台が写っていなくても駄目でした。南山の展望台から市内の写真を取るのにも神経を使いました。
 お客様を訪問して話をしている最中に突然サイレンがなり驚いたことがありました。防空演習でした。そのときは指示された通りに行動することが必要でした。迷彩服を着た軍の兵士や警察官が市民に命令していたように覚えています。

 最初に行ったとき韓国IBMは40人くらいの小さな組織でした。どの場所にあったかは全く覚えていません。第2次大戦後24年しかたっていなかったので、40歳台以上の韓国人は日本語の読み書き出来、IBMでもお客さまでも言葉の心配はありませんでした。2年後に行ったときには、韓国IBMは当時最先端のKALビルに移っていて、社員が200人以上に増え若い人が多くなって苦手の英語を話す必要がありました。お客さまでは2年前と同じように日本語で通しました。東邦生命でシステム設計の話をすすめるときは、年配の人と日本語で話をすると、年配者が若い人に韓国語で通訳するというやり方で問題なく仕事がはかどったのを覚えています。
 当時韓国は「漢江の奇跡」といわれた経済成長期に入る以前の状態で、表向きはともかく経済面では必死に日本を見習おうとしていました。今ソウルの政庁の中心地となっているヨイドはまだ単なる川の中州でしたし、しゃれた地区になってる漢江の南側はほとんど開発されていませんでした。

 最初に行った時は、日本では発表後4年たったシステム/360が順調に入り始めていましたが,韓国ではまだ1401しか導入されていませんでした。韓国IBMは政府機関や大手の企業に売りこみの真最中で、私も東邦生命の仕事以外に政府の統計局の1401の故障のお詫びに政府高官に引き会わされたり、メーカーで講演をさせられたりしました。日本から専門家が来たというふれこみで、保険業務以外はあまりわからない若造が「ちょうどよいからとにかく連れていこう」とうまく利用された感じでした。
 2年後に行ったときは事情が大分変わり、韓国社会も成長のあとが見られました。それでも、三星グループ本社の役員会に引っ張り出されて東邦生命のシステム設計について話をさせられました。トップの人には、コンピュータシステム構築の仕事が理解できず,「毎日、何人もの社員が部屋にこもってこそこそ仕事をしているのは何だ」という声が上がっていたようです。ビルの建築にたとえて話をしたのを覚えています。
 つい昔話が長くなってしまいましたが、今回の韓国旅行で韓国がどう変わったかを実感するのが楽しみでした。

2.日本と変わらなくなった金大中政権下の韓国

 ところがどこまで変わったかを実感する機会は残念ながらあまりありませんでした。
 今回の日程は,初日に釜山に直行して市内見物のあと釜山泊、2日目は慶州までバスで行って市内見物のあと慶州泊,3日目は慶州から特急列車セマウル号でソウル入りし、市内見物のあとソウル泊、4日目はただ帰るだけというものでした。費用を安くするため、成田は午後出発、ソウルは朝出発です。市内見物は買い物重視、泊まるホテルはいずれも五つ星でしたが、いずれも市内からはずれたリゾート地でした。
 夜、ホテルから出て市内見物というわけにはいきません。途中会う人といえば,日本語の達者なお土産店やホテルや日本人向けのレストランの従業員です。バスの中での現地ガイドの話が唯一の情報源でした。ソウルの名物垢すりエステにも行ってみましたが,看板に日本語で「外国人専用」と書いてありました。パックツアーの限界なのかもしれません。

 ソウルではできるだけ免税店から出て市内を散歩するようにしていましたが、あまり時間がなく街角を眺める程度でした。
 とりあえず短い時間と少ないチャンスで感じた範囲の韓国の変わりようをまとめてみましょう。
 一番印象の深かったのは山々に緑が戻ったことです。韓国の冬の暖房は床暖房オンドルです。以前はその燃料は薪でした。山の木はオンドルの燃料とするため伐採され,飛行機から見下ろすと禿山ばかりでした。ところがセマウル号から眺める山々はミドリが一杯でした。燃料は石油に置き換わったとのこと、禿山は植林されていました。背の低い木が多かったのはまだ十分育っていないのかもしれません。日本と違って杉でなく松が多いため、仏国寺の参道も大変明るい感じがしました。

 31年前は1ウォンは1.3円でした。円よりウォンが強かったのです。今では1ウォンは約0.1円です。円の価値はウォンの10倍です。いかに韓国のインフレが激しかったかということがわかります。当時家を借りるときは家主にまとまったお金を預ければ家賃はただと聞いたことがあります。家主は預かったお金を銀行や頼母子講で運用、数年後に預かった金額をそっくり返しても、数十パーセントの運用利子と数十パーセントのインフレのダブル効果で家賃分が稼げるのだと言っていました。しかし今は物価は落ち着いているようです。
 車は「現代」「大宇」「起亜」などの韓国の国産車です。日本製の車はほとんど見かけません。前回雨の日にワイパーの故障した日本からの輸入車に乗って怖い思いをしましたが、今では少なくとも外見上は韓国の車は日本の車と遜色はありません。違うのは右側通行のため,ハンドルの位置が逆になっていることくらいです。
 ソウルの町並みも東京と同じように近代的になりました。高層ビル、地下鉄網、高速道路網、通信インフラなどそろっています。新幹線も建設中、ワールドカップサッカーの会場も突貫工事中でした。人々の態度や表情も日本と同じように平和です。朴政権下ではご法度だった政治に対する批判も今は全く自由のようです。バスガイドは金大中大統領に対する批判を繰り返し言っていましたが、ノーベル平和賞が発表されたのは私達が帰国したその日のこと、ソウル滞在中だったらどんな発言が聞けたかと残念に思いました。

 最後にソウルにあって日本にないもの、というよりアジアの各都市にあって日本にないものは、日本人の観光客をベルトコンベアーのように次から次へと呼びこみ、市価よりはるかに高い値段で物を売る商法です。東京では見かけない風景です。もちろん東京で日本人相手ということはありませんが、日本人を外国人に置き換えて考えてみてもそのような光景にはお目にかかれません。やっぱり日本人は特別、特に買い物好きは特別というしかありません。恥ずかしいことです。
 今回の旅行ではバスガイド以外の韓国の人との交流はありませんでした。次回はパックツアーでなく前回のように韓国の人と落ち着いて話し合う時間が持てるような旅行をしたいと考えています。そのためには忘れてしまったハングルを勉強しなおすことが必要かもしれません。


特別寄稿―1
水泳奮戦記:バタフライへの挑戦                    大倉明治

 水泳を志した人なら、一度はバタフライを上手に泳ぎたい、と思ったことがあるのではないだろうか。
  4年前に初心者4人組で一緒に始めたバタフライであるが、レッスンを受け始めて1ヶ月半くらいでできるようになった水中のドルフィン・キックは、「気を付けキック」。両手を腰の横につけて(気を付けの格好で)行うキックだが、これができると楽しい。ちょっとしたお魚気分が味わえる。体を横に向けて泳ぐと、カレイやヒラメが泳ぐ時はかくありなん、という感じである。まっすぐ水中を進む時の気持ちは、イルカである。
  難しかったのは、次のステップである「グライドキック」であった。手を伸ばしてキックをするのだが、頭の下げ、キック、手の伸ばしのタイミングがなかなか掴みにくい。練習の成果の判定は、片道20mをノーブレスで行けるかどうかだった。2ヶ月掛かってクリアした。次の目標は、20mを何回のキックでいけるかであった。最初17回掛かっていたのがやがて15回くらいになった。その後今までこの練習は続けているが、少しずつ回数は減り、4年目に入った今年は最短で11回となっている。

  バタフライを始めて2ヶ月経過した5月連休の頃には、一応両手を広げて泳ぐバタフライの格好になってきた。本人はサマになってきた、と思っていたが、今から思うと、他人にはそう見えていなかっただろう。溺れかけた人間が突如水面に顔を出し、息をして溺れていく、こんな光景に見えたのではなかろうか。
  これで泳げるようになるのも間近かと思ったが、実はこれからが大変だった。6月入ると、エグザスでは夜12時まで延長してオープンされることとなった。したがって、仕事が多少遅くなっても泳いで帰ることが可能になった。川崎駅による10時半までに帰り着けば、それから1時間ばかり泳いで帰る、ということも可能なのである。従ってほぼ毎日プールに寄り、帰宅バスの帰宅となった。

  月曜日から金曜日までで大体4日くらいは行けていたと思う。平日は夜10時ともなると泳ぐ人も少なく、半円形のプールの方で気兼ねなくバタフライの練習をすることができた。片道10mくらいのところを10回往復することをノルマにした。いつもの仲間と一緒になることがある。女性だけだとバタフライの練習はやりにくいらしい。私の顔を見ると一緒に練習をしたいと言ってくる。もとより女性に弱い私のこと、女性から頼まれたらすぐOKで、私が先頭になって練習を始める。仕事で結構疲れていても、力を振り絞って先頭で泳ぐ。こんなことが半年続いた。

  バタフライを始めたその年の秋、「個人メドレー」というレッスンがスタートした。もうこの頃、私はクロールでクイックターンを入れて40m泳げるようになっており、平泳ぎも40mは泳げた。まだ始めたばかりだったが、背泳ぎも一応泳げた。バタフライ仲間と一緒に参加した。
  メドレーで最初に泳ぐのはバタフライである。これを20m泳ぐとグッタリ。次の背泳ぎはお休みにして息を整え、平泳ぎからカムバックしてクロールで終わる。80mメドレーが練習の中心であるが、この前に、キックで4種類、スイムで4種類を泳ぐのである。つぎつぎとメニューをこなしていくと時間の過ぎるのが早い。このレッスンは残念ながらわずか3ヶ月で姿を消してしまった。ただ、「おまかせ1000m」というレッスンが始まり、その中にメドレーが織り込まれるようになったのは嬉しかった。30分の間に1000m泳ぎ、4種目泳ぐので、相当タフなレッスンである。しかし、自分で適当に休憩を取ることにした。それはコーチも黙認してくれた。

  バタフライを始めて以来今年3月で3年半、やっとサマになってきたかな、というのが実感である。まだタイムを計るレベルではないが、先日市営の25mプールで泳いだ時、25mをバタフライで完泳できた。第一キック、第2キックの感覚とタイミング、プルとプッシュの力加減と間合い、ブレスとそのあとの顎引き、このあたりが多少なりとも分かってきた感じである。ターンを入れて距離を40mに伸ばすのが年内の目標。まだまだバタフライへの挑戦は続く・・・・・。


特別寄稿―2
中国・新疆ウイグルの旅行                       鈴木康夫

 北京から一番西の端のカシュガルまで飛行機で5時間以上かかります。カシュガルはウイグル人の町(人口の70%)でとても中国という感じではありません。モスク、バサール、ベールを被った女性でほとんど中東と同じ感じでした。
 ここの人種はトメコ系のウィグル人で前にいったウズベキスタンやイランと似ています。踊りをみましたがそっくりでした。言葉も中国語ではなく、主にトルコ系のウィグル語が話されています。
 モスクは男性のみで、女性は自宅でお祈りするそうです。
(イランではモスク内で男性と女性の祈る場所を別けていました)
 昼間は暑いですが、朝や夜は涼しかったです。パキスタンに近いカジュガルは三蔵法師やマルコポーロが来た町です。
三蔵法師が来た時には、仏教時代ですが、いまはイスラム教でモスク、バザールが町の中心にあります。
 カシュガルにはシルクロードの天山北道と天山南道の出会う所を見て感激した。
 ウイグル人のパオで食事をしてきました。食事は豚肉はなく、全部羊の肉料理でした。シシカバブーも食べました。
 パキスタンの近くの7000MM級の山にかこまれた湖も見てきました。パキスタンに通じている道路を走りましたが、国境を超えて行く自動車はあまり見る事が出来ませんでした。
 天山山脈の中にある馬の牧場にも行きました。三蔵法師が見た火炎山はまっかで凄い山でした。麓にブトー園があり、いろいろなブトーが栽培されていました。また果物が豊富でスイカ、ウリ、ブドー、桃が美味しかったです。ブトウの産地なのでワインもありました。北京で中国の人と宴会をしましたが、泡盛みたいな強い酒でカンパイカンバイには参りました。中国人は酒につよいでした。

 中国では携帯電話が何処でも使われていました。但し町を少し離れると通じないようでした。 ウルムチの郊外で大規模な風力発電所をみました。最初はヨーロッパの設備で、最近は中国製とのことです。その他石油の井戸やグラス・ハイバー網も見ました。


特別寄稿―3
有識者の顔                                大門三代松                                    
 下記は平成12年度版厚生白書を読むの最後の「有識者の顔が見たくなりました」についての答えです。

厚生省の場合

 審議会とか委員会を設置する時
1.設置計画書を作る

 @あらかじめ報告書の結論と骨格を決める
 A@の結論を得るために合った委員の人選を決める
 B十分根廻しをしておく

2.委員になりたい人の下心

 @委員会出席時の謝金(謝礼金のこと)はアルバイト料としては極めて魅力的である(額は結構良い)
 A委員になる人は名誉欲もまた旺盛である。肩書き。
 B極めつけは将来の生存者叙勲に推薦してもらえる。(叙勲は関係省庁から総理府賞典局へ申請される)
 *民間の社長・会長が業界の団体の長になりたがるのも、長にならないと○○省から推薦してもらえないからです。

 上記のような貧しき徒が委員(有識者)になっております。正常な委員はほんのひと握りです。

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