テキスト ボックス: 高齢者の豊かな生活のために     2001年9月20日発行      新田ライフプランニング
手 賀 沼 通 信 (第42号)         〒270-1147 千葉県我孫子市若松151-3
  (TEL&FAX:0471-83-2898) (E-mail:ynitta@jcom.home.ne.jp)                 新田良昭 
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 今月のテーマは「高校野球」です。昨年12月、20世紀のプロ野球をテーマに取り上げましたが、その時お約束した高校野球をお届けいたします。やはり小学生時代からの高校野球ファンの私にとって楽しみながら書けるテーマでもあります。
 毎年、高校野球が終わると長かった夏も終わりに近づきます。今年の夏は特に長かった感じがします。関東以北では8月は涼しかったのですが、高校野球の甲子園は連日35度前後の猛暑と報道されていました。しかし高校野球には暑い夏がよく似合います。何年か前、娘の母校の我孫子高校が甲子園に出場したとき、夜行列車で応援に駆けつけましたが、あの時の甲子園の暑さと熱気をまだ昨日のことのように覚えています。
 野球王国といわれる四国の愛媛県で生まれたこともあって、高校野球とのおつきあいは子供の頃からです。今でこそ夏の甲子園は各県最低1校出場してきますが、以前は愛媛県と香川県で北四国の代表を争いました。夏将軍といわれる松山商業が出たときには、ラジオにかじりついて聞いたものです。東京や千葉に住んだ期間のほうが何倍も長くなりましたが、今でもふるさと愛媛県代表に熱い視線を注いでいます。

 ところで今月から字の大きさを9ポイントから10ポイントに少しばかり大きくしました。読者の大野さんから、高齢者には読みにくいというご意見をいただきました。作るほうも大きい字のほうが楽ですし、読者のほとんどが高齢者ということを考えると、有難いアドバイスです。そして大きさも、多くの方からリクエストいただいていたA4(紙の場合はA3)に統一することにいたしました。従来のB5に比べると半ページ以上の原稿量が必要になりますが、何とか紙面を埋めるよう頑張ってみたいと思います。

 なおこの記事は私の記憶をもとに、正確なデータを「まるわかり甲子園全記録−20世紀<春&夏の高校野球>完全版」(森岡浩著 新潮社)とインターネットからいただいています。


高校野球の歴史と興味深いデータ

1.プロ野球より長い歴史の高校野球

 第1回の高校野球が開催されたのは大正4年(1915年)夏です。プロ野球の誕生が1936年ですので、21年も前に高校野球が生まれました。第1回の参加校は全国で73校、甲子園には10校が出場しました。今年の夏は第83回、全国の予選は4208校で争われ、甲子園には49校が駒を進めました。したがって今年の優勝校日大三高は4208校の頂点に立ったことになります。

 春の大会は大正13年(1924年)に始まりました。今年で73回目になりました。今までに高校野球が中止されたのは、大正7年に米騒動で、昭和16年夏から昭和21年春まで太平洋戦争のための夏6回、春5回です。夏の大会が今のように東京と北海道は2校、他の都道府県は1校となったのは昭和53年(1978年)の第60回大会以降です。それまでは記念大会を除くと、県予選に勝ちぬいた後、地区大会で勝って初めて甲子園に出られるということでした。春の大会は今年は21世紀枠で2校増え34校でしたが、昭和58年(1983年)から32校となっています。春の大会はその前年秋の地区大会で上位を占めた学校から選抜されます。したがって東京と北海道以外にも同じ府県から2校選ばれることもあります。

 私の独断を言わせていただけると高校野球はやっぱり夏ですね。春はなんとなく出場校が決まってしまうといった感じですが、夏は全校に出場のチャンスがあります。本格的な夏が来るとともに、県の予選が始まります。大阪、愛知、神奈川、千葉といった出場校の多い府県では優勝するまでに、1〜5回戦、準々決勝、準決勝、決勝と8回勝つことが必要です。甲子園では5回か6回勝てば優勝ですから、県の代表校になることのほうが甲子園で優勝するより難しいのです。しかもあとが無いトーナメント方式です。優勝候補が負けてしまうことも多いのです。春夏連覇が難しいのもうなずけます。
 それになんといってもあの熱い炎天下のグラウンドで汗と泥にまみれながら必死で白球を追う高校生の姿が高校野球の醍醐味でしょう。高校野球は夏のイメージと完全に重なっています。

2.興味深いデータのいろいろ(2001年春現在)

 高校野球というとお国自慢につながります。大分前に新聞かなにかで読んだことがありますが、高校野球はまず自分のふるさとの学校を応援する、その次はふるさとの近くの都道府県の代表校を応援する、最後は西日本か東日本で自分のふるさとがあるほうを応援するとのことです。

 そのお国自慢からはじめましょう。例によって独断と偏見はお許しください。なお以下のデータは今年の春の選抜までで今年の夏の大会は入っていません。

 まず通算の勝率から見てみましょう。

      春    夏   春夏通算   

 1位  高知県  愛媛県  高知県 
 2位  徳島県  大阪府  愛媛県
 3位  愛知県  広島県  神奈川県

となっています。最近は変わりましたが、歴史で見るとやっぱり四国は野球王国と言えます。 なお、一番勝率の低い県は新潟県で、その次は山形県です。

 次に高校別の勝利数です。

      春    夏   春夏通算 

 1位  中京高  中京高  中京高 
 2位  東邦高  松山商  PL学園
 3位  県岐阜商 平安高  平安高

 ちなみに中京高は勝数は春夏通算117勝39敗勝率7割5分、PL学園90勝25敗勝率7割8分2厘で、勝率からするとPLのほうが優っています。
 都道府県別優勝回数は、春夏通算で、大阪府17回、愛知県16回、和歌山県12回がベストスリーです。1度も優勝していない県は北海道、東北6県、北陸4県、山梨、滋賀、鳥取、島根、長崎、宮崎の17県です。
 初出場校からよく「甲子園1勝が目標です」という言葉を聞きます。出場回数10回以上の高校で、初戦突破率(初戦の勝率)が良い順に10校選ぶと次のようになります。明徳義塾高(15勝1敗)、銚子商、高知商、今治西高、PL学園、報徳学園、中京高、池田高、箕島高、天理高となります。
 通算ホームランの多い順に10校並べると、PL学園(67本)、天理高、池田高、智弁和歌山、宇部商、高知商、浪商高、早稲田実業、上宮高、松山商です。PLの清原選手は通算13本のホームランを打っています。通算のホームランが清原選手1人の13本以下の県が10県もあります。


思い出に残る名勝負・名監督・名選手

 私が選んだ思い出に残る名勝負・名監督・名選手をご紹介しましょう。当然戦後の話になります。これまた独断と偏見で選んでいます。年代順に追っかけてみましょう。

1.徳島商業の板東投手と魚津高校の村椿投手の息詰る投げ合いで延長再試合

 昭和33年夏、準々決勝で板東英二の徳島商業と村椿輝雄の魚津高校が一歩もひかぬ投手戦を見せました。豪腕板東投手を擁する徳島商業は優勝候補でした。板東は前評判通り、初戦の秋田商業からは17奪三振、続く八女商業からは14奪三振と快調で、準々決勝で無名の初出場の魚津高校と当たりました。豪速球の板東と打たせて取る村椿は息詰る投手戦を展開、ついに0−0のまま、18回を迎え、引き分け再試合となりました。
 翌日の再試合も徳島商業は板東が先発、一方の魚津高校は村椿が4回からリリーフで投げました。試合は徳島が3−1で制しました。私は大学2年で帰郷した伊予市の実家でラジオを聞いていたのを覚えています。板東は決勝では疲労からか柳井高校に7−0で敗れました。板東の引き分け再試合も含めた6試合通算83奪三振記録は今も破られていません。
 板東はその後中日に入団、短い選手生活の後、野球解説者になりました。その後タレントに転進、野球界から芸能界に移る草分け的存在になりました。

2.報徳学園が倉敷工業に奇跡の大逆転

 今でも奇跡の大逆転といわれている試合があります。昭和36年夏初出場の報徳学園は1回戦で倉敷工業と当たりました。試合は0−0のまま延長戦に縺れ込みました。そして11回表倉敷工業が6点を入れた時には、試合は決まったものと思われました。ところがその裏奇跡が起こったのです。
 報徳学園は粘って2点を入れましたが、ツーアウト3塁という場面で倉敷工業の監督は予選直前に鎖骨を骨折して登板できなかった本来のエースを登板させました。3塁の走者がかえってもまだ3点差、怪我に苦しんだエースに甲子園のマウンドを踏ませたいという監督の温情でした。
 ところがこれが報徳学園の打線に火をつけました。この回さらに4点を入れて同点にし、さらに12回裏に1点を入れてさよなら勝ちをおさめました。

3.松山商業と三沢高校 決勝戦で引分け再試合

 昭和44年夏の決勝戦引き分け再試合はあまりにも有名です。コーちゃんこと三沢高校の太田幸司投手はアイドル選手の草分けとも言える人気者、その太田幸司投手が延長18回と翌日の再試合を完投、しかも試合に負けて悲劇のヒーローとなったからです。
 私は最初の試合の最後の何回かを、日本アイ・ビー・エムのSEとして担当していたお客様の談話室でお客様と一緒に見ていました。まわりはみんな三沢高校の応援です。松山商業の勝利を願っていたのは私だけです。松山商業のチャンスになってもとても声を出すことはできませんでした。
 結局、延長18回、0−0のままで引き分け。太田幸司と松山商業の井上明の投げ合いは見事と言うほかありませんでした。「両校とも優勝にしろ」という声もあったようです。翌日の再試合は4−2で松山商業が勝ちましたが、有名になったのは悲劇のヒーロー太田幸司投手でした。

4.作新学院の怪物・江川卓

 森岡浩氏の「まるわかり甲子園全記録」によると、高校野球のピッチャーで1番すごかったのは、断然江川卓とのことです。5季連続出場のPL学園の桑田や春夏連覇の横浜高校の松坂も偉大ですが、江川にはこの2人と決定的に違う点が2つあると書いています。
 1つはPLや横浜はチーム自体が強かったが、作新学院は江川がいなかったら甲子園には出られなかっただろうということ、2つ目は桑田や松坂は結構打たれているが、江川はほとんど打たれていないということだそうです。

 江川の記録をまとめてみましょう。
・昭和47年夏栃木県予選:完全試合1回、ノーヒットノーラン2回、(準決勝敗退)
・昭和48年選抜甲子園大会:1回戦19奪三振、2回戦7イニング10奪三振、準々決勝1安打20奪三振、準決勝)2安打敗退
・昭和48年夏栃木県予選:2回戦、3回戦、決勝でいずれもノーヒットノーラン
・昭和48年夏甲子園大会:1回戦23奪三振、2回戦延長12回0−1押し出しで敗退

 江川は上記を含む公式戦に44試合登板、31試合完投、ノーヒットノーラン7回、完全試合2回で、完投した公式戦のうち約3割は完全試合かノーヒットノーランです。それ以外の試合でもほとんどが1安打か2安打です。こんな投手は2度と出ないのではないでしょうか。

5.甲子園史上最高の試合といわれる箕島高校対星陵高校

 昭和54年夏の3回戦で尾藤監督の箕島高校と山下監督の星陵高校が対戦しました。試合は延長18回箕島が4−3で勝ちましたが、この試合のスコアを見ると死力をつくして戦った後がわかります。

星陵 000100000001000100  3
箕島 000100000001000101x 4

 延長に入って星陵が勝つチャンスが2度ありましたが、2度とも箕島に追いつかれました。箕島は12回も16回もともに2死からのホームランでした。特に16回は、2死からバッターが一塁側にファールフライを打ち上げ、一塁手がボールの落下点に入ったと思った瞬間グランドに敷いてあった人工芝に足を取られて転倒、その直後に飛び出したホームランでした。
 そして引き分け再試合になる直前にさよならゲームとなったのでした。

6.昭和57年夏・58年春連覇の蔦監督の池田高校

 高校野球にさわやかさと力強さをもたらしたのは、蔦監督率いる池田高校でした。昭和49年春にわずか11人で選抜に初出場し、決勝戦で敗れはしましたが「さわやかイレブン旋風」を巻き起こしました。
 そして昭和57年夏には強力打線で高校野球に革命をもたらしたのです。全員がグリップいっぱいにバットを持って、1番から9番までフルスイングしてくる打線は、準々決勝で荒木大輔投手の早稲田実業を14対2で破り、決勝では広島商業を12対2で下しました。高校野球といえばバントを多用するのが常識となっていましたが、蔦監督は「打って点を取る」ことを重視して打線を徹底的に鍛えました。なおこの年の優勝投手はプロ入りした畠山でしたが、畠山も最後は打力を買われて野手に転向しています。
 そして翌年春、後に巨人入りした水野投手を擁して優勝しました。夏には、夏、春、夏の3連覇を目指して勝ち進みましたが、桑田、清原の1年生コンビのPL学園に準決勝で敗れました。

7.桑田・清原のPL学園 5回連続準決勝以上進出

 甲子園で1番勝っている監督はPL学園の中村監督です。通算成績58勝10敗、16回甲子園に出場し、優勝6回、準優勝2回、初戦敗退は2回しかありません。特に桑田、清原のいた昭和58年夏から60年夏にかけての成績は、優勝、準優勝、準優勝、ベスト4、優勝となっています。高校生が高校野球に出られるのは1年の夏から3年の夏までの5回ですが、桑田、清原はその全てに甲子園に出場しました。大阪大会では無敵、甲子園でも抜群の成績を残したのです。1年でのデビューの年と3年での最後の年の優勝でした。

8.奇跡の大遠投が松山商に優勝をもたらす

 最近よく語られるのが、5年前の決勝戦での奇跡の大遠投です。
 平成8年夏の決勝戦は松山商業と熊本工業が戦いました。珍しく公立名門高校同士の戦いになりました。特に熊本工業が決勝戦まで進んだのは戦後初めてでした。
 試合は松山商業が初回に3点をとって熊本工業が追いかけるという展開になりました。9回裏ツーアウトランナーなしとなったところで松山商業の優勝が決まったと思われたのですが、熊本工業が同点ホームランを打って延長になりました。
 奇跡の大遠投が生まれたしたのは10回裏です。熊本工業は1死満塁とさよならのチャンスでした。3番の選手がライトに高々と大飛球を打ち上げました。誰もがさよならの犠牲フライと思いました。ところがこの回から守備固めに入っていたライトの矢野選手が、浜風に押し戻されたフライを取ると、キャッチャーにダイレクトで返球しました。80mの大遠投にもかかわらず、ノーバウンドでキャッチャーのミットに納まりタッチアウトとなったのです。
 私は仕事でこの試合は見ていませんでした。見ていた同僚から後で話を聞き、優勝を喜ぶと同時に見られなかったことを本当に残念に思った次第です。

9.平成10年、松坂投手の横浜高校が春夏連覇

 怪物・江川の後、高校野球を沸かせたピッチャーは松坂大輔です。
 平成10年横浜高校は春・夏連覇を達成しました。夏の決勝戦では京都成章高校をノーヒットノーランに押さえて優勝しました。
 ところでこの連覇は簡単なものではありませんでした。いずれもPL学園が立ちはだかったのです。選抜では準決勝で対戦し、横浜高校が8回に追いついて9回に逆転、3対2で辛くも勝ちました。
 そして夏には準々決勝で対戦、息詰る戦いを見せました。延長17回まで進み、横浜が9対7で逃げ切ったのですが、2回にPLが先制すると、横浜が同点に追いつき、さらにPLがリードすると、また横浜が追いつき、延長戦に入った後、今度は横浜がリードするとPLが追いつき、さらに16回横浜がリードすると、またPLが追いつくといった壮絶な試合でした。
 そして17回2ランホーマーで横浜がリードし、松坂が何とかそのリードを守りきって勝ったのです。
 翌日の明徳義塾との準決勝には松坂は先発することができず、この試合も7対6の辛勝でした。しかし決勝戦でちゃんとした結果を出したのはさすが松坂でした。

10.平成11年春、沖縄尚学が沖縄勢として初優勝

 沖縄では、沖縄から総理大臣が出るか甲子園で優勝するか、どちらが先だろうと言われていたようですが回答が出ました。昭和33年に首里高校が甲子園に初出場して以来、全国制覇は沖縄県民の悲願でした。栽監督率いる沖縄水産が平成2年から夏の大会に2年連続して決勝戦まで進みましたが、今一歩およびませんでした。それを沖縄尚学が達成したのです。
 沖縄尚学は九州の最後の枠で選ばれており、決して前評判の高い学校ではありませんでした。しかし1回戦では比叡山高校に1−0で辛くも勝つと、2回戦は浜田高校に5−3、準々決勝では市川高校に4−2と投手力で勝ちあがりました。準決勝の相手は強豪PL学園、リードすると追いつかれるというゲームでした。延長12回を戦い8−6でPLを倒すと、その勢いを決勝戦に持ちこみ、水戸商業を7−2で破って初優勝を達成したのです。
 試合終了後、沖縄尚学側のアルプススタンドから始まったウェーブは、やがて水戸商業側のアルプスを含めて甲子園のスタンドを一周しました。敗れたチームの応援団を含めて球場全体で沖縄の初優勝を祝ったのでした。

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