いよいよ20世紀も後一月足らずになりました。手賀沼通信も20世紀の終わりにふさわしいものにしたいと考えた結果、明るい話題で締めくくることにしました。今月のテーマは私達に夢を与えくれ続けている「野球」です。大好きな高校野球にも触れたかったのですが、つい熱が入って紙面が足りなくなりました。次回に回し今回は「プロ野球」とします。
スポーツは見るのもやるのも何でも好きですが、私達の世代はなんと言っても野球でしょう。戦後の何もない時代、祖母の作ってくれた布製のボールを追っかけて、海岸の砂浜で野球の真似事をやったのを思い出します。初めて使ったグローブも布製でした。父が質流れの皮製のグローブを買ってきた時は涙が出るくらい嬉しかったのをおぼえています。
今年のスポーツは野球に始まり野球で終わったような気がします。20世紀最後のプロ野球日本シリーズはON対決が実現しました。巨人の優勝パレードには36万人もの人が集まりました。春にはメジャーリーグの公式戦が初めて日本で開催されました。そのメジャーリーグでは佐々木投手が新人投手のセーブ記録を達成しアメリカンリーグの新人王に選ばれました。あと一歩でワールドシリーズ出場でした。来年はイチローが佐々木と同じシアトルマリナーズで活躍することが決まりました。シドニーオリンピックではメダルこそ逸しましたが、松坂や松中を中心としたプロとアマの混成チームが日本中を沸かせました。
私は1937年(昭和12年)1月生まれです。長嶋監督は1936年(昭和11年)2月生まれ、王監督は1940年(昭和15年)5月生まれです。ちょうどONの年齢に挟まれた世代です。私は50数年前の小学生の頃からの巨人ファンです。最初の頃は川上や千葉の時代で長嶋も王もいませんでしたが、1958年に長嶋が巨人に入団し、翌年王が入団してからはONと共にジャイアンツの黄金時代を楽しみました。そしてONが苦しんだときは一緒に苦しみました。42年間の長い長いお付き合いです。したがって今年の両雄の優勝は最高の感激でした。
ちょっと前置きが長くなりましたが、今月はファンの立場から20世紀の野球を振り返ってみたいと思います。かなり思い入れの激しい偏ったものになるかもしれませんが「たかが野球、されど野球」の世界です。お許しいただきたいと思います。
私の記憶に残る10の出来事、名場面
日本のプロ野球が始まったのは1936年(昭和11年)です。そして太平洋戦争終戦の1年前まで継続しています。さすが終戦の年の1945年こそ中止になりましたが、翌年には戦後のプロ野球が始まっています。まだ1リーグしかなく、日本シリーズの代わりに東西対抗が行われました。私がいつから野球ファンになったかは記憶が定かではありませんが、多分戦後再開された1946年からのファンではないかと思います。小学校の4年生でした。
それから54年の間に私の脳裏に強烈に残っている10の出来事と名場面を年代順に書いてみたいと思います。54年を10の場面に絞るのには苦労しました。偏っているといわれるのは覚悟しています。
1.プロ野球2リーグとなる(1950年)
今から50年前、プロ野球がセントラルリーグとパシフィックリーグに分かれました。そのことは後で振りかえるとプロ野球の発展のためには良いことだったわけですが、毎日オリオンズが阪神タイガースから別当薫など有力5選手を引き抜いていったことは当時の私には大変なショックでした。巨人ファンということは、好敵手の阪神のファンでもあるのです。
毎日オリオンズはこの年、阪神から移った5選手と都市対抗の名門星野組から獲得した火の玉投手荒巻淳などの活躍で、松竹ロビンスを破って日本一になりました。
なおこの時の両リーグのチーム構成は次の通りです。
セントラルリーグ パシフィックリーグ
・読売ジャイアンツ ・毎日オリオンズ
・松竹ロビンス ・南海ホークス
・中日ドラゴンズ ・大映スターズ
・阪神タイガース ・阪急ブレーブス
・大洋ホエールズ ・西鉄クリッパーズ
・西日本パイレーツ ・東急フライヤーズ
・国鉄スワローズ ・近鉄パールズ
・広島カープ
2.藤本英雄日本人初の完全試合(1950年6月28日)
ジャイアンツの藤本(後の中上)英雄は青森球場で行われた西日本パイレーツとの試合でスライダーを武器に日本人初の完全試合を達成しました。日本人で本格的にスライダーを使ったのは藤本が最初でした。
そのときのことは今でもはっきりと覚えています。完全試合の意味も初めて知りました。写真を見たような気がしたのですが、記録を調べてみると、それは2日後の表彰式の写真でした。日本最初の完全試合にもかかわらず、交通事情の悪かった時代で、青森のこの試合に随行していたカメラマンはいなかったそうです。そのため史上に残る偉業を記録した写真は1枚もありません。
なおその後、完全試合を達成したピッチャーは14名になりました。
3.長嶋茂雄4三振でプロデビュー(1958年4月5日)
立教大学で通算8本のホームランを打ち当時の六大学新記録を作った長嶋をどこの球団が獲得するか注目の的でした。南海と巨人が激しく獲得競争をしましたが、長嶋は巨人を選びました。盟友杉浦投手が選んだのは南海でした。
評判通りオープン戦でも7本のホームランを打ちますます注目を集めました。そして迎えたのが後楽園球場の開幕での国鉄戦です。スワローズのエースは全盛期の金田正一、24歳で前年まで7年連続の20勝投手です。私は大学3年で下宿でラジオを聞いていました。
いつホームランが出るかワクワクして待っていました。ところがこのときは完全に金田の勝ちでした。長嶋は4打席とも空振りの三振、金田が投げた19球のうち、わずかにバットにボールが当たったのはファールの1回だけ、金田の速球とドロップ(縦に落ちるカーブ)に手も足も出ませんでした。しかしその思いきりの良さと三振しても悪びれない明るいイメージはファンの心を打ちました。対金田の打率はこの年こそ1割9分7厘でしたが、翌年は3割3分3厘、通算で3割1分3厘、本塁打も18本打っています。
4.神様、仏様、稲尾様。西鉄日本シリーズ大逆転(1958年10月21日)
長嶋が入団した年、巨人はペナントレースで優勝、日本シリーズも破竹の勢いで3連勝しました。日本シリーズで2年続けて西鉄に破れていましたが、私は今年はもう優勝間違いない、あと1つ勝てばいいんだからと幸せ一杯といった気分でした。水原監督も安心したのか4戦目が雨で中止になったとき、スポーツ新聞でシーズンオフのゴルフの事などを話題にしていました。
ところがこの雨が流れを変えたのです。1日の休養を得て西鉄の21歳のエース、稲尾和久がよみがえりました。第4戦完投勝利、第5戦は4回からリリーフで登板、延長戦に自らサヨナラホームランを打ってけりをつけました。1日休養をはさんだ第6戦は完封勝利、第7戦も味方の打線が爆発して完投勝利をおさめました。7戦のうち6試合に登板し、4試合が完投、勝ち星すべてをあげました。
「神様、仏様、稲尾様」と言ったのは三原監督だったのか、ファンだったのかは忘れましたが、今のプロ野球では考えられない大活躍でした。
その後西武や巨人も3連敗4連勝の逆転勝利をみせましたが、私には最初の西鉄が一番強烈なインパクトとなって残っています。
5.長嶋、天覧試合にサヨナラホームラン(1959年6月25日)
昭和天皇と皇后陛下がはじめてプロ野球をご覧になった試合で伝説が生まれました。「天覧試合」はプロ野球関係者の悲願でした。伝統ある巨人阪神戦が選ばれのは当然のことでした。
私は下宿で、一緒に下宿していた友人の白方さん(手賀沼通信読者)、弟(同)と、その年皇太子ご成婚のため下宿のおばさんが買ったばかりのテレビを4人で見ていました。私は巨人ファンですが2人とも阪神ファンでした。
試合は阪神が先行すると巨人が逆転し、阪神が再逆転すると巨人が追いつくという好ゲームでした。同点ホームランを打ったのは新人の王貞治です。そして9回裏、長嶋がバッターボックスに入りました。阪神のマウンドにはこれまた新人の村山実がいました。そしてカウント2―2からの5球目、村山が思いきり投じたストレートを思いきりたたくと、打球はまっすぐレフトのポール際に飛びこんだサヨナラホームランとなりました。
伝説となった一瞬です。そしてそれ以後、長嶋と村山はライバルとして数々の名勝負を演じました。なお村山は死ぬまであの1球はファウルだと言っていたそうです。
6.江夏、オールスター戦で9連続三振奪取(1971年7月17日)
阪神の江夏はこの年公式戦では6勝9敗でしたが、ファン投票でセントラルリーグ投手第1位に選ばれました。前年の1970年には21勝をあげ、340個の三振をとって三振奪取王でした。入団5年目の伸び盛りでした。
オールスター戦の先発のマウンドに立った江夏はパシフィックリーグの強打者をなで斬りにし、3回(オールスター戦では3回までしか投げられません)を全員三振にうちとったのです。捕手は同じ阪神の田淵でした。途中誰かがキャッチャーフライを打って田淵が取りそうになったとき、江夏が大声で「捕るな!」と叫んだそうです。
9連続三振の記録はまだ破られていません。江川が8連続三振までいきましたが、最後の打者にカーブを投げて内野ゴロを打たれてしまいました。もし同じ記録を打ち立てるピッチャーがいるとしたら西武の松坂ではないでしょうか。
その後江夏は1973年には24勝をあげ最多勝に輝きました。1976年南海に移ったあとは抑えの切り札に変身し、南海、広島、日本ハムで5回のセーブ王となり優勝請負人と呼ばれました。広島時代に近鉄との日本シリーズで無死満塁のピンチをしのいだ「江夏の21球」も今も語り継がれる伝説となっています。
7.巨人9連覇(1965年〜1973年)
巨人が勝ち進んでいた頃、「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉がはやったことがあります。強いもの、人気のあるものをたとえた言葉でした。巨人9連覇はいうまでもなく川上監督時代の記録です。川上は14年間巨人の監督を務め、11回のリーグ優勝と日本一に輝いています。リーグ優勝したときは必ず日本シリーズを制しました。それ以外の連勝記録は3連勝が最高で、巨人、西鉄、阪急、西武(2回)が達成しています。これらと比較しても9連覇は群を抜いています。もうあのような時代は来ないでしょう。
川上野球は、「哲のカーテン」とか「管理野球」とか「データ野球」とか言われましたが勝つための野球でした。確率を重視し石橋をたたいて渡る野球をしました。長嶋監督のひらめき野球とは正反対でしょう。またトレードをうまく使って5番を打つ強打者を何人か獲得しました。知恵袋の牧野助監督はドジャースをはじめ大リーグの野球を調べあげ新しいシステムや考え方を取り入れました。そして何よりも王と長嶋がいました。長嶋の力が衰えて10連覇を逃したとき川上は監督を退きました。そして長嶋も「巨人軍は永久に不滅です」という言葉を残して引退しました。
川上監督を引き継いで監督になった長嶋は、見習い期間や勉強の期間なしに長嶋抜きの巨人で戦わねばならなかったのです。最下位になったのも仕方がなかったのかもしれません。
8.王貞治ホームラン世界記録達成(1977年9月3日)
王貞治は引退するまでに868本のホームランを打ちました。ダントツの世界記録です。球場の広さやピッチャーの質の違いなど単純に比較することは出来ませんが、大リーグの記録をはるかにしのいでいます。
その王が最も全国の野球ファンの注目を浴びたのは、ハンク・アーロンの持つメジャーリーグ通算本塁打記録755号を超える756号を放ったときでした。昭和52年9月3日後楽園球場でのヤクルト戦3回裏のことです。私は当時仙台に転勤しており、家族4人でテレビを見ていました。相手ピッチャーは右腕の鈴木康二朗でした。試合終了後のセレモニーで、王選手は両親に菊の花でボールをかたどった記念の盾をプレゼントしました。その日の夜、福田赳夫首相は王選手に偉業をたたえるメッセージを送り、9月5日には首相官邸で日本初の国民栄誉賞が贈られました。
王は早稲田実業のピッチャーとして春の甲子園で優勝しましたが、巨人に入ってすぐバッターに転向しました。しかし入団後の3年間はホームラン通算37本、三振245で「三振王」の異名を取っていました。昭和37年川上監督は荒川コーチを招き王の特訓を命じました。それから2人の血のにじむような努力が始まりました。日本刀を一本足で構えてひもにつるした紙を切る練習風景をテレビで見たことがあります。王は天才ではなく努力の人であるといわれましたが全くその通りです。
9.野茂英雄大リーグで大活躍(1995年)
1995年5月2日ロサンゼルス・ドジャースの野茂英雄はサンフランシスコ・ジャイアンツ戦に先発し、5回を投げて、被安打1、奪三振7、無失点という見事なピッチングでデビュー戦を飾りました。メジャーリーグは前年8月から続いていたストライキがやっと終わり4月25日に開幕したばかりでした。翌日のニューヨーク・タイムズは、一面で野茂のデビュー戦を取り上げ「野茂英雄は米国の野球界に対する、日本の最高の贈り物だ」と報じました。
野茂は1989年ドラフト会議で8球団から1位指名を受け近鉄が獲得しました。そしてその年、最多勝、防御率・勝率・奪三振1位、新人王、ベストナイン、沢村賞、MVPの8冠を獲得しました。しかし突然1995年1月近鉄を退団、ドジャースに入団するのです。
日本人が大リーグに入ったのは野茂が初めてではありません。1964年に村上雅則がサンフランシスコ・ジャイアンツに入団しています。しかし村上の場合は球団同士の話し合いで、いわば武者修業のかたちで行ったのですが、野茂の場合は、自分の意志で、懸念する声を振り切って出かけたわけです。野茂はこの年13勝をあげ新人王を獲得、翌年は16勝でオールスターにも選ばれました。この野茂の活躍がその後の日本選手の大リーグ志向をかき立て、続々日本人大リーガーを生むことになりました。そして大魔神佐々木投手の活躍につながりました。来年はついに日本人初の野手としての大リーガー、イチローが誕生します。
10.日本シリーズで夢のON対決(2000年10月)
最後は夢の日本シリーズON対決です。巨人ファンの私は、パリーグはダイエー・ホークスの大ファンです。ジャイアンツは早々優勝を決めましたが、パリーグは僅差で接戦が続き、またオリンピックにスター選手を出したための日程の遅れでなかなか優勝が決まりませんでした。
ダイエーの優勝が決まったときは、20世紀の最後のシーズンに野球の神様はなんと素晴らしい贈り物を贈ってくれたことかと思いました。同感の方も多かったのではないでしょうか。
正直なところ今年はどちらが勝ってもかまわないと思っていました。ただどちらが勝つにせよ、7戦まで楽しませてほしいというのが私の望みでした。6戦で終わってしまったのはやや残念でしたが、来年もまた21世紀最初のシーズンでON対決を見せてもらいたいものです。
巨人やダイエー以外のファンの方には申し訳ありません。「たかが野球」です。お許し下さい。
20世紀のベストナイン
20世紀が幕を閉じる今年、いろいろなところで20世紀のプロ野球ベストナインを選ぶ企画が行われています。 読売新聞にも大きく掲載されていましたが、今日はインターネットの個人のホームページで探した20世紀のベストナインと私が好みと独断で選んだベストナインをご紹介いたします。インターネットのベストナインはそのホームページのオーナーが決めたのではなく投票で選んだものです。私のは私が選びました。皆さんの考えたベストナインと比べてみてください。
ポジション |
プロ野球ジャーナル |
ベースボール・レコード・ミュージアム |
新田良昭 |
投手 |
江夏豊 |
沢村栄治 |
金田正一 |
捕手 |
野村克也 |
野村克也 |
野村克也 |
一塁手 |
王貞治 |
王貞治 |
王貞治 |
二塁手 |
ローズ |
篠塚和典 |
千葉茂 |
三塁手 |
長嶋茂雄 |
長嶋茂雄 |
長嶋茂雄 |
遊撃手 |
松井稼頭央 |
松井稼頭央 |
吉田義男 |
外野手 |
イチロー |
イチロー |
イチロー |
外野手 |
張本勲 |
松井秀喜 |
張本勲 |
外野手 |
松井秀喜 |
福本豊 |
福本豊 |
(投手)
分かれましたね。好みの問題かもしれません。
江夏はその強烈な存在感とここというときの勝負強さでしょう。前章の6で書いた場面がファンの心をつかんでいます。
沢村は日米野球でベーブ・ルースやルー・ゲーリックをきりきり舞いさせた印象と戦争で散ったことが選ばれる原因となったと思われます。
私の選んだ金田は記録です。投手のほとんどの記録を独占しています。400勝、奪三振4490は2位を大きく引き離しています。。14年連続20勝以上、沢村賞、最多勝、最優秀防御率いずれも3回獲っています。
(捕手)
生涯一捕手として努力の結果積み上げたMVP5回、三冠王1回、ホームラン王9回、打点王7回、ベストナイン19回は文句ありません。
(一塁手)
ホームラン868本は世界記録です。ホームラン王15回、打点王13回、三冠王2回、MVP9回ほか記録は書ききれません。三冠王3回の落合は一塁手だったため不運でした。
(二塁手)
これも分かれましたね。二塁手は最も人材不足のポジションです。強打のローズ、好打の篠塚も他のポジションに比べるとやや物足りなさを感じます。
私の選んだ千葉は川上などと一緒に戦後の巨人の第一期黄金時代をつくった選手です。この二人が私を巨人ファンにしてくれました。ライト打ち(今でいう打球に逆らわないバッター)の千葉として一世を風靡しました。ともかくしぶといバッターでした。私のふるさとの名門松山商業の出身です。通算記録では3塁打が30番目に入っています。
(三塁手)
長嶋の素晴らしさはとにかくチャンスに強かったことです。プレッシャーのかかる開幕試合5年連続ホームランという日本記録があります。公式戦のMVP5回は王の9回にかないませんが、王が日本シリーズで取れなかったシリーズMVPを4回も獲っております。打ってほしいときに打ってくれたのが長嶋でした。同じ巨人の4番の原には歯がゆい思いをしましたし、松井もその点ではまだまだと思います。
(遊撃手)
インターネットの投票では松井稼頭央が選ばれています。若い人の多いインターネットの投票では現役が入るのは当然かもしれません。はつらつとしたプレーは現役ナンバーワンでしょう。しかし20世紀という点で考えるとやはり今牛若丸といわれた吉田でしょう。巨人阪神戦の試合前の練習でボールなしのフェイントで内野の球回しを見せてくれましたが、はじめて見た時の驚きは言葉になりませんでした。バッティングのしぶとさも当時ナンバーワンでした。
(外野手)
イチローは全員一致です。7年連続首位打者を継続中です。日本にいればあと何年継続できるか分かりませんが、来年からは大リーグに移るため記録は中断します。まだ27歳の若さですが20世紀の代表的外野手に間違いありません。
張本は安打3085本で3000本を超えたただ一人の選手です。広角打法で安打製造機といわれました。猛打賞251回という日本記録も持っています。落とすわけにはいきません。
福本はなんといっても1065の盗塁があります。盗塁王13回、ベストナイン10回、ゴールデングローブ賞12回の燦然たる記録があります。足が速いため守備も鉄壁でした。
確かに松井選手は現役の外野手としては最高です。しかし20世紀代表する選手としてノミネートするにはまだ実績が足りません。まだ26歳、素晴らしい可能性を秘めていますので21世紀のベストナインには間違いなくなれるのではないでしょうか。ファンとしてはそう願っています。