テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために     2001年2月20日発行      新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第35号)         〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:y-nitta@fra.allnet.ne.jp)                 新田良昭 
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 昨年も一昨年同様、出来るだけ暇を見つけては、セミナー、シンポジウム、フォーラムなどに出席しました。ほとんどが無料の会ですが、中には若干の資料代や昼食代がかかるものもありました。講演会やパネルディスカッションが中心で、パソコンとプロジェクターを使ったデモやスライドを使ったプレゼンテーションもありました。一昨年はなるべく多くの会に出席しようと、商品取引会社の主催するセミナーまで出たのですが、後からセールスにしつこく付きまとわれたことを反省し、テーマと主催団体を選びました。
 今月は、その中から印象に残った「米欧回覧の会」と「一橋記念講堂での2つのイベント」を取り上げます。
 また昨年11月、日本アイ・ビー・エムに勤務しておられた読者のお一人小嶋英雄さんから珠玉のエッセイ「我が心のふるさと」をいただいておりました。12月と1月は紙面の都合で掲載できませんでしたが、今月号でご紹介したいと思います。


2000年の講演会のベスト1―「米欧回覧の会」

 12月16日、日本プレスセンタービルの10階ホールで「米欧回覧の会」が開催されました。演題は「映像で辿るGrand Tour 岩倉使節の世界一周旅行」でした。

 午前10時30分から午後5時まで、岩倉使節団の世界一周旅行の跡を辿りながら制作者の泉三郎氏のナレーションで見るというマラソンショーともいえる内容です。会場には160名くらいの若い女性から高齢者までいろいろな年代の人が出席していました。中年や高齢の夫婦での参加が目立っていました。
 私がこの会に参加したのは大学のゼミの先輩の楠木さんの紹介で、初めてのことです。「米欧回覧の会」は、「岩倉使節団」と、その旅の記録である「米欧回覧実記」に関心を持つ人の集まりで、「岩倉使節団」の研究家でノンフィクション作家である泉三郎氏の志と情熱に共鳴した仲間により1996年に設立されました。現在会員は約200名、年4回の例会や分科会を開催しているとのことです。

 「岩倉使節団」は明治4年から6年(1871〜1873年)にかけて行われた明治政府の米欧視察団のことです。岩倉具視を大使とし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳を副使とする50人ばかりのエリート集団で、欧米12カ国を632日にわたって回覧し世界一周をした西洋文明の調査団です。
 「米欧回覧実記」は随員の一人だった久米邦武が編纂した全5冊2千数百ページに及ぶ、いわば使節団の準公式記録といえる大長編です。訪問した12ヶ国、120を超える都市や村について、地理的、歴史的に考察し、同時に各国の政治、経済、産業から宗教、教育、娯楽にいたるまで極めて多面的に観察しており、その背景にある原理や思想まで言及した比較文明論でもあります。
 泉三郎氏は「米欧回覧実記」に魅せられ、1976年から岩倉使節のルートをたどって追跡の旅をしてきました。その取材をもとに4種類の著書を出版しました。そしてその旅の過程で撮影した写真と収集した絵図や銅版画をもとに「岩倉使節の世界一周旅行」のスライドを制作しました。

 今回の集まりはこのスライドを一挙上映するものでした。
 スライドは全10巻約800枚でネット5時間以上かかります。途中に昼食のお弁当をいただいたり、休憩を取りながらの長丁場でした。しかししっかりした構成と珍しい写真と泉三郎氏の味のあるナレーションとで退屈は感じられません。あっという間の6時間半でした。

 スライドの構成は
 第1巻 使節団
 第2巻 太平洋横断
 第3巻 アメリカ編
 第4巻 英国編1
 第5巻 英国編2
 第6巻 フランス編
 第7巻 ドイツ、ベルギー、オランダ編
 第8巻 ロシア、スカンジナビア編
 第9巻 イタリア、ウィーン万博編
 第10巻 スイス、帰国の途
となっていました。

 岩倉使節団は明治4年11月12日横浜港を出発しました。先進国米欧の事情を学んで日本の近代化のお手本にするためと徳川幕府が結んだ日米不平等条約の改正の下交渉をすることが目的でした。太平洋を渡ってアメリカを皮切りに世界一周し、10ヶ月半で戻ってくる予定でした。横浜港の見送りはまことに盛大だったそうです。
 考えてみれば大変勇気ある使節団だったと思います。時の最高権力者岩倉具視をはじめ、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など明治政府の高官の半分が1年近く日本を空けるのです。明治維新が終わって4年、日本国内はまだまだ落ち着いていません。幕府の残党や不満分子がうろうろしていたと思います。今の日本を考えるととても考えられないことです。例えば森首相がそんなに日本を留守にすると、戻ってきたときにはまったく別の人達が政府を乗っ取っていることでしょう。またこの使節団を送り出した留守を守る政府も立派でした。三条実美、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、大隈重信などが留守部隊です。多分使節団は西郷がいるということで安心して出かけたのではないでしょうか。

 旅のルートはサンフランシスコに上陸した後、大陸横断鉄道でワシントンへ行き、ボストンから大西洋をわたってイギリスのリバプールへ上陸、ヨーロッパを視察後フランスのマルセイユを出発、地中海からスエズ運河を経て、紅海、インド洋、マラッカ海峡、太平洋を経由して横浜に帰りつくという壮大なものでした。当時はヨーロッパに留学するときもアメリカ経由でした。アメリカの大陸横断鉄道が一番便利だったようです。
 使節団はアメリカ旅行の途中各地で盛大な歓迎を受けました。最初からスケジュールは遅れがちでした。その大歓迎が使節団の行動を狂わせてしまいました。ワシントンでは条約改正の予備交渉をする予定でしたが、大歓迎を受けるくらい評判が良いなら本交渉をしてもうまく行くのではないかと考えた伊藤博文の主張を真に受け、使節団は本交渉を申し込んだのです。ところがそのための勅許を得ていなかったため、大久保や伊藤が日本に引き返し、委任状を得てワシントンに戻ってこなければなりませんでした。しかし大歓迎と交渉事は別物でした。委任状を持ち帰ったにもかかわらず条約改正はなりませんでした。しかもワシントンに130日以上滞在するという日程の遅れを生んだのです。

 私は岩倉使節団が世界を回って戻ってきたことは知っていましたが、そのルートや内容については知りませんでした。ましてワシントンでの出来事などは聞いたこともありませんでした。今回の会ではこのような興味ある出来事が次々豊富なスライドで解説されます。目からうろこといった感じでした。
 エピソードを続けると紙面が足りなくなりますし、それが目的ではありません。以下は省略しますが、いくつか印象深かったことを書いておきましょう。
 日程が632日にも延びてしまった使節団は、途中で帰国する人が出て来ました。まず使節団が西洋風の服装や考え方に変わっていくのに耐えられなかった旧守派が抜けだし、大久保利通はドイツ旅行の後、木戸孝允はロシア旅行の後帰国しています。そして視察団そのものも途中で旅程を切り上げ、数ヶ国を残して帰国しました。留守部隊に征韓論という大きな動きが出てきたからです。米欧の先進国の諸事情を見てきた視察団にとって、「今外国と戦争をするような状態ではない。一刻も早く日本の文明開化を推進する事が焦眉の急だ」というのが実感でした。急いで帰国したのです。なお、帰国時の出迎えは出発時の見送りに比べると大変さびしいものだったそうです。

 しかしこの視察団が得たものはその後の日本の政治や経済や諸制度などに非常に大きな影響を与えました。使節団のメンバーの多くは帰国後各分野のリーダーとして活躍し、新しい制度を創設しました。使節団とともに出発してそのまま留学した若人は60名近くにのぼりました。その人達も日本の近代化に貢献しました。たとえば最年少の7歳で同行した津田梅子はアメリカに留学、18歳で帰国して後に津田塾大学を創っています。

 スライドを見終わった後、参加者が感想を述べましたが、元NHKプロデューサー、東宝の映画監督、女子大生、テレビ朝日ニュースステーション関係者、衆議院議員など多彩でした。最後に伊藤博文の子孫で元東銀社員の方がコメントされました。
 泉三郎さんの半生をかけた壮大なロマンに皆さん感激していました。昼食代込みで3500円の参加費でしたが、つくづく出席してよかったと感じました。

 「米欧回覧の会」のホームページには詳しい情報が載っています。アドレスは
   
http://www.iwakura-mission.gr.jp/
です。
 興味のある方はぜひご覧下さい。


一橋記念講堂での2つのイベント

 東京都千代田区一ツ橋の一橋講堂の跡地に、文部省の高層ビルが建設されました。建築中は全館一橋大学のものという麗しい誤解をしていたのですが、生徒数の少ない大学に大きなビルをそっくりくれるほど甘くはありません。出来あがったビルは文部省のビルでその中に「一橋記念講堂」と「一橋大学大学院国際企業戦略研究科」が収容されました。
 以下2つのイベントは、新装なった「一橋記念講堂」で開催されたものです。大変内容の濃いい、すぐれたイベントでした。

1.マイケル・ポーター教授の記念講演

 2000年4月17日、「一橋大学大学院国際企業戦略研究科」の開校を記念してマイケル・ポーター教授を招聘して講演会が開催されました。この大学院は、「経営法務コース」「金融戦略コース」「国際経営戦略コース」「租税・公共政策コース」の4つからなり最初の3つは実務経験を持つ社会人が対象、最後のコースはアジア諸国の社会人が対象、しかも最後の2つは英語での授業という画期的なコースです。

 マイケル・ポーター氏は、ハーバード大学ビジネススクールの経営管理学の教授で、競争戦略および国際競争力の権威です。
 講演は出版されたばかりの「日本の競争戦略」の内容に沿ったものでした。この著書には「Can Japan Compete?  “成功の罠”にはまった日本企業の打開策」という副題がついています。かなり率直で辛口の、しかし日本に好意的な語り口でした。ポーター教授はとても気さくな感じで、ビジネススクールで最も人気があるというのがよくわかりました。
 この著書の共著者で、この大学院の教授の竹内弘高氏がポーター教授をエスコートし、解説しました。

 ポーター教授は、戦略を構築する際に唯一信頼できる指標は「収益性」であると説きます。この目標を達成するためには日本企業は経営に対する価値観を根本的に転換する必要があります。
 企業が成功しているかどうか、企業が経済的価値、顧客への価値、社会的価値を生み出しているかどうかは、投資に対する収益性を確保しているかどうか、つまり儲かっているかどうかが最終的判断材料とならねばならないという事をわかりやすく説明されました。
 そして企業やトップの評判は、事業規模でなく、戦略の独自性だという事です。
 お話を聞いていて、戦略が欠けているのは、日本の企業もそうですが、日本国家もそうだと強く感じました。巨額の財政支出をしながら、それが社会をよくする事に役立っていないと思います。国家戦略が日本にはないに等しいと感じながら聞いていました。

2.パネルディスカッション「日本的経営はどこにいくのか」「IT革命は経営の本質を変えるか」

 9月19日、「一橋ビジネスレビュー」新創刊記念シンポジウムと銘打って、2つのパネルディスカッションが行われました。
 「一橋ビジネスレビュー」は以前は「一橋大学産業経営研究所」の編集で、4年前からは「一橋大学イノベーションセンター」の編集で千倉書房より出版されていました。どちらかというと地味な季刊雑誌でした。新創刊本は、出版社を東洋経済新報社に変え、論文誌としての高いレベルを維持しながら、読みやすいものに変えています。
 記念シンポジウムは、新創刊本に論文の執筆や対談で登場した人を中心に、今注目されている方々を招いて開いたものでした。

第1部 「日本的経営はどこへ行くのか」

パネリスト

 ・伊丹敬之(一橋大学商学部教授)
 ・中谷巖(三和総合研究所理事長)
 ・小倉昌男(ヤマト福祉財団理事長)
 ・佐野力(日本オラクル会長)
 ・加賀野忠男(神戸大学経営学部教授 司会)

 パネルディスカッションでは率直かつ大胆な意見が出されました。日本的経営に理解を示す伊丹教授とアメリカ的経営の推進者の中谷理事長との論争は大変興味がありました。中谷氏も元一橋大学教授、お互いよく気心も知っているので遠慮はしません。激しい論争の中にもユーモアがあり、楽しく聞く事が出来ました。

 また大金持ちになった元IBMの佐野さんの話もユニークでした。主催者のけしかけもあったようですが「大いにお金をもうけよう。お金が出来ると世の中を見る目が変わる」という言葉は会場を沸かしました。
 なお佐野さんは昔からよく知っていますが、もともとユニークで愉快な人柄です。佐野さんの名誉のために弁護すれば、つい先日、もうけたお金の中から私財約3億5千万円を投じて、我孫子市の志賀直哉の旧宅前に白樺派作家の資料を集めた「白樺文学館」を作ったばかりです。佐野さんもIBM時代は我孫子市の市民でした。
 小倉氏はヤマト運輸で「宅急便」を創設し、物流業界に革命をもたらしました。物静かなお話の中に信念と哲学のようなものが感じられました。

第2部 「IT革命は経営の本質を変えるか」

パネリスト

 ・竹内弘高(一橋大学大学院教授)
 ・青島矢一(一橋大学イノベーション研究センター助教授)
 ・三木谷浩史(楽天社長)
 ・鈴木尚(デジキューブ会長)
 ・米倉誠一郎(一橋大学イノベーション研究センター長 司会)

 こちらは年齢も若く、時代の先端を行くIT革命に乗ったベンチャービジネスの創業者やIT革命で顔を売っている先生方です。元気で面白い話が出て来るのは当然です。楽天社長の三木谷氏も、佐野さん同様、株式公開で莫大な創業者利益を得たようです。

 ただIT革命は日本の経済を支えてきた伝統的大企業も変えて行こうとしています。出席者にベンチャー企業だけを選んだため、そちらの視点からの話がほとんど出なかったのが残念でした。


特別寄稿
我が心のふるさと(北鎌倉円覚寺と栄区)                小嶋英雄

 200078日朝、昨日の季節はずれの台風が嘘のように、緑あざやかな大木、秋を思い出させるような青空、小鳥のうれしそうな声、私は18年前に、この石畳の階段をはじめて登っていった、あの日を思い出しながら、あの時のようにゆっくり歩いていた。
 名古屋から東京勤務になり栄区に移り住み、しばらくして、本郷台の家から車で、約15分位の北鎌倉、円覚寺に来たあの時は、若かったし緊張した毎日だった。高度経済成長の真っ只中で、営業の担当者として、日々、数字の目標に向かって、毎日をあわただしく過ごしていた。ほっとするのは、日曜日の早朝、円覚寺の緑と、森閑とした雰囲気だった。ここへ来ることで一年前に亡くなった母に会えるような気にもなっていた。
 今年も、雨の中を凛として咲いていた境内のあじさいも終わりを告げているようであった。アジサイの花を見ていると、昨日の嵐、今日の青空、私の人生の模様をあらわしているような気がした。

 ちょうど、16年前だった。生まれたときから、病気がちで心配ばかりかけていた息子が、ようやく運動好きの小学6年生になり、サッカーや遊びに夢中になって走りまわっていた。ある日突然、息子が「あと6か月の命です」と病院の先生から言われたとき、私は本当に頭の中が真っ白になり、何が何だかわからなくなっていた。その時も円覚寺の石段に登った。人生は本当に何が起こるかわからない。「なぜ,自分に」との思いが生じた。それから無我夢中だった。 8月11日、今年も暑い夏がやってきた。「遅いなあ」と思っていた蝉も今はたけなわと鳴いている。高校野球が始まり、毎日熱戦が繰り広げられている。あの時の息子は無菌室で一人で闘っていた。その時の彼にとって、テレビの高校野球は唯一の楽しみだった。「本当に助かるのか?」「何とかして、もう一度高校野球を見に、大阪へ連れて行ってやりたい…」
 16年後の今日、まさか、その大阪で、一人で元気に働いているとは。その時は夢にも思わなかった。今日あるのは、本当にいろいろな人のお蔭と言ってよい。
 娘も結婚し、子供達も何とか巣立ち、私は今年、お蔭様で元気に60歳(還暦)を迎えることができた。

 私にとって、栄区の生活は、生まれ育った琵琶湖畔のふるさとよりも長くなり、名実ともに第二のふるさとになっている。これからの人生をこの街で過ごして行きたい。栄楽クラブのお蔭で、地域の皆さんとも少しづつお付き合いが広がるようになってきた。
 これからは、仕事、ボランテイア、趣味をバランスよく、一生現役で何かお役にたてればと思っている。
 今日あることを有難いと感謝しつつ、残りの人生を精一杯いきたい。 


編集者からのお願い

 先月号で21世紀に起こりうる事件や現象を書きました。私の勝手な、無責任な内容でしたが、今までの通信の中で最も数多くの感想やご意見をいただきました。
 大いに予想されることだというご意見がかなりありました。また、ショッキングな出来事として人口の減少をあげましたが、はたしてよくないことでしょうかというご意見もありました。人口の減少は今のままなら確実に起こることです。それを前提に社会の在り方を考えていけば、かえって住みやすい世の中になるというご意見でした。

 読者の方が次第に増えてきたこともあると思いますが、コメントが増えると書き手にとって大変励みになります。これからもよろしくお願いいたします。
 また皆様方のご投稿もよろしくお願いいたします。せっかくいただきながらまだ掲載させていただいてない原稿もありますが、テーマを選んで必ず載せたいと思っています。

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