テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために      2001年6月20日発行   新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第39号)     〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
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 今月は先月の病気発生のきっかけとなった「台湾旅行の旅行記」をお送りいたします。手賀沼通信第38号が2週間遅れとなったため、39号を予定通り出すには新しいテーマを準備する時間が足りず、囲碁でいえば時間つなぎの手のようになってしまいました。
 ところで私の後に台湾に出張し、往路の飛行機内で病気になった友人が台湾の病院にかかりました。そのときの感想がメールで入りましたのでご紹介いたします。

 「午後8時半ころ、現地の人に連れられ、病院に行きました。台湾の医療体制は日本より患者思いで、休日は週日に一日と日曜と祭日午後半日(病院によっては全日営業です。しかも週日は朝8時半〜夜9時半ころまでが診察時間です。)
 台湾の医療技術レベルは判りませんが、医療機器が日本より新しいものが地方の病院にも導入され、地方の小医院でも数医院が共有使用していることは事実です。
 日本に比べて医療費が格安です。私が受けた治療(初診、実費、診察、注射、投薬)の支払は501台湾ドル≒1900円です。これが全民保険ですと、どんな病気でも、1診療50台湾ドルです。CTを受けても国民保険加入者であれば一律です。これが破綻することはないのか、余計な心配をします。これに比べると、日本の医療費はかなり割高です。その上、医者のサービスはよいとはいえません。」

 私の場合、異国で病院に行くなど考えもしなかったのですが、台湾の病院なら心配なかったのかもしれません。


台湾紀行

 416日〜18日の3日間、アジアシリーズ第5弾として台湾に行ってきました。旅行の一部については、手賀沼通信第38号の「前立腺の手術」で書きましたが、あらためて旅行記にまとめてみました。 
 タイや韓国のツアーと同じ近畿日本ツーリストのクラブツーリズムの旅で、コース名は「花蓮・台北人気の2都市廻り3日間」、23日、49,800円の格安料金のツアーです。同行はいつもの牛久の佐藤さん、総勢10名の一行でした。

1.司馬遼太郎の「街道をゆく−台湾紀行」より

 今回の旅行は最後の1日が排尿がストップするというアクシデントにみまわれたため、正直言って台湾旅行そのものの印象が希薄になってしまいました。しかも戻った翌日から病院通い、入院、手術と続いたため、旅行そのものについて皆さんにお伝えするメッセージがなかなかわいてきません。そこで退院してから台湾についてゆっくり振り返るため、私の好きな司馬遼太郎氏の「街道をゆく−台湾紀行」を読み返しました。ここでは司馬さんの文章をお借りして台湾を語ってみたいと思います。「街道をゆく−台湾紀行」はシリーズ全43冊の40冊目で司馬さんが亡くなる2年前に完結しています。

 今、日本は中国や韓国から教科書問題で書きなおすよう厳しい注文を受けています。一方、台湾も日本の支配を受けた歴史がありますが、日本に対しては好意的といわれています。
 司馬さんも日本が台湾を統治したことを台湾の人々が評価していると書いています。(『』内は司馬さんの文章の引用です)

 『1895年から50年間,台湾は日本領だった。近代日本に辛口の邱永漢氏でさえ、台湾島の50年について、「もしそうでなかったら、台湾島は、そのそばの海南島のようでありつづけたろう」という意味のことをいう。』
 日本は台湾の近代化につくしました。中国や韓国と違って、台湾では日本語をしゃべる会などが出来て日本統治時代を懐かしむ人もいます。
 『児玉源太郎と後藤新平が日本領時代50年の台湾の行政の基礎をつくったといっていい。』
 『児玉の台湾における女房役となった後藤新平は、人材を探しては、台湾に送った。新渡戸稲造もそのうちの一人だった。』
 児玉源太郎はその後日露戦争の陸戦大勝利をもたらした人で、後藤新平は関東大震災当時の東京市長、新渡戸稲造は5千円札の顔のいずれも傑物です。

 『日本時代以前の台北の市街は、清国のままの純然たる中国式だった。城壁・城門が設けられていて中国式の民家が軒をつらね,街衢はせまく、当時の北京でさえそうであったように、台北でも汚水が路上を流れ、不衛生そのものであった。』
 『全島に、防疫運動も展開した。また公設の魚菜市場と製肉場もつくった。最初はここからの収益をすべて衛生費にあてるというやり方をとった。この財源捻出のやり方は後藤新平のアイデアで、また「公共衛生費」という予算費用のたてかたも、財政学上、独創的なものであったらしい。』
 『いうまでのないことだが、後藤、高木、浜野らの努力で、台湾における上下水道の整備は、日本内地よりはるかに早い時期に完成した。』

 ところが戦後になって蒋介石の国民党が毛沢東の共産党に敗れて台湾に逃げてきてから、事情が変わってきます。台湾の町は歩道があまり整備されていません。店の前には歩道らしきものがありますがとても歩きにくく出来ています。司馬さんは次のように書いています。
 『夜、商店街の歩道を歩いた。ここでいう歩道とは、商店のならびの軒先の道のことである。ここばかりは車が襲ってこない。が、歩道も、歩行に安らかとはいえない。「ここは、一段高くなっていますから」産経新聞台北支局長の吉田信行氏が、先導しつつ声をかけてくれる。「ああ、今度は一段低くなりました」山を歩いているようである。とくに、近眼に老眼がまじって足元への距離のつかみにくい家内には、この親切はありがたかった。いうまでもなく、歩道は公共のものである。が、台北では商店ごとの私が優っている。自店の都合で店頭の歩道を盛りあげたり、そのままであったりする。「戦前の台北では、ありえないことでした」と、ある老台北が、日本時代のことをほめて(?)くれた。「蒋介石氏がきてから大陸の万人身勝手という風をもちこんだんです」』

 蒋介石と共に大陸からやってきた人達「外省人」は、元から台湾に住んでいた「本省人」を支配しました。「本省人」は多数派とはいえ、被支配層で、発言力が弱いだけでなく、弾圧されたり、殺されたりしました。1947年2月28日に起こった民衆弾圧では、数万の人々が虐殺されたといわれ、「2・28事件」として語り継がれています。司馬さんはこう書いています。
 『大陸から、中華民国がやってきた。当初、台湾の多くのひとびとはこれを光複(祖国復帰)として歓呼の声をあげ、青年たちは、孫文の「三民主義」を論じたり、きそって国語(北京官話)を学んだりした。やがて失望した。やってきた陳儀以下の軍人・官吏は宝の山に入りこんだ盗賊のように略奪に奔走し、汚職のかぎりをつくした。「犬(日本人)が去って豚がきた。犬は小うるさいが、家の番はできる。豚はただ食って寝るだけだ。」という悪口が流行した。』

 私達は花蓮では中信大飯店(ホテル)に泊まりました。そして翌日は台湾屈指の景勝地「太魯閣峡谷」を観光しました。司馬さんの「台湾紀行」には当時総統だった李登輝氏との花蓮でのふれあいを書いています。司馬さんと李登輝さんとは肝胆相照らす仲だったようです。お二人が大変身近に感じられたのでちょっと紹介させてください。 
 『そのとしの1月8日の夜8時、李登輝総統の官邸で、お茶の馳走にあずかった。李登輝さんの応接室では、話が弾んだ。やがて時間がきて私が立ちあがると、李登輝さんがあわてて制した。「もうすこし」しかし、遅くなれば、この人の健康をそこねる。私は四月にはまたきます、といった。「今度は東部の山地へゆきますが」「じゃ、四月にはボクが案内する」と、この人は旧制高校の日本語でいった。冗談じゃない,こんなえらい人に案内されてはたまらないと思いつつ、同時に、アジア的な威厳演出とはほど遠いこの人の人柄におどろかされた。』
 『花蓮のまちには、4月9日に来た。翌日、市中を歩き、納骨堂などにのぼった。その夜、李登輝さんが、花蓮の私どもが泊まっている花蓮中信ホテルにやってきた。なんだか、いったん言葉に出したら必ずやるという性分の人らしくて、おかしかった。夫人の曽文恵さんも、ご一緒だった。この夫妻は、一人息子の李憲文さんを若い癌で失っている。その未亡人の張月雲さんと、遺児である12歳の李坤儀さんも一緒だった。要するに当方に気をつかわせないようにという配慮からのようで、家族旅行の途上という形をとっていた。花連には、太魯閣という断崖と絶壁と急流の景勝がある。李登輝さんは、明朝、李坤儀嬢にその景勝を見せたいという。私も太魯閣ゆきを誘われたが、景勝よりも朝寝のほうがいい、とわがままを言ってうけ容れてもらった。』

2.看板の読める台湾のまち

 台湾でも多民族国家中国の標準語である「普通話」が使われています。「普通話」は、司馬さんの文章の中では「北京官話」となっていましたが、中国の首都北京に住む教養ある階層が日常使っている言葉が母体になっています。そして中国では公式の文字としては「簡体字」とよばれる,中国で独自に簡略化された文字を使っています。この簡体字は私達日本人には読めない文字です。(この文章の中でご紹介しようといろいろ試みてみましたがワードではうまくいきませんでした。インターネットのブラウザ−やメールの文章では表示できるのですが、ワードには中国語簡体字がありません)

 ところが台湾では「繁体字」とよばれる漢字のルーツが使われています。日本で戦前使われていた漢字です。例えば「学」は「學」、「国」は「國」、「鉄」は「鐡」、「会」は「會」などです。日本でも当用漢字だけの教育を受けた若い人はだんだん読めなくなるかもしれませんが、私達一部戦前の教育を受けた者には十分読めます。
 台湾の町の看板は全部読めました。日本語の「自動車」が「汽車」で日本語の「汽車」が「火車」などという一部意味の違う言葉がありますが、ほとんど意味もわかります。看板が読めるということは歩いていても大変な安心感を与えてくれます。いままで中国、マレーシア、タイ、韓国などに行きましたがあまり看板が読めません。看板が読めないとなんとなく居心地が悪く不安なものです。台湾が日本人にとって親しみやすいのは、対日感情のよさとともに文字が読めるということだと感じました。

 今回の現地のツアーガイドは珍しく60歳台の男性でしたが、中国の簡体字について聞くと、「共産党が勝手に文字を変えてしまったので自分達にも読めない」と憤慨していました。中国では昔の書を研究するなら日本にいけといわれているそうです。本当は台湾のほうがむいているのかもしれません。

3.アジア各国のお国事情・旅のあれこれ

 この2年間の間にアジア6つの国と地域(中国、シンガポール、マレーシア、タイ、韓国、台湾)を回りました。短期間の表面的な観察ですが、それぞれのお国事情について触れてみたいと思います。

道路・交通事情

 どの都市も道路は混んでいます。人間でなく車が主役です。韓国以外は日本車が一番目につきます。シンガポールは道路によって時間によって自動的に料金が課せられるロードプライシングが採用されています。
 中国は自転車の大群が幅を利かせています。シンガポールには朝マレーシアからバイクで労働者がどっと入ってきて夕方には帰っていきます。タイもバイクが多く、2人乗り3人乗り4人乗りでマイペンライ(なるようになれ)と走っています。台湾はほとんどスクーター型のバイクです。中国とタイと台湾は大通りを除くと歩道が駐車場のようになっていて、まともに歩くことができません。

列車

 中国以外では列車を利用する機会がありました。マレー鉄道、韓国のセマウル号、台湾の自強号とも電車でなくジーゼルエンジンですが、日本の在来線の特急によく似ており快適でした。スピードも同じ様な感じです。社内販売もあります。セマウル号では食堂車にいきました。タイではローカル線の普通車に乗りましたが、「戦場にかける橋」の上を通るということが売り物で、冷房もなく窓をあけて走りました。地元の人が多くかなり混んでいました。

宗教

 どの国も仏教が広く根づいています。ただどの国のお寺も日本のお寺とは違って鮮やかな色彩に満ちています。けばけばしいといったほうが当たっているかもしれません。タイのお寺は金色で彩られていました。また、マレーシアではイスラム教が、中国と台湾では道教が大きな力をもっていました。マレーシアにはヒンズー教のお寺もありました。イスラム教のモスクは幾何学模様、ヒンズー教の寺院は動物や人間の彫刻が特徴です。

マッサージ

 シンガポール・マレーシア旅行以外は夜のオプショナルツアーにマッサージのコースがありました。
 中国と台湾は足つぼマッサージで足の裏を中心にもんでくれます。なかなか気持ちのいいものです。靴下を脱いでズボンをまくるだけでよく、お手軽で料金も安くあがります。
 タイ式マッサージはマッサージ用のガウンに着替えた後、私達仲間は男性も女性も同じ部屋に入れられ、若い女性が上に乗ったり、下から膝の上に乗せたり伸ばしたりでかなり激しいマッサージでした。膝や腰の悪い人はやめた方がいい感じです。
 韓国式エステはバラエティに富んでいます。日本のお風呂と同じ素っ裸で、まず穴倉式のサウナに入り水風呂に入った後、台の上に乗せられて、お湯をかけられたり,葉っぱでたたかれたり、もまれたり、まるで俎板の上のマグロといった感じです。当然マッサージ師は異性ではありません。時間も一番長く費用も一番高くつきました。
 ただいずれもオプショナルツアーだったため、日本人専用といった感じの場所で割高だったような気がします。現地の人が利用するようなところならきっと安くいけると思います。

ホテル

 いずれのツアーも格安料金だったため、市内の中心にある超一流のホテルではなく、市の中心から外れたところか、リゾート地の一流ホテルでした。設備や用度品は一応そろっているところが多かったのですが、なぜか韓国だけは歯ブラシなどの洗面用品がありませんでした。冷蔵庫の中の飲みものは日本のホテル並の高い料金です。セブンイレブンが近くにある場合はビールを買ってきて冷やして飲んでいました。セイフティボックスが部屋の中にあるホテルは少なく、2日以上逗留するときはフロントのセイフティボックスに預けました。どこのホテルも観光客用に市内の地図を用意しています。もらっておくと便利です。

両替

 両替は現地のツアーガイドが現地通貨を用意しています。今までの経験では、日本で両替していくのが一番損でした。日本から添乗員がついて行かない場合は現地の空港で現地のガイドが待っている場所に集合するのですが、なかなか現れない参加者がいます。たいてい空港の両替所で両替しているため遅れるのです。みんなの迷惑になるばかりでなく、ガイドの用意している現地通貨より交換レートが悪く損をすることが多いようです。

物価

 物価は日本より安いのですが、免税店などツアーで案内される日本人用の店は決して安くありません。またツアーで食事をする際のビールも台湾の場合はどこも大瓶1本600円で決して安くはありませんでした。ただ2年前の中国は90円から225円で安かったのを覚えています。

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